山形をゆく 《霞城~唐松観音~文翔館~最古の鳥居~垂水遺跡~山寺》 山形市内に根付く岩石を見て回る

山形城の東大手門です。北側に目を向ける と石垣、お、そして線路です。 普通の伏線の線路に見えますが、よく見る と左側と右側で2本のレール同士の幅が 違います。 左側はレール同士の幅が狭いJR在来線の 企画で、右側はレール同士の幅が広いJR 新幹線の企画です。このようにそれぞれ 単線の線路が並んでいます。 今回お送りするのは山形市過剰出発点に 街中に散らばる岩の景色をフラフラ巡り、 最後は山寺を目指します。 山形城は地元では霞のお城で過剰あるいは 霞ヶ城と呼ばれています。ここは市街地に 近い東大手門です。多くのお城と同じよう にマガと呼ばれる直角に曲がるツールを経 て二の丸の中に入っていきます。 すぐに目に入ってくるのが戦国部将も神 吉明の像です。 も神吉明といえば昭和62年の大ガドラマ 独願龍サ宗で原田義おさんが演じるも神 吉明は40年近く経った現在でも強い印象 があります。 さて、この像よく見ると像全体を馬の 後ろ足2本だけで支えており、それ以外の 支えや枠はありません。 像全体は3000kgほどあるようで、 これを2本足で支えるという技術はかなり のものです。 ちなみにこちらはも神吉明の追いにあたる 伊マ宗の牙像ですが3箇所で支えられてい ます。このように日本にある様々な武将の 牙像がほとんど3本足か4本足で支えられ ていることに比べると2本足で支えられて いるも神吉明の像は高い技術が見えてき ます。 これは山形という高い技術を持った居物の 作品です。 着物は金属の整形方法のうち肩を作って 高温で溶かした金属を流し込んで作る方法 のことです。 山形は平安時代の全年の駅の時本源の代吉 に同行した獲物職人が山形の地の砂と土が 居物の型を作るのに最適だと見い出し山形 に住みついたのが始まりと言われています 。 また山形は多種多様な金属鉱山があった 土地柄で鉄だけではなく銅を使った製品を 作ることができたのです。 も神義明は芋人の町として道町という地区 を作って保護したそうです。現在の地形図 で見てみましょう。 当地のま川はお城と同町の間を流れてい ました。 町のりには江戸時代に出散参りの客が たくさん通っていたそうで都い物として 仏具や鍋などを買い求める客が多かったと 言います。 現在の道町を通る剣道には山形芋の発症の 地を示すモニュメントが置かれています。 この鉄便は高さが1.6mほど重さは 400kgほどあるそうです。 こちらも山形で作られた矢倉をした モニュメントです。 鉄便も矢倉も同じ道路沿いに2箇所ずつ 設置されていて、山形の魅力を伝えてい ます。 さて、その感染道路から狭い路地へ入って いきますと、金属加工などの街場が並ぶ 一角があります。 その1つ、西村工場さんです。 この西村工場こそが山形のも神吉明像日本 足で立つ牙像を作り上げた工場だそうです 。 この像が作られたのは1977年も神吉明 の時代から300年以上が経った昭和の 時代に自らが保護した同の工場とその職人 の手で3年以上かかって作られました。 この牙像は繊細で勝つ丈夫で、東日本大 震災でもビクトもしなかったそうです。 さて、過剰山形城の二の丸の内側は過剰 公園です。 戦前は陸軍の連帯があり、戦後は運動公園 として整備されたため、多くのスポーツ 施設がありました。 近年ではスポーツ施設を他へ移転させ、お 城の発掘を進めた後、私公園として整備さ れつつあります。先ほどの東大手門も 1991年平成になってから復現された ものです。 日本丸の内側には本丸があります。その 本丸はお掘りといで取り囲まれています。 本丸に元々天手はなく5点があったよう です。 ところでお城と言いますと石垣と天手の イメージがありますがこのイメージは 西日本の流行であって山形城はも神吉明の 時代まで石垣きではなく土類で囲まれてい たようです。 も神家はお騒道で力を失い1622年に 阪種になった鳥たによって石垣きが作られ たとのとのことです。 