【鶴ケ岡城】徳川四天王の子孫酒井氏が整えた古城の面影を今に伝える美しい街並みに調和した平城

本日は、山形県庄内地方にある 鶴ヶ岡城を歩きます。 戦国時代には、武藤氏と砂越氏、最上氏と上杉氏が、 激しく争い、いくたびも、戦場となりました。 江戸時代になって、1622年に入封した 酒井忠勝が、近代城郭に整えました。 天守こそ無いものの、 二つの櫓と御殿を築きました。 今は、城郭の一部が鶴岡公園として整備され、 堀と土塁が面影を伝えます。 ここでは、荘内藩主酒井氏と領民の間には、 強い信頼関係があったことを 垣間見ることができます。 現在の本丸に鎮座する荘内神社の祭神は、 4名の酒井家の殿様です。 現存する藩校致道館や博物館と共に、 歩いてみたいと思います。 鶴岡駅前からコミュニティバスでやってきました。 正面の赤茶色の建物が鶴岡市役所です。 実はここ三の丸の一部なので、 既に城跡には足を踏み入れていることになります。 この門、東御門となっていますね。 門の内側には歴史ある建物がありそうです。 皆様、この左側に続く塀、ご覧の通り、 この塀どこまで続くんだろうというぐらい長いですね。 バス停の先の道路右側には鶴岡公園が見えております。 こちらは西御門。 そう、この塀の向こう側には、 かつての庄内藩の藩校、致道館の建物の一部が 今も現存しているんです。 後から分かったんですが、先ほどの東御門が 生徒用、そしてこちらの西御門が 教職員や役人用で分かれていたそうです。 この周辺は道路や建物がゆったりとしていて、 気持ちが落ち着きます。 この致道館、東北地方に唯一現存する 藩校の建物だそうで、国の史跡に指定されています。 1805年、庄内藩主第9代酒井忠徳が 創設しました。 ちょっと話が脇道にそれますが、 この忠徳については面白い逸話がありますので、 紹介いたしましょう。 参勤交代の途中でお金が尽きて、 福島で足止めを食ったという話です。 忠徳は江戸で生まれ育ちました。 1767年、父忠温の死去により 後を継ぐと庄内に入ることとなりました。 その途上での事件です。 忠徳は藩の財政の情けなさに 涙したといいます。 しかし、その後、財政再建に取り組み、 酒田の商人、本間光丘を財政再建の 責任者に登用し、見事に成功させ、 逆に財を蓄えるまでに至ったといいます。 また、酒井氏が庄内藩主になって以降、 年貢の歩合が上がり、農民が苦しんだと 言われています。 この忠徳以降、領民重視の政策を とるようになり、領民も藩主を 徐々に尊重するようになっていったようです。 この出入り口となっている門は表御門で、 藩主御成の時に使われていた 最も格式の高い門ですね。 瓦屋根の立派な薬医門です。 致道館見学は無料で、撮影も自由とのことでした。 致道館では、荻生徂徠の提唱した儒学を 学ぶことを廃校まで貫いたそうです。 荻生徂徠は、八代将軍吉宗の政治的助言を 行ったことで有名ですね。 入って左手のこの建物は、 儒学の祖である孔子を祀る聖廟です。 すぐ裏には、先ほど見た市役所の建物が ここからも見えます。 釈奠(せきてん)という儀式が行われた場所です。 徳川幕府が朱子学を重視したことから、 日本各地の藩校に同様の聖廟が建てられていたようです。 こちらの孔子像は、小さな論語の文字を 組み合わせて描かれているそうです。 正面の建物は講堂です。 始業式などに使われ、藩主が参勤で 不在の場合には、2日おきに役所としても 使用されていたそうです。 この講堂の先の空間は建物が失われていますが、 教室が建っていたのではないかと思います。 講堂の内部は見学もできました。 この扁額、字が浮き出しているように 見えますが、実は文字部分は 削りとられて凹んでいます。 目の錯覚を起こすように仕組まれていました。 ここで鶴岡城の歴史について見てみましょう。 鎌倉幕府の御家人であった武藤氏が、 奥州藤原氏征伐の戦功によりこの地を 与えられ、鶴ケ岡城の前身である大宝寺城を築き、 居を構えたのが始まりとされています。 室町時代の初期、その子孫武藤長盛が 築城したという説もあります。 さて、戦国時代の15世紀以降になると、 その子孫である大宝寺氏と最上川より 北部を領有する砂越氏が、 1512年以来、合戦を繰り返すこととなります。 1533年には砂越氏維が大宝寺城に 攻め入り、焼失させてしまいます。 その時の当主大宝寺晴時は約6キロ西方の 山城尾浦城に本拠を移し、大宝寺城は 支城となってしまいました。 その後、大宝寺氏は越後上杉氏の庇護の元、 存続したようですが、 1587年、内陸部で力をつけた最上氏の 侵攻に遭い、ついに滅亡してしまいました。 翌年、越後の上杉景勝は、最上氏から 庄内を取り戻すべく本庄繁長と武藤義勝父子に、 庄内へ攻め込ませ、一旦は尾浦城奪還に成功し、 かつて大宝寺氏の養子となっていた 武藤義勝を尾浦城に置きました。 しかし、1591年、武藤義勝は、太閤検地に 抵抗する一揆を扇動したとの罪で 改易となってしまいます。 ここで、庄内は、上杉景勝が直接 領有することになりました。 そして、1600年、関ケ原天下分け目の戦いに 連動して、この地では、慶長出羽合戦が勃発し、 上杉景勝軍と最上義光軍が激突します。 