塩探訪ーみたじりをしっちょるきゃあねー   山口県防府市の三田尻塩田跡地を訪ね「塩」と「塩業」の現在地を探し塩の代名詞だった「みたじり」の歴史を辿る二人旅。

[音楽] よろしくお願いします えこれからどこに行きましょうか まずは天人様ですね あ懐かしいですね天人様天様で何をするんでしょうか 天人様の事なら はい の塩の話や津原猫の時代の塩なことも知っちゃるかと思って [音楽] ああ塩というと浄化作用とか殺菌作用とお嫁の関係ぐらいか頭に浮ばらなくってエビデンスが欲しいなとついつい思ってしまうんですが [音楽] それはないかもしれないけどま新食は昔から海に入ってみそをしたりしてる [音楽] からこと知ってるんじゃないかなと思って ああそうですよね ま塩はま必ず海からえされて上がるものっていうのは分かってはいるんですがそれと面とどういう風に関係する [音楽] やっぱり塩は生命維持に不可欠で大体のない大切なものだから新食さん色々知っちゃうんじゃないかなと思って [音楽] そんな風にも考えたことがなかったので まずは行ってみましょう はい行ってみましょう [音楽] ではさんにお会いしましょう さんにお会いし どっちにどっちに あれ?あさんこんにち 初めましてこんにちはこんにちは あその病のところをご説明だいてもよろしいでしょうか あのここに不装官完病の最初という日がありますけれどもこれは あ日本で田校のお見たをお祭りする神社として初めてできた天人様だということを表しているんですね ビチ猫はえ845年から903 年まであの障害でしたけどもその亡くなられたアクルト市の 904 年にはもうすでにオフテ番ングが出来上がったということでありましてそういった意味で 病というとお墓ということではありますけれども はいはい のこの法天番組は一の魂の宿るところという意味で病という言葉を使ってます あの今回こう三田じの演伝の話でまえ神社とか新職の方々はまお塩にまつわるお話っていうのはたくさんあるとは思うんですけども 天人様においてお塩というのは何か関係すること そうですねあの豊富天マ宮ではそのいわゆる塩にまつわるお祭りですとか あご優勝というものはあまりないんですけどもやはり塩というのはあの人 にとって生きるものにとってうん 絶対必要なものでもありますし特に神社にとってはお清めの塩という位置付けがありますので え毎日毎日毎朝毎朝餌ミケ塩水と言いまして米酒水塩この 4 種類は必ずおいをするようになっております 私たちの生きていくために必要なものとして毎日 はいそうですね 神様にも必要なものとして まこれはあのあ 道田猫が実あの歴史の人物であったというからというわけではなく日本の神様は全て はいはい あの生きるために必要なものを毎日毎日お話しているわけですね うん あ ねですから豊富でもあの古から円電で塩があの生成されていたという歴史がありますけども多分この法番組にもそのお塩がおいとして使われたんじゃないかなということはですね 小学6年生に食にあ 桜の食にはい 桜も結構たくさんありますんでね うん 津原猫が はい到着してまた 土台へはいはい あの旅出されたところということです あそういう場所ででもここがお所のスタート地点でもあるんですよね そうですねだからこのこの辺りが当時の海岸線だったんじゃないかなと ああ思います なるほそうするとこのあれですか勝の 1 本松って書かれているこの末があるっていうことはま海岸にた生えてたっていうことだと思うんですね [音楽] あでここが船つ場 そうですねはい 着線のって書かれていますけど ここへ船がついたんでしょうね ああ菅原田猫がここに来られてでまここがまホテマンクゆかりの地のスタート地点になるんですけど [音楽] はい そういえばあの光の気の昨年の大ガドラマの光の君の聖小さんもここの地に来られたって聞いたんですけど [音楽] だから聖小もここからこの船つ場から上陸していったんだと思います [音楽] ああなんかそうするとすごいゆかりのある場所に立ってるという感じがします そうですねで精オンて言えばはい あの毎々進行1000 年の魔法でも触れられてたんですよね はいそれってあの卒業生の高木信子さん そうなんですでたまたま我々が 156 年前あのジュニア幹事の時に その映画が放映されててあのその時にやはり同じように取材をしたよねまや君 [音楽] イエー [音楽] すごい立派なところですけど初めて私なんかちょっと初めてここには 広いですね そうですね皆さんどこに塩が使われているでしょうか?