過剰の石垣きの奥は安算感出てきています 。 安山感は火山のマグマが冷えてできる岩石 で火山の多い大三脈に近い山形では手に 入りやすい石材です。 その多くの安算感は角が取れて丸くなって います。つまり川に流されてきたという ことです。 山形市を流れる舞笠は当時はお城のすぐ 北側を流れていましたからそこから ちょうど良い石材を調達してきたの でしょう。ただしお城に石垣きを築づいた 鳥井たまによってま川はお城から離れた 現在の龍路へと移されました。旅重なる 洪水からお城を守るための流路変更です。 石材の運搬については公園内の野外に展示 があります。 ま、の河にある大きな岩石は矢と呼ばれる を打ち込み手頃な大きさに割ります。 ヤー穴の跡が残っている石垣きの石材が 野外に展示されています。 石材はシュラと呼ばれるソリに乗せて何本 もの丸田の上で引っ張って運ばれたようで その復元模型も展示されています。 こちらは安静2年と刻まれた石材です。 安静2年といえば爆末の頃ですが、石垣き の建造あるいは修復が続いていたの でしょう。 こちらは石材で作られたベンチです。過剰 の石垣きは元々は座王を始め付近の安算感 に由来するものが多数を占めます。しかし 、平成以降の修復の時には近くだけでは 石材が調達できないためガ算の安算ガも 利用されたようです。このベンチは合酸の 安算癌のあまりで作られたようです。 さて、お城の南性側、羊の方角と猿の方角 の間にある羊矢の後です。 ここも発掘の後、石垣きが復現されてい ます。安算癌が多いのですが、山形大学の 大友先生らの調査によりますと、安算癌 以外の岩石もかなりの割合で含まれている ことがわかります。 電は安算と流門ガの中間的な火山癌です。 つまり安山とデイサイトと流門癌は火山 活動の時にマグマが急に冷えてできた火山 癌です。 一方加工癌だけは少し違っていて、マグマ が地下の深くにあった時に冷え固まってい ます。つまり他の3つとは異質な岩石です 。 実際他の3種の岩石は地質時代で言うと 新聖代にできた岩石なのですが加工癌だけ が中世代にできた岩石です。 実質を見てみましょう。 山形の市街地は青く塗られています。これ は東側を頂点とする地です。そして緑や オレンジなどで塗られているところは火山 です。 山形城の石垣の安山はあちらこちらから ま崎側にもたらされたもののようです。 そしてデイサイトはヶ崎 プールジャバや松木ドライビングスクール の北側斜面付近そして流門ガは千歳山から 取られたもののようです。 千歳山は山形市のちょっとしたシンボルと も言える塩水系の小さな山で標は471m です。 今から1200万年ほど前、日本列島が 大陸から離れて島になった後、まだ海底 だったこの地に地下から流門出のマグマが 登ってきてできた山です。 陸地になった後綺麗に進食され、今の塩水 系になりました。 さて、矢グの石垣きで異質なものがこの 加工癌です。 他の岩石とも出来方も異なる岩石です。 実質で見てみますと、赤く塗られた場所 です。 この赤い部分はもう少し広域な地質図で見 てみますと、福島県から茨城県にかけて ア熊の方には大量にあるのですが、山形 付近にはさほど多くないことが分かります 。 それではこの赤いところに行ってみ ましょう。 チュートリアルのロゴで知られる山に乗っ て市街地から30分弱川 を上流へ向かい空松にやってきました。 山形自動車道の山形座王インターにも近い 場所でここから東へ行くと山を登って宮城 県との県境佐屋峠です。 バスを降りて最初に見えてくるのは巨大な 鍋です。 山形の秋の風物市といえば芋会ですが、 日本一の芋海では日本一の大鍋で芋を作り ます。 ここにあるのは1989年の初代の大鍋で 直径は5.6mあるそうです。 設置、調理、洗浄、撤去全てクレンで行う そうで動かす部分は機械油ではなく全て 食用油を使っているそうです。 [音楽] 2025年も第37回の芋会が開催される とのことで、現在使われているのは3代目 の直径6.5mの大鍋だそうです。 