結果的に、庄内は、再び最上軍の手中に 落ちることになり、本拠地は現在の酒田市内の 東禅寺城に移りました。 1603年には、大亀が酒田の浜に 現れたことを契機に東禅寺城は「亀ヶ崎城」へ改名され、 それに合わせて、大宝寺城も 「鶴ヶ岡城」へ改称されました。 ところが、最上氏も、義光死後の1614年以降、 跡目争いにより混乱し 1622年には改易となってしまいました。 代わって庄内に徳川幕府譜代大名の酒井忠勝が 信州松代から転封されました。 この時に、藩主は、鶴ケ岡城に居を構える事としたため、 庄内の本城の地位が 鶴岡城に89年ぶりに復活することとなりました。 この論語詩経などの教科書の版木は、 全部で317枚一枚も欠けることなく 保存されており、極めて貴重なものだとのこと。 こちらの南側の部屋は藩主御成の際に 利用された部屋です。 一番奥の御居間の天井と床下は、 賊の侵入を防ぐ工夫がされているとのこと。 酒井氏が領民に慕われていたことを証明する エピソードが、ここに書かれておりますね。 1840年、忠徳(ただあり)の子忠器(ただかた)の時代、 幕府より突如、越後国長岡城への移封を命じられました。 減封を伴うもので、後には川越藩が入る予定でした。 しかし、幕府に対し領民たちの間から抵抗運動が起こり、 江戸まで陳情に出向く者まで現れたそうです。 結局、領民の主張を幕府が聞き入れ、 命令は取り下げられました。 忠器は、倹約精神を父から受け継ぎ、 領民の信頼を集めたようですね。 さて、鶴岡公園に入ってまいりましょう。 この交差点のあたりは、かつては 三の丸と二の丸を隔てる堀がありました。 この城は輪郭式なので、かつては堀が 一周していたはずですが、この南側と東側は、 明治に入ってから、埋め立てられてしまったようです。 交差点の車道を渡ると二の丸ですね。 廃城後はここに鶴岡町役場を建てたようですね。 ここは二の丸の南東の隅にあたります。 江戸時代にはここに角櫓が建っていたはずです。 桜の木が多いですね。 この公園内には700本もの植樹がされているそうです。 日本さくら名所100選の一つだそうです。 こちらにちょうどその石碑がありました。 こちらは本丸と二の丸を分けていた堀です。 北30mほどで堀が止まっていますが、 やはりその先の一部は埋め立てられてしまっております。 江戸時代には中の橋がここに架かっていました。 現在のこの鉄筋コンクリートの立派な橋で 内堀を渡りましょう。 ここには、冠木門形式の中門があったようです。 現在は面影がありませんが、 門内は、二重の桝形で防備される形となっておりました。 この白壁の立派な近代的建物は、大寶館です。 1915年に建てられました。 無料で入館できます。 地元出身の政治家、文筆家、芸術家などの 名士に関する展示がありました。 内部の撮影は不可でした。 こちらは地元出身の作家、藤沢周平の記念館です。 残念ながら休館でした。 「たそがれ清兵衛」など、映画やテレビドラマに なっている作品が数多くある人気作家ですよね。 この神社の参道の手前半分は、 本丸を取り囲む内堀の一部でした。 この鳥居の手前あたりから右手に曲がって 堀は続いていました。 そしてこちら北側の堀につながっておりました。 この鶴岡城には、北側から西側にかけては、 二重の堀が今も残っています。 しかし、先ほどもお話しした通り、 この東側の堀は埋め立てられており、残っていないですね。 さて、荘内神社は初代庄内藩主 酒井忠勝を含め、四柱が祀られています。 忠勝は徳川四天王の一人、忠次の孫ですね。 父は越後高田藩主の家次です。 九代忠徳を加えた四柱です。 1876年、明治九年に城内の建物が、 すべて破却されました。 そして荘内神社はその翌年に創建されました。 お守り授与所に日本百名城のスタンプがありました。 社殿の右手奥に宝物殿がありました。 拝観無料で撮影も許可しますと書かれております。 馬の鞍やその覆い、弓、刀剣、鉄砲、甲冑などの 武具を中心に展示されておりました。 こちらは本丸の北東角近くです。 21代酒井家当主忠明氏の歌碑です。 2003年1月15日に宮中歌会始にて、 「今もなほ 殿と呼ばるる ことありて この城下町に われ老いにけり」 の歌を古式にのっとった節回しで披露されたそうです。 江戸時代は決して遠くない過去であることを 実感させられる歌ですよね。 初代藩主となった酒井忠勝は、 ここ鶴岡城を居城と決め、拡張整備に着手しましたが、 完成するまで3代に渡り 約50年を要したといいます。 三の丸を新たに設け、本丸を中心に 同心円状に配置しました。 そして、それぞれの曲輪の周囲には 土塁が張り巡らされました。 本丸中央の今参拝してきた 荘内神社のある場所には、御殿が築かれ、 今前方に見ている北西の土塁上には、 先ほど説明した二の丸の南東と同様に 2層2階の角櫓が建てられました。 立派な堀が現れました。 渡る前に、この左手に残る 土塁に登ってみましょう。 土塁の遺構はよく形を留めていますね。 櫓跡ですね。 ここに2層2階の角櫓が建っていたんですね。 こちらの橋は、江戸時代には無かったもので、 元々はもう少し右側に 架かっていたようです。 堀の右側はアヤメが植えられているようです。 こちらが二の丸ですね。 