あとこのガラス [音楽] ガラスはもう 確実に塩がないとできないですから はい あとちょっとかここには見えてませんけど石鹸にも使われてます それからアルミ製品はい それから MDMエンカビニですねはい 今この辺作品が出てきましたけどまここには口に塩が使われてますそうですね ただポテトチップスなんか入ってますね塩 入ってますね で最近はあのチョコレートの中にも結構塩味が強いチョコレートもあったりすると思うんですけどあとは夏類でも夏類は結構今遠の原とかしそうです無ナッツが増えてきて [音楽] ま日本で作る仕様が 100万t弱 それで必要な量は [音楽] 800万t はいですから1/8はい 自給率としてはそんなもんですね 1/の時給率 国の測料時給率は今38%で次のところで 45% にしたいという目標を作ってますけど 塩については今日はそういうこと言われて ないですけど今のところま塩の 基本的にはあの 地産 資産地 そうでにですけど日本は足りないのでそのメキシコとかオーストラリアとかインドとか中国から輸入してますよ え日本は足りないってことは他の国々では塩はほぼ 100%北の参加国は 輸入ほぼ輸入ですけど はい他は他の国は大体時給 100%ではい 地産地症というか塩は重たいですから はい 運ぶと運賃運ぶお金がたくさんかかるから はい 普通はあんまり動かさないっていうのがとか 最近流行ってる塩バターですね [音楽] 塩バターンです これは量は書いてない食料はい今あの塩パンえ塩バターンを買ってきました食頭量が 1g入ってます美味しく食べるには 1g多い と思われる方もいるかもしれませんけど美味しくが私は大事だと思っています さんのそれは これは白い三種のチーズパンこれには食頭量 2.7gと書いてあります 結構通常だと多く感じますけどもま皆さんが美味しく食べれればいいのではないかなと私は思うんですが炭酸の中には食は入っているんでしょうか 入ってない 入ってないそうだから入学式の時当時はあれですよね入学式の時必ず桜が [音楽] 開いてたような気がするんですけど そうですね今はちょっと早くなってるよね うんそうですよね [音楽] なんか桜見るといろんなことを記憶が蘇ってくるっていうすごい綺麗あすごい綺麗ですね 本当 あここちょうど伝も見えますし桜がすごく綺麗で [音楽] すごいこそうですね 危ないとこで止めたねだけど すいません ちょっと危ないところでまだ車が来てないからちょっと止めましたが若い頃は本当に気にしてなかったんですけど だんだんこう少しずついろんな病気のこととかっていう話になってきて そうねうん まあ塩ちゃんと食べると記憶力健康増がるからあの [音楽] えでも世の中は 塩いっぱいうん取るといろんな病気になってくるって言われませんか?それで塩がなかなか食べてもらえなくなっているっていう現実 あ健康な人は塩を食べても ちゃんと排出できるから うん あの病気の人以外は大丈夫だと思うんだけど [音楽] はい そこがすごく1 番難しいところだとやっぱ思うんですけど カレーと共に増える病気う ん そうですね高血圧はまあのカレーとか遺伝とかま [音楽] はい 塩に感受性の強い人それとセンシティブの人は うん あの塩を過剰に取ると高血圧になるということですけど [音楽] 普通の人は排出できる人は大丈夫ということだと思うんだけど [音楽] うん 今ちょっと思いついたんですけどアルツハイマー病と塩との関係ってあるんですか どうなんですかね えちょっと待ってくださいはい あ後にしてあれでじゃちょっと危ないので失敗し 危ないですね [音楽] ほんのちょっとですよ ツモっただけでもうあの授業がなくなって皇帝で雪に雪だるまを作りに遊びに行った記憶が今蘇ってきたんですけど [音楽] 自分が小学生の頃は 230cmはええ ツモってた記憶があります えそうなんですか でさらにあれですか?じゃあ塩を巻くと雪が溶けるってことですか えっと塩 NAC は-21°になるまであの凍らないので はいあの負けばはい溶けるとはい いうことで 今は高速道路等東でもたくさん巻かれてます え今年はいかがだったんですか?