その大鍋を眺めながら の子流滑川の橋を渡り斜面の下の歩道を 歩いていきます。 原松観音は平安時代の双剣で京都の清水寺 を真似て作ったとも言われています。 崖を歩いていくとお地蔵様がありまして その向こうにお寺があります。 加工癌の崖はやや風化しているところも ありますが、そこに太い柱を立てて非常に 高い建物が見えてきました。 [音楽] ちなみに崖の奥は山形自動車道がトンネル で通っています。 階段は金属性でその他あちらこちらと近代 的な部材で補強されていますがこんな場所 によく作ったものだと関心させられます。 おそらくかつては床は木材だったの でしょうが現在はタイルバりになってい ます。そしてこのお道から見た景色が見事 です。 ま、川が左から右へと流れており、その 洗浄地の奥義の金辺の部分がよく見えます 。 [音楽] この付近が過剰山形城のやにあった加工癌 の出所と考えられています。 ここまでご紹介しました通り、過剰山形城 の二の丸と本丸は現在過剰公園として整備 が進んでいます。その外側に3の丸がある のですが、3の丸の大きさは東西に 1580m、南北に2090mもあり、 現在の市街地がかなり含まれます。 こちらは市街市地の10日町。山ビルから も近い場所です。ここにあるのが3の丸の ド類の跡です。 三の丸のお掘りやは市街地の中で消滅した ところがほとんどですが、こうして残って いるところもあります。 明治9年に現在の山形県が成立した後、 山形県庁が設置されました。その場所は 現在山形県通称文章官のある場所です。 ここは山形城の本丸や二の丸どころか わざわざ3の丸も避けてその外側の土地に 作られました。 現在の県地時にあたる初代権霊は三島三で 土木懸礼と言われるほど道路や建築物を 積極的に作った人物です。明治10年に 山形健者が作られたのも彼の手によるよう です。 地刑図を見ますと文章官はメイン ストリートの突き当たりにあり時代のお城 とは決裂別して3の丸の外側に近代的な 山形市を象徴するような配置になってい ます。 残念ながら当時の建物は1911年明治 44年の大価で消出してしまいましたが、 同じ場所に1916年大正5年に2代目の 県庁が立てられました。それが現在の文章 官です。 この土地はも神吉明の時代にはま川が流れ ていた場所に近く。南の先側はその後北の 方へ付け替えられましたが、古い川の流路 だった部分は低い湿地のような場所だった はずです。 つまり文章官の正面玄関に比べ奥行き方向 は元々低い土地なのです。 文章官は普段は県民や観光客が訪れ見物 することができます。 その市街地側から玄関を入って最初の フロアーは2階なのです。 これは文章感のウェブページの案内図です が、自由に見物できるのは玄関を入った2 階とその上の3階です。外からよく見ると 1階部分は地面に半分埋まったように見え ますが、裏手の方ではちょうど地面の高さ ということになります。 それでは文章官の見所をいくつかご紹介 いたしましょう。まずは何と言っても時計 灯です。現役の時計灯としては日本で2番 目に古いものだそうです。ちなみに最も 古いのは札幌の時計台とのことです。 文章官の時計灯は4面全てに時計があり、 今でも数日に1回職人の手で巻き上げてる とのことです。 続きまして外壁です。 正面に向いた外壁は加工癌のタイルが 敷き詰められています。この加工癌の出所 は現在の南陽市かつての中川村の鎌畑から かつての金山村にかけての地域で採掘され たものだそうです。 現在の地刑図ではこの辺りでしょう。 そして地質図ではこの赤いところが加工画 に当たります。 先ほどご紹介しました空松観音の加工癌と 同じく中世代白秋の加工癌なのですが こちらの方がやや古いようです。 この加工癌はかつて顕在として広く使われ 金山み影と呼ばれることもあったようです 。 本当は県庁全体を加工癌の石作りの建物 に従ったようですが、予算の関係で加工癌 は表面に張るだけになったということだ そうです。 