猿猴橋(えんこうばし)  広島市南区猿猴橋町~的場町(猿猴川)   #広島 #広島市 #被爆 #橋 #大正ロマン #西国街道 #広島城 #猿猴橋 #観光 #原爆 #シンボル #被爆橋梁 #広島城

大正ロマン漂う悲運の被爆橋梁
猿猴橋(復元前) 猿猴橋は,広島城下の西国街道に架かり,広島の「東の玄関口」として,古くから交通の要衝であった。

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 明治時代に入ってからは,この街道は国道へと変遷し,明治19年には旧橋である木橋へと架け替えられたが,いつの時代も交通量の増加や車両の大型化など交通環境は刻々と変化してゆくのであろう,旧橋は老朽化とも相まって架け替えを迫られたのであった。

大正15年3月16日(供用開始)

 こうした背景の中,大正14年6月に着工された現在の猿猴橋は,鉄筋コンクリート連続桁となり,橋台には地杭52本,橋脚にはケーソン基礎を施工したほか,表面には石張りをあしらい美観にも配慮した。

 さらには,総花崗岩造りの高欄には,巨大な親柱・束柱も備わり照明燈まで内蔵されるという,重厚なものであった。

 極め付きは,親柱上に施されたブロンズ製の大鷹や,束柱上のシャンデリア風の電飾燈,高欄には橋名の由来ともなっている,2匹の猿が桃を持ちあう透彫り風のデザインパネルがはめ込まれるなど,絢爛豪華な橋は大正15年3月に完成した。

 その後,戦火が激しくなる中,金属回収令によってこれら装飾品は供出され,さらに原爆投下により被爆するものの,幸いにも原形をとどめた猿猴橋は,国道の路線変更に加え上流に完成した駅前大橋への交通転換など,時代の移り変わりとともに「東の玄関口」としての役割を終えるのである。

 以来,橋の交通量はめっきり少なくなってはしまったが,「被爆に耐えた装飾的橋梁」として,平成23年度に土木学会において土木遺産に選奨された。

そして,復元へ
親柱の大鷹の像 戦争や被爆の記憶を伝えてきた猿猴橋が,建造時の優美な姿によみがえった。

 往時の姿を復元しようと、平成20年7月に地元住民らが「猿猴橋復元の会」を発足。寄付金活動を行いながら,広島市に橋の復元を働きかけ,それに広島市が応えた。

 復元されたのは,四隅の親柱に設置された、地球儀をつかんで羽ばたく大鷹の像と、欄干の桃を掲げる2匹の猿の装飾など。

 平成28年3月28日にあった完成式典では,大勢の市民が詰めかけ,川の街・広島の古くて新しいシンボルの完成を喜んだ。

親柱・束柱・欄干は総花崗岩造。金物飾りは2016年に復元されたもの。1926年竣工当時にあったが、太平洋戦争中に金属類回収令により撤去されそのままとなっていたところ、住民運動により復活復元された。橋名を記した四隅の親柱の上に地球儀に乗り羽ばたく大きな鷹の像が、欄干には猿猴二匹が向かい合って1つの桃を掲げている飾りがついている。装飾の様式はセセッション式にあたる。

沿革
架橋
中国国分によって山陰道・山陽道のそれぞれ西部に広大な領地を有した安土桃山時代の大名毛利輝元は、九州征伐の終わった天正15年(1587年)以降、西国の政治的安定を背景に、本拠地を山間部に立地する安芸国吉田郡山城(広島県安芸高田市)より、水上交通に適した太田川水系の河口部に位置する安芸広島(広島県広島市)に遷した。新しい居城となった広島城(広島市中区)は天正19年(1591年)に完成し、輝元は同年1月8日に入城した。いくつか小集落があったもののほとんど何もない海浜だった広島であったが、その際に城下町が整備された。

猿猴橋が最初に木橋として架橋されたのはこの頃である。架橋年は、広島市が公開する資料では天正17年(1589年)頃あるいは天正19年京橋とほぼ同時期に完成としている。建設当時は「猿郎(えんろう)」の古語である「ゑんろう橋」「ヱンロウ橋」と名付けられた。

木橋時代
毛利氏時代の広島城絵図とされる『芸州広嶋城町割之図』で(西国街道筋となる)京橋・元安橋と共に描かれている。慶長元年(1596年)『毛利氏奉行人連署書状』に文禄の役のため名護屋城に向かう豊臣秀吉が通るため、(西国街道筋)己斐橋と「広島中の小橋」の修繕を命じられた事が書かれている。このことから山陽道(西国街道)は毛利氏時代、安土桃山時代に形成されていたとする説がある。