この先にもなんとなく食い違いのような 形の道があって、その先に橋がありますね。 この堀は二の丸と三の丸を 分けていたものです。 当時のまま残っています。 こちらには今は立派な橋に 架け替えられています。 江戸時代にも三の丸から外北御門に向かう 橋が架けられていました。 こちらの正面は公立の中高一貫校、 致道館中学校、高等学校です。 古地図によると、ここには、 米蔵があったようですね。 鯉に餌をやっている方がいらっしゃいました。 錦鯉ではなく、普通の黒い鯉ですね。 さて、二の丸に戻って、こちらにも、 立派な土塁が残っています。 この二の丸は本丸をぐるりと取り囲むように 一周していましたが、 現在も概ね残っています。 草刈りお疲れ様です。 この西側の空間には馬場がありました。 ここから本丸を眺めてみましょう。 わずかながら石垣が見えますね。 先ほどの角櫓のところです。 この城には石垣は多用はされなかったようです。 ここには公園が整備された後だと思いますが、 土が盛られて小山ができています。 頂上に東屋がありますね。 さて、戦国時代には守りやすい山城を 建てることが多いと思いますが、 この城は平城です。 武藤氏はこの平城をどのような形で 防御しようとしたのでしょうか。 実は近くを流れる 赤川の水を利用したのです。 この赤川はたびたび氾濫を起こし、 住民を悩ませていました。 この城の周辺は氾濫原の低湿地で、 深い田が周りを 取り囲んでいたといいます。 赤川はもともと現在の内川あたりに 本流が流れていたといいます。 この内川は本丸の中心部から 東に500mもありません。 鶴ケ岡城は、これを三の丸の 外堀として利用しました。 また、三の丸西の端の外堀としては、 同じく赤川から分水を開削した 清龍寺川を利用して防御を固めていました。 この清龍寺川は本丸中心部から西に 約700メートルの地を 南から北に流れています。 この清龍寺川は外堀としての役割だけではなく、 用水としても広く利用されていたようです。 最上氏の時代、城下から上流約11kmの 場所にある熊出というところで堰を築き、 赤川を東側に迂回させました。 また、この場所で清龍寺川を分岐させ、 取水を行っています。 この青龍寺川は、酒井氏入封前の 1609年頃から最上氏配下の工藤掃部が 開鑿を開始したそうです。 この水は現在も庄内平野の 広範囲の水田を潤しています。 このように、赤川の水を 城郭の防御に利用していました。 さて、鶴岡公園の西側の堀の外に出て、 今から致道博物館を見学します。 ここは二の丸の外周を広く カバーしている三の丸の一部です。 庄内藩主酒井家の屋敷跡の 寄贈を受けた場所です。 酒井家伝来の美術品が展示されております。 また、奥には国の名勝に指定されている 江戸時代の庭園が残っています。 また、敷地内に3棟の重要文化財の 建築物が移設されています。 こちらが入り口です。 鶴岡公園南西角のすぐ隣です。 受付とグッズショップの建物を通り抜けて 敷地内に入ってきました。 この博物館も撮影自由というのが嬉しいですね。 こちら正面は旧西田川郡役所ですが、 耐震補強工事中です。 中は見ることができます。 こちらは消防に使うポンプ車でしょうか。 1階はドールハウス、洋食器が展示されておりました。 こちらは藩主の隠居所で、明治維新後は 旧藩主の邸宅となった御隠殿です。 中で展示されていた古地図です。 地割は、今と大きくは、 変わっていないように見えます。 こちらが奥座敷ですね。 戸の絵には、金箔が使われているようです。 こちらがこの旧邸宅や敷地を寄贈された 16代当主の忠良さんによる書。 国指定名勝の庭園を 眺めることができます。 寄贈された刀剣などの武具です。 旧鶴岡警察署庁舎も重要文化財ですが、 修復中のため網で覆われておりました。 こちらが3つ目の重要文化財の建物です。 湯殿山の麓の六十里越街道の宿場町、 田麦俣集落から移築した多層民家です。 1822年の建物ですが、 3階の窓は、明治時代になって養蚕が 始まってから取り付けた窓だそうです。 中は家財道具が展示されています。 明治維新後、1868年1月より始まった 戊辰戦争では、庄内藩は奥羽越列藩同盟の 一員として反新政府軍に加わりました。 7月13日には政府軍の攻撃により城が 焼亡しますが、抵抗を続けました。 会津藩ら他の味方が降伏したことで、 9月25日に降伏したといいます。 その後、酒井氏は、どうなったかといいますと、 政府軍の西郷隆盛の意向で、 厳罰を受けずにすんだようです。 また、この時も、商人の本田家や領民が、 大金を集めて、酒井氏の鶴岡復帰を 新政府に働きかけ、その結果、 鶴岡に復帰することができました。 藩主と領民が、手を組んで、 旧領に復帰するという事例は、 東北各藩では複数確認されているようです。 さて、この鶴ケ岡城を本日歩いてみて、 私は領民と藩主との強い絆を 感じ取ることができました。 また、鶴岡の街の落ち着いた明るい雰囲気や ここでしか味わえない魚介類や酒の味が、 好きになりました。 新幹線も通らず、首都圏からは 少し行きづらい土地ですが、視聴者の皆さんも 一度訪れてみると、様々な出会いや 発見があると思います。 お勧めします。