続きまして屋根です。 屋根は現在の宮城県石巻市の小津地区で 取れるスレートです。 スレートとは癌が強く圧縮されてできる年 のことです。5月の年はスズりの代表とし て大変優れている。ほ、現在としても東京 駅の屋根の一部に使われているなど大変 有名です。 そしてここ山形でもお隣宮城の石材が立派 に役割を果たしています。 館内に入ります。入ってすぐは2階でそこ から代理席の柱の間を抜け3階へがあり ます。 階段の床には赤いカーペット、天井には アーチがかけられ、随所に装飾が施され、 豪華な作りです。 こちらの部屋は現在でいう会議室あるいは 行動でしょうか? 柱は白い代理席、そして天井近くの細かな 装飾がキラびやかです。 階段や室内の柱に使われている代理席は どうやら山形県内さんのものではなさそう です。 ベランダに出ると市街地町方面のメイン ストリートが正面に見えます。 初代権霊三島三が 役所などを並べて作った街並は時代を経て 建物こそ新しく立てわっていますが多くは そのままの位置に並んでいます。 中庭です。土地自体が低いために窓から 見下ろす形になります。ここは石材では なく全てレガです。 文章官は正式には山形県共官。普段は博物 館的な役割を果たしつつホールなど県民の 活動に使われているようで、イベントの時 には正面の広場が賑わいます。 文章官を出て街並に出てフラフラと歩いて いきます。 年代の街並の中に味のある古い建物を あちこちに見かけます。 現役の建物として使われているものも多く 、現代の街並みによく溶け込んでいます。 町の中心の7町です。 飲食店が数多く並び、市民や観光客が 集まるところです。 近くには公共施設や病院、商業施設が 立ち並ぶ町の中心です。 水路が整備されています。これは5天です 。 市内には同じような水路が5系統あり、 山形5と呼ばれています。 山形の市街地は の洗浄地の上にあります。 洗浄地は山から運ばれた土砂がツモって できた土地で水けが良く水は地下を流れて 洗浄地の終わるところで沸き出します。 山形城の二の丸のお掘りはこうして 沸き出した水を利用したものです。 水けの良い洗浄地は生活のための水を得 にくい土地でもあります。 さらにも神氏に変わって阪種になった鳥井 たは水害対策のため川 を市街地から話しました。 代わりに川の上流に5つの席を作り、そこ から水路を引いて生活要水、農業様水、 そしてお城のお掘りの水の確保に使ったの が山形5の始まりです。 5つの系統ともに水路の名前ではなく席の 名前で呼ばれているところが珍しいところ です。 山形戸籍は昭和の半ばまでは生活に欠かせ ない水として使われ、現在では農業要水 などの他地域進行としても使われています 。 さて町 の歩道のタイルにこのような観光案内が はめ込んでありました。 ここまで山形市内の岩石を色々見てきまし たが、最も大切な岩石をまだ見ていません 。早速行ってみましょう。 山で南へ。上の山やざ王へ向かう路線で 10分弱。元きのバス停に着きました。 これは2023年に訪れた時のものですが 、残念ながらお目当ての石ドリーは半年に わる保存修理工事の最中で中を見ることが できません。 ちなみにここの知名は鳥が丘です。 2025年に改めて訪れてみました。今回 は見ることができました。 平安時代に作られた日本って最も古い鳥ー と言われています。 成暦970年代のものとされ国指定の重要 文化剤です。この鳥は地元では様々な 呼び名があるようです。 幅に対して高さが3.5程度とさほど高く はなく、柱は大変太くて斜めにならず直立 しています。 土地のようの鳥といえばスタイリッシュな 鳥がありますが、それとは雰囲気の違う 堂々とした風格の鳥です。 材料となっている岩石の種類は業界癌です 。 火山や軽石などがツモった後、固まって できた岩石でこれまで見てきました安算癌 や加工癌などに比べ空洞も多く軽い岩石 です。 大変加工がしやすく鳥にもよく使われたの でしょう。ただし風化しやすいために崩れ やすいという特徴もあります。 