東北の方がいいっぱい降ったと思 全国的にはあの過去ここ [音楽] 10年で最高ぐらい巻いたと思います あそうなんですかじゃあ塩はそういう時が多く降ったその地域ではすごく重要なものだったって そうですね今社会のインフラを守る 1つのアイテムになってます あそうなんですね [音楽] ドアが閉まりますさんに ドアが閉まります さんていうのはえっと前回東京の方のお仕上げであの博物館に伺って学芸の方とそ高さんていう方から 高さん それで色々お話聞いたら三田じの三じエデについてはとさんが最も知ってるっていう風に伺ってとさんを探し始めたらなんという 同級生の山本先生本さん [音楽] ピアノ先生でいらっしゃって 参り そもさんが教えだったとみたいですあこんにちは先生しております旅はねまだ本当 [音楽] お世話になりますいいえこちらこそ 初めましてどうも初めまして初 めましてよろしくお願いしますこちらこそよろしくお願いいたします よろしくお願いします会したかったのでください わあすごいですねま今手前はねク山とあの山であの青少年科学館のサラージュしてそれ超えていくと向こうの方に向くですねま天気が異常に良かったりするともう国先半島も見えるとはありますがうんうん [音楽] [音楽] ちょっとあのあちらの角があのなあの向こう島ですねうん ですからその向こう島の手前とか今ちょっと建物やってる海に近えたりとかが昔あの円伝があった場所になりますねうんうん でもうこのク山ですねこれをこう超えていってもう少し行きますとあの昔マリフ松原と呼ばれてたところありますけどその辺りがいわゆる中世海岸線ですね まリフはあのかつてあの中世にはあの辺り は片浜と塩を焼くところなりとも言われた まその当時から塩作りは行われていたよう ですけれどもま江戸時代になるとその先を さらにですねあの感覚とかで広げてさらに その感覚で広がった先の南側のところを ですね遠電にしていくようになりますね [音楽] ですか?あこれはあの円伝のこれは図になりますかね?これはあのそれぞれの浜あの式ってあの何やっていうことでヤゴのヤゴが書いてありますね これがま小浜中浜鶴浜大浜でもうちょっとこっち行くと西の浦浜あと江戸もありますけれども あの大体三田尻ではなんとかや浜っていう形でですねそれぞれの浜に野号がついておりまして うん でななんとかやなんとかやという形で呼ばれてっていう形がずっと続きましたね後の方もですねはい うん船を使ってここここが港なわけですよね はいそうですね この大体この辺りの港とかですねあの問い合わせ口はもうちょっとこちらですのでですねこの辺りですので まこういったところに船をつけてという形ですね うんで今もその一部が残ってるってことですかね?電公園 遠電公園があのが今この辺りですねこの北国屋越中屋と呼ばれるこの西側のところが円伝行為になってまして今煙突が残ってるおります うん でその横はもうずっと古くから使われている皮皮 まそうですねこの川はもう残ってる そのまま残ってるということで入りが残ってます はい で上船とかに積み替えて 移動するっていうことがありましたねそういったこの上とかはこの入り替の間も通れてですね 例えばあの円伝の燃料の石炭とかあと塩などを運んでいたりということがあったようです そういう物資もじゃあ運びやすかったっていうのも 1つの環境 そうですねいや運びやすいようにこの川を作ってはい そうですね 三たじりというやはり三たじり円伝ということですとやはりこうマスをいくつかもう区切ってですねあのマス付き浜と言うんですけれども もう明らかに最初からもう円伝にすごく便利な形に作ってあるあの 海水を取り込みやすい形にあの浜が作ってありましてですね でその間に結構カ橋あの付き卵カ橋っていうね付き橋読みますけれども あのちょっと真ん中が高くなってる橋がなんくつもかかってまして今ブリストンさんのちょうど川ぐらいに生き残ってましてあの市の文化街に指定しております ま遠電たくさん作りますけれどもたくさん 作ればそこにあるのは生産過剰による 塩の値段の下落で遠業者たちが結構苦境に 陥るわけでございます でどうするかということであの ま大感が広く意見を通った中で田中登録が ま散パチ買い持ち法ということで出しまし たこれ3パパチっていうのはま3月から8 月までの円伝創業にしましょうっていう冬 は休みましょうとまた買え持ちはですね あの浜を2つあるいは3つとかに分割して あのそれぞれ分けてあ創業しましょうと いうことであの施設内会各地の営業地も やっぱりその生産調整に参加するように なってあの仕様の値段が安定していって 遠業が持ち直していった あお久しぶりこんにちは どうもおさになります今日は前に東京はいおこちらこそ今日はよろしくお願いします はいえあの先輩で岩さんあの [音楽] 49年中です今日はよろしくお願いします 4年の私が皆さんましょはい [音楽] [音楽] 生の中です初めましてよろしくお願いしますでえさんは宮さんと高校ですけど [音楽] 49はい私は49 年ですです高校ですじゃあ今前にもうあのジです 中ですよろしくお願いします あえ暴校行の先輩方と後輩の方でございます そうですごぶ沙汰してますも私あの これ来ないはい覚えて覚えてますよ1月の 4日 いやそのでもその時本当に色々勉強させていただいて 本当に塩の奥さんですけど ちょっと待って何年ません?