関ヶ原の戦いののち毛利氏の後に福島正則が広島城主となった。江戸時代初期の正則時代、猿猴の古語である「ゑんかう」「ヱンカウ」に名を改めている。また一般的には、正則が城下に西国街道を引き込んだとされている。さらに正則時代に猿猴橋町が整備されていった。

『寛永年間広島城下絵図』
『正保城絵図安芸国広島城所絵図』猿猴橋。

福島正則の改易によって浅野長晟が広島に入封すると、幕末まで浅野氏が広島藩を統治した。広島藩は防犯上の理由により城下で架橋制限していたため、この橋は猿猴川唯一の橋梁であった。寛永12年(1635年)武家諸法度によって参勤交代が義務化されると、当初広島藩は海路を採用していた。宝暦4年(1754年)頃から西国街道による陸路に切り替え、この橋は浅野氏広島藩の参勤交代ルートとなった。猿猴橋町は東側から広島城下に入る玄関口として宿場町に発展、京橋町付近は魚屋や市場が並んだ。

1930年頃。他の路より太く描かれており主要道であったことがわかる。
明治時代に入って、國道四號(現在の国道2号)筋の橋となる。木橋として最後の再架橋は明治19年(1886年)架橋。地元住民の手によるもので、橋長35間(34間6分とも)、幅員4間。欄干にはX型の角柱がはめられていた。

明治27年(1894年)広島駅が開業すると東の玄関口として交通量は増えていった。そのため木橋から頑丈な橋への永久橋化が望まれるようになった。明治27年日清戦争勃発、広島城内に広島大本営が設置される。同年9月15日東京から行幸した明治天皇は広島駅からこの橋を通り大本営へ入っている。

現橋と被爆
大正14年(1925年)6月起工、大正15年(1926年)3月7日鉄筋コンクリート桁橋として架け替えられた。工事費106,318円74銭(1926年当時)。施工業者妻木組の妻木伊三郎の私費、塚本町の長尾氏・商品陳列館図案部の阿部技師・山根三二郎・洋画家の増田健夫の製作で、金物飾りが飾られた。贅を尽くした美しい橋に仕上がり、その様子は「広島一」「西日本一」と謳われ、同年3月16日に開通式が盛大に行われ、渡り初めには遠方から大勢の人が詰めかけ約1万人が見守ったと伝わる。ただ当時の土木技術者から当時主要国道のわりには幅員が狭かったと指摘されている。昭和初期に相生通りが新しい国道として整備されることになる。

金属製の飾りはその後、太平洋戦争中に金属類回収令によって昭和18年(1943年)には取り外され、その後は石製の飾りが据えられた。

昭和20年(1945年)8月6日広島市への原子爆弾投下により被爆。爆心地より約1.82kmに位置した。爆風方向に架かっていたため一部欄干の破損があったものの、落橋にはいたらなかった。そのため、広島市内から当時救護所に指定されていた東練兵場への避難経路として用いられた。その際、橋のたもとには警官が立ち、市中心部への立ち入りを禁じたという。

戦後、欄干は一部補修されたがその際にも花崗岩が用いられている。

現代

旧飾りのもの(2008年時点)
昭和31年(1956年)駅前大橋の完成にともない主要幹線から外れたため交通量は減ったが、その後も現在に至るまで地元住民の生活道路・橋梁として使用されている。被爆橋梁という歴史的に意義のある橋ということから、広島市は管理する橋梁でも優先的に維持管理を行っている。平成23年(2011年)には土木学会選奨土木遺産に選定された。

2000年代に入り、地元住民を中心に親柱・欄干を大正期の架設当時のデザインに復元する運動が起こることになる。平成20年(2008年)6月には親柱上の鷲像の小型模型が発見され、同年11月には広島市立大学の協力を得て復元模型が完成した。さらに平成21年(2009年)3月正式に「猿猴橋復元の会」が結成され、復元費用の募金活動などがおこなわれてきた。そして平成26年(2014年)広島市による「被爆70周年記念事業」の一環として市の予算での復元が正式決定、平成28年(2016年)3月完成した。総事業費4億1千万円、施工は宮川興業。同年3月28日、大正時代の渡り初め式を再現した「えんこうさん」が行われ、地元住民・県知事・市長らが参加した。

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