2023年の保存修理工事では様々な調査 もなされ、十分な強度を持っていることが 分かったようです。なお土台部分は昭和の 頃に作られたようです。 時代以降この地には山岳進行として流山 進行がありました。 竜山は座王連邦の山の1つで標は 1362mです。竜山は山寺の立寺やお隣 宮城県町島の随岸寺などと同じく縁によっ て改ざされました。 この流山参拝への入り口がこの鳥、西から 東へくぐる向きに設置されています。 鳥井のすぐ南側には川が流れていますが、 その名も竜山側。かつて鳥をくぐって参拝 に向かう人々はこの川に沿って山を登って いったことでしょう。 時の石からさらに南へ3kmほど上の山市 との教会に近づいた座王成沢地区にも 石ドリーがあります。 こちらも国指定の重要文化剤です。元気の 石ドリーに比べ高さはやや高いのですが柱 の直径は同じ程度です。 お時の石ドリーと同じく業界癌で作られて おり、元々は火山や軽石で表面には多数の 穴が開いています。風化している部分も あります。 こちらはできた時期が小門所に残っており 、成暦119年と分かっています。元きの 石ドリーの方が成暦970年代でしたから 同じ平安時代でもこちらがやや新しいと 言えます。 この鳥も流山進行が関係していて、参拝の ための入り口として作られたようです。 ところが流山に登るためにはこの場所から 東へ向かわなければなりません。しかし この鳥をくぐると北に向かってしまいます 。 そもそもこの鳥は8万神社の鳥井なのです が、この8万神社ができたのは14世紀の 室町時代とされており、鳥ができたよりも 200年以上後です。 つまり平安時代の頃は流山進行のために 使われていた鳥が室町時代になって八神社 の入り口として用途が変更されたことに なります。そのため鳥井の向きを90° 変える必要が出てきて新たに基礎となる岩 を置いたと考えられています。 元きの石よりも背が高いのはこの基礎の分 だと考えられます。 石リーから流ザに向けて1.2kmほど 登っていきますとうつ星水に着きます。 ここが成沢の石ドリーの業界癌を調達した 場です。 現在は草に覆われ立ち入りもできなくなっ ていますが、かつて取った業界癌のあまり が残っているそうです。 地質図を見てみましょう。成沢の石取の 業界癌は黄緑のところから切り出されたと 考えられます。元気の石鳥の業界癌も 同じく緑のうちのどこかから切り出された のでしょう。 今からおよそ1500万年前、大陸の一部 だった日本が引き離されて劣になった頃、 あるいはその少し後、激しい火山活動に よって教界癌が大量に生じました。 一方龍山は座王火山の一部でここ100万 年それ以内でできています。 つまり竜山の進行のために竜山よりも はるかに古い業界癌を切り出して鳥を作っ たとでも言えるでしょうか。 [音楽] さて2つの鳥を見てきましたが山形市で 業界岸といえば忘れてはいけないメジャー な場所があります。山形市の北部へ向かい ます。 [音楽] JR山線の山寺駅です。駅のホームから 北側を眺めると川を挟んで崖が迫り、その 斜面に張りつくように山寺立寺が見えます 。 メジャーな観光地の最寄り駅なのですが 駅員さんはおらず駅舎は工事中でした。 [音楽] ここから立車く寺ともう1箇所を目指して いこうと思います。 駅を出まして立川を渡ります。 向こうに見えているのはJR山線の橋梁 です。 仙台駅から山形駅へ向かう電車がちょうど 山寺駅に着くところです。 下を覗き込んでみますと、そこは白い業界 核出てきています。 地形図を見ておきましょう。この後まずは 利石寺をスルーしてた水遺跡に先に行き ます。そして戻ってから最後に山寺離寺へ 登ることにいたします。 立川を渡った後はすぐに立寺の入り口で 業界岸の鳥が立っています。 観光客がたくさんいて、土産物屋や飲食店 は大変混雑しています。 ここはとりあえずスルーして東へ向かい ます。 観光客で逃げ合うエリアを抜けていくと人 の数はぐっと減って歩きやすくなりました 。 