えっと昭和 52年 [音楽] タ中出身でございますよろしくお願いします よろしくお願いします どうですか?藤本でございますじゃない 出てたってこともうん 大量にここで生産できた理由じゃないですかっていうことを 最初から入り作ってるっていうあんまりないらしいですよね [音楽] うんうん だから最初はまこちらに来て色々言ったらここはねお話しされたようにあの瀬戸内会沿いの温暖な気候とあとま温度さが激しいというのとあとそれから雨が降りづらい うん降らない降らないでそれと カ差が大きい看板差が大きい瀬戸内会 瀬戸内会のそれと砂ですよね 砂がいいてた質 砂がきや ああ塩がつきやすいですねできたもんで髪の石と下の席のはね 両方と海の宿場です石 ですでここに北前船が塩を こう積んで 出るために寄り出したでモリの殿様が ここ開き船が入るんだから中野石にしていらば町にして海の でうん 色々芝小屋とかとかあるいはその有教を作ったらどうかって言って作ってくれた はい 今線だったら思いに動けないそうするとこんな狭いところで座したら うん塩が早く あげないと海に溶けちゃう 逆に三田尻の塩を大阪へ持ってこうとしたら 難しいああだから だからここからこっちに北海道の地方がだから僕の友達なんか新潟におった友達とか鳥取の友達 [音楽] あの塩のこと多いた尻り取ってくれ うん 塩の大名としてそれ森川さんもいいよっちゃったよね 北海道の放送らしいとか 塩のことを満たじてうんだから豊富の人間よりも このそちらの方がじりてこ はいじりっていう言葉認識がうんうん 商脇 3番歌式であとあの女性が手伝うま 言い方悪いけど寄せ女なっていうなんかですよ 素直ねからですよ でその時合わせてくこともちろん戦後 ああはい貸式ってのはあの 飯と板の登板のことも はい貸ああそうね えなんか残ってる 飯と雑用学はい だから今日は足が歌化式じゃていうのはあ 今日は飯先の登板だ 今日はうんうん過って言ってなんかもう あれですね夜中から はい仕事してた2時から始まりますねはい その時にねあ鎌崎がいえこれこれが はいはい 午前2時から であの働きますから飯食わにゃいけんじゃないですかその飯のあの準備とかでこう [音楽] 5回ぐらいするわけです だからその情報やりながらもどんどんやっぱりまと見習いですよね うん使い勝手のいいまるは任せて うん まあ相撲で言うとちゃんコ番みたいな ちゃんとみたいな1年生ですよねええ その本当に一生懸命働いてる人ってやっぱり技術者って扱いた軽労働じゃなくてまある程度の技術がいる 私は技術者っていう位置付けで見た方が うん安純ロードやらてことは多少立ちをいだから大島軍とかあっちの小軍の方から 来た人が多い多くて 定着した人が多いですね ここは てことはやっぱりそれだけ方法はそれそれがあるとまある程度賃金払えるわけだから普通の農業でまやるよりはいいんでしょうなうん でその賃金をもらった人たちがま生活をこしていくので基本的にその周辺がもっと潤っていくね普通のま社会ができていくていう で中野石であの歌でいくらでも伸ばして壊すから 持って帰るお金が少なかった いやあのあのができてたができてた えっとですね 昭和初期にですね高等小学校卒業の歌式の日が 1円うんうん商野が1円50 程度だからあんまり差がないんですね うんま親も雇われです 雇商と言いながら雇ですからね で工場労働者の初人級が 80戦はいうん中堅層が1円20戦から 30戦だからやっぱり高賃金 賃金ある意味ある意味ではいですが 75号が支給されてたちゅうから うんああ あやりここも支給されてたんですか だからいわゆるその食品にちょっと金がいらなかったからでも ま工程金が残ってなかった 遊んでただから新天座とかあったよね あのねあったよね新町の業でま今日的な物の見方をするとあのこの営業ってのはあのエコーなんですよねだから無駄がないっていうか自然由来のものであって自然由来のものであってそれをまた活用していくっていうで塩という製品にするだけじゃなしに [音楽] その塩を作った後出しっていう うんうんまあの豆腐のみたいねえ あのいしっていうのが 1つのあの肥料として 農業に使われてたんですよね あの科学肥料ではなしに自然由来のえ肥料としてえ使われていたという まそういうまある意味の今日的な見方をするとエコですよねエコ産業で産業え