珍しい土座が残る民家を探します(その8) 東京都小平ふるさと村

え、ここは東京都小平市の、え、小田 古里村です。で、ここに、え、江戸初期の 、え、旧川家の民家が復現、え、展示され ています。え、今日はここを訪れてみます 。 え、土座が綺麗に復縁されていますので、 え、そこを見ていこうと思います。 え、開拓当初の復元住居でこの建物は江 時代初期に小川村を開拓した農家の住まで あり、小川県に残る古分書に基づいて推定 復言したものです。 え、この古文書は小川村の開発主であった 小川家が大館に差し出した開発の受け書の うしで一種の建築届けと思われ、明日年間 1655 年から57年頃のものと推定されています 。で、そこには材料や後方について、え、 柱は栗の丸田をほったてにし、床は竹の 素の子かもみ柄わく地面に敷き詰めむろを 敷いたもので、壁はかやか麦わで囲った だけとあり、え、2人択、4人卓、6人択 の各建物の規模についても書かれています 。で、この建物はこのうち規模の最も 小さな2人卓、2人卓を復元したものです 。 え、この解説書の中で、え と、もみ柄わく図を地面に敷き詰めむろを 敷いたものと書いてある部分がドザになり ます。 え、外壁はかやで覆われています。一般的 には辻壁が塗られていますが、え、ここで はカヤが使われています。 え、玄関を入った右側になります。 え、柱が地面に突き刺さった状態で、素席 がありません。え、ほった柱です。 え、壁は 、え、かヤを使ってあります。 建築は165年から6年頃 の作りです。 え、手前がどま。 この式に教界を挟んで土座になっています 。え、どまに吐き物を脱いで、え、敷を まいでドザに入ります。え、色りは地面に 、え、作ってありますから、色りで火を 炊くと地面が温まるというような構造に なっています。 え、どに、もみ柄を引いて、引いて、え、 白を敷きます。 はい。この教会から 、え、ここに祈りがあります。 祈りの外側ですね。外側はド砂で、 え、ド砂とは、え、地面にもみ辛やわを 敷いて、その上にむを敷き詰