先山線の臨時快速列車を見上げながら駅 からのんびりと30分ほど歩いて千住員の 下に出ます。 戦住員はお寺だと思うのですが、鳥がある ので神社かもと思いつつ最初に鳥をくぐっ て階段を登ります。 洗山線の線路を渡るのですが遮断機どころ か警報機も設置されていない踏切りですと 言いますか、そもそもこれが踏切りなのか どうか。ただ三道は間違いなくここをまい ているので慎重に安全確認をして超えて いきます。 千住観音道の脇を通っていよいよ山寺の 裏山峰の裏と呼ばれる山へと入っていき ます。 野生動物注意のポスターが少々気になる ところですが、それなりに人も歩いている ので大丈夫かなと思いつつ山の中に入って いきます。 歩道は整備されていますので歩きやすいの ですが、それでも運動不足の身には急な坂 がなかなかきついところ。 それでも20分ほど頑張って登ると目的の 場所が見えてきました。 [音楽] この辺りからたる水跡と呼ばれているよう です。 巨大な壁のような崖とその表面に無数に ある蜂の巣のような穴、独特の空間の中に 足を踏み入れました。 蜂の巣のような構造は雲型新食によって できていると考えられます。 穴のくぼみに甘水が溜まるとわずかに含ま れる円の決晶ができます。その決勝が年月 をかけて成長するとやがて岩石ごと 剥がれ落ちます。1mくらいの穴になるの に1000年かそれ以上かかるそうです。 円の中でも流産ナトリウムあるいは円価 ナトリウムの影響が最も強いそうです。 特にここの雲型新色は大きなくぼみの中に 蜂の巣上の小さなくぼみがあるという2段 構造もあちこちに見えてとても貴重です。 ちなみに雲形新食の仕組みは宮城県の当時 の高校生が山寺を研究したことで大きく 解明に進んだそうです。 この辺りは大正時代頃までは総理は山節 主元者の修行の場だったそうです。 山寺を改ざした縁人もここの岩場が侵食さ れた凍結のような場所で修行したと伝え られています。 最初の鳥ーからの標高差がおよそ100m 。往復1時間と少しでなかなか体験でき ない光景の中に入り込むことができました 。 山を降り山寺駅付近に戻ってきました。 玉にを頂いて休憩し、次は山寺立寺を登り ます。 山寺は三門を通過する時に入量が必要です 。一般の人が行ける終点は奥野です。そこ までほとんど階段が整備されており、3問 までの段数も合計すると1015弾との ことです。これは経路によって多少変わる と思われますが、ともあれおよそ1時間 かかるという奥の委員を目指します。 文言が掲示されていました。この時刻まで に下山できないとどうなるのでしょうか。 さて、先ほどの峰の裏た遺跡もこちらの 山寺立寺も業界癌でできた山です。日本 列島が大陸から別れたおよそ1500万年 前かその後の激しい海底火山活動でできた 火山がツもって固まったのです。 山寺といえば松尾場の一区が有名ですが、 そのセミ塚がある場所です。業界癌は 細かい穴が多いのでコンサートホールの壁 と同じでセミの声もしみ入りやすいの でしょうか。 さて、およそ中間日するニオ付近からの 眺めです。先ほどのた水遺跡で見た雲型 新食がぼちぼち目立ってきました。 場所によって目立つところとそうでない ところがあるようです。 そして修行の岩あるいはシャ迦神峰と呼ば れる新食され残った急車面の岩場にある 修行の場です。危険な岩場故えに命を 落とすものもあったとかもちろん観光客は 立ち入ることができません。そしてその 周辺にも雲型新食による穴がたくさんあり ます。 [音楽] に近づいてきました。山頂ではないのです が、山頂売店という名の売店があります。 ここまで商品を補給するのも大変そうです 。 そして郵便ポスト。山形中央郵便局の担当 で休日を覗き1日1回の収があるようです 。 毎日郵便局の方が配達と収のために105 弾の階段を登り降りするそうです。 冬の積の時は大変そうです。 ようやく奥のイ院が見えてきました。その 直前にあるのはこの動画の最初の方でご 紹介した山形です。 