鶴ケ岡城は、徳川四天王の一人、酒井忠次の子孫が幕末まで守り抜いた平城です。酒井氏は、何度も領民に助けられ、戊辰戦争で降伏後も鶴岡の街に留まりました。

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【タイムコード】
◆致道館       : 2:49
◆荘内神社      : 11:38
◆角櫓跡       : 14:24
◆致道博物館     : 19:16

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【鶴岡城】
◆本丸跡に荘内神社が構える鶴岡公園を中心に、致道館、致道博物館が隣接しています。
◆城跡としては、広い二重の堀と本丸・二の丸の一部に残る土塁が残ります。本丸隅櫓の堀側に、わずかに石垣を見る事ができます。
◆城内には、動画内で紹介した他にも、数多くの石碑があります。
◆鶴岡公園の無料駐車場があります。JR鶴岡駅からは、コミュニティバスで10分ほどです。

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【チャンネル】
@歩いて旅するにっぽん 城跡を歩く

歴史を紐解くことによって、往時の武士の息遣いや緊迫した雰囲気が感じられる場所を徹底リサーチして厳選の上紹介しています。

◆運営会社:アスタービジョン株式会社
ウェブサイトはこちら
https://astervision.co.jp/

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【撮影機材】
◆GoPro HERO10 Black

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【編集ソフト】
◆PowerDirector 365

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動画の一部で、地理院タイルに地名・アイコン等を追記した画像を利用して配信しています。

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