え有害なものを出さない えそしてだからそれがまた土に変えていくわけですから うん 本当循環型のえ循環型のあの産業であったというあの高杉新作とか坂本亮り馬とかが来ておりますのですね なんかうちにも来たっていう話はこ あの関屋さんにもはい あの師たちが結構立ち寄ってということで あれですよね あの関屋さんの近くのところにはあのクが来られたそうですね あのイギリスの低督がですねあの 爆末の阪神の高地元とですねあの階段をし立ちというのがございまして それが関さんこの近くではい お近くですねはいそれで その時の写真っていうのも あの真ん中にグっていうとこ両側に高力とその吉の元のりがですね映ってる写真っていうのが はい残っているそうですね でそん時にあのそれこそで長州 5 のあの伊東とかなんかが通訳とかをしていたようですけれどね あの100万量ありました うんそのうちの70 万量を新政府に検してます うんで30万量を自後の生活にあはな すごくお金持った一般財政だからはい 常が2V型っていうとはい そうです でも黙っちゃったわけじゃないんですよあのちゃんと部育産業育成に使いますよっちゅって爆ではしてたそうです ただ中身爆末になった中身まではい 奥高は分かりませんよね だから塩でもう殺されない 明治心が成功したんですよ その原導をしていく中で小さい子供たちに ま栄養共有の方あの学校の現場でも食育を することがあるんですけどま学生たちに 送り出す食育の中に果たして小さい時から 塩はダめだよって教えることがいいのか どうかオフィスの中でうんそんなに汗を かからずにうんいいいい意味で汗をかう そういうのもあるんじゃないかと思うよねうんうん だからそこそういう時に適切な量だと思うですよね そうね 適切に取らなければいけない仕様であって遠イコール禁煙ではないていう そういうこう認識の違い何かもこうこういった伝い性の中からこう理解いただけるといいのかな [音楽] [音楽] 多いしぎを取ってくれんかいね [音楽] [音楽] [音楽] そこ [音楽]

2025東京九華会「防府LOVE 〜合い・会い・相い・愛」をテーマに企画された講演会イベント『知っちょる? 塩の新常識』〜の中で公開されたドキュメント映像。三田尻塩田跡地を訪ね「塩」と「塩業」の現在地を探し、塩の代名詞だった「みたじり」の歴史を辿る防府高校卒の二人旅。
その二人は日本食塩製造株式会社会長・貞永憲作氏(防府高校49年卒)と十文字学園女子大学講師、健康栄養学科准教授・德野裕子氏。貞永家は江戸時代以来の塩業を260年間に渡り支え、三田尻塩田の発展に尽力してきた塩業の中核をなす塩問屋であった。その五代目に当たるのが貞永憲作氏である。三田尻塩田の歴史を辿る旅は塩作りのDNAを覚醒させる旅でもあったことだろう。そして新たなる覚悟を持って塩は命にとって代替のない必要不可欠のものであることを塩の真実として、その価値を世に問うていくであろう。
一方は德野裕子氏は健康と塩の関係は栄養士としてまた栄養学博士としての重要な研究対象であり今日的な”食べる塩”をめぐる減と増の狭間で塩への理解、啓蒙が社会的な混乱期にあることを憂慮していた研究者の一人である。彼女はコロナ期の保健所での栄養指導と昨今注目を集めている熱中症対策を通して、医療現場でも塩への社会的認知に温度差があることに愕然としてきたのである。彼女は消費者として母として研究者として教育者として適塩を提唱する栄養士を目指す。
二人は三田尻塩田跡地を訪ね「塩」と「塩業」の現在地を探し歩き、塩の代名詞だった「みたじり」の歴史を辿りながら三田尻塩田をこよなく愛する防府高校同窓の仲間と出会い、防府の地と歴史に魅了されている防府資料館の若き学芸員さんとの出会いを果たしながら旅は続くのだが、
かくして三田尻塩田の入浜式塩田を再現した三田尻塩田記念産業公園で勝手に始まった
Mitajiri Salt Summit ??? そこででわかった事は塩業は本来ECO産業であり、江戸時代-幕末-明治維新-戦後の昭和の時代の変遷を支えた政治・社会・経済・産業資本でもあり続けたという事実だった。是非、ご覧ください。

*お詫びと訂正
本編30`07″のテロップ ” 三田尻塩田は昭和27年終焉する”の箇所で 年数表記昭和27年→昭和34年の間違いについて訂正してお詫びいたします。大変申し訳ありませんでした。
正しくは” 三田尻塩田は昭和34年終焉する”でした。

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