明治時代に同町の職人の手で作られました 。 大変薄い金属を丈夫に加工してあり、また 部品同士は溶接ではなく凹凸を組み合わせ て繋がれているという高度な技術を集めた 作品です。 そして奥のイまで登り切りました。 1番下の標が230m、そして奥のイが 395m、標高差は165mで運動不足の 私には奇跡的な数字です。 [音楽] ここから下山なのですが、登山とは別 ルートが用意されています。そしてその 下山ルートの途中に絶景が待っていました 。 と々雲型新食を眺めながら5大道へ向かい ます。 ここは山内で随の展望台です。 五大道の周りの業界には火山豆石が含まれ ています。 火山豆石は火山噴火に伴って発生した 石ラウンから雨が降った時火山倍まみれの 水滴や兵ができてそれが落下しツもって できたものです。 [音楽] 同じ立時の業界癌でも場所によっていくつ かの顔つきを見せてくれるものです。 最後に五大からの景色です。なんかには JR山寺駅がはっきりと見えます。 この場所は東側が大山脈で西側が山形凡地 です。つまり西に向かって開けている場所 です。そのため西側に太陽がある夕方には 絶景を見ることができます。 こちらは東側でカメラを徐々に西側へ 動かしていきます。これを撮影したのは秋 の16時頃ですから、なかなかいい タイミングと思われます。 今回はここ山寺で終わりにします。長々と お付き合いくださりありがとうございまし た。それではまたお会いしましょう。 チャンネル登録よろしくお願いします。 [音楽]

山形城から市街地,唐松観音,日本最古の鳥居,そして山寺へ。山形市内をめぐりつつ,山形の岩の魅力を探ります。

■主な収録内容
山形城,霞城,最上義光,銅町,山形鋳物,鳥海月山両所宮,
唐松観音,馬見ヶ崎川,芋煮,文翔館,雄勝,七日町,
山形五堰,元木,蔵王成沢,石鳥居,北山形,
冷しラーメン,峯の浦,垂水遺跡,山寺,立石寺,雲形侵食
安山岩,デイサイト,花崗岩,凝灰岩,霞城セントラル

■撮影時期は,おおむね次の通りです。
2023年7月 元木,蔵王成沢
2024年11月 霞城,文翔館,垂水遺跡,立石寺
2025年6月 霞城,銅町,唐松観音,元木
その他の時期の写真も多く使用しています。

■動画内で登場する岩石の年代順まとめ
中生代ジュラ紀
・粘板岩(スレート):文翔館の屋根(宮城県)
古生代~中生代?
・大理石:文翔館内(県外?)
中生代白亜紀 
・花崗岩:文翔館の壁面,金山みかげ
・花崗岩:唐沢観音,霞城の櫓の石垣
新生代新第三紀中新世(1500万年前~)
・凝灰岩:垂水遺跡,立石寺
・凝灰岩:元木の石鳥居,蔵王成沢の石鳥居,空清水
・流紋岩:千歳山,霞城の櫓の石垣
新生代第四紀
・安山岩,デイサイト:霞城の石垣、瀧山ほか蔵王連山

■特記がない限り,写真や映像は作成者が撮影したものです。素人がコンパクトディジタルカメラで撮影した写真と映像です。特に映像部分は,想像以上に手ブレがひどく,お見苦しいと思われます。ご勘弁ください。

■地図は,次の通りです。
・地形図,空中写真は,国土地理院のWebサイトで公開されているものを引用しています。
・地質図は,産総研のWebページ(©産総研地質調査総合センター)から引用しています。
・山形県立図書館のディジタルライブラリから,パブリックドメインの画像を引用しています。

■使用音源の多くはAudiostockのもので,ライセンスを所有しております。
https://audiostock.jp/

■動画作成の初心者です。今後,精進して質を向上させてまいります。
よろしければ,チャンネル登録,よろしくお願いします。

#山形市 #山形城 #最上義光 #唐松観音 #文翔館 
#七日町 #石鳥居 #凝灰岩 #山寺 #地学 #小さな旅
 

0:00 最上義光像と銅町
4:59 霞城の石垣
11:08 唐松観音
13:55 文翔館
20:59 七日町
23:10 日本最古の石鳥居
29:44 垂水遺跡
34:48 山寺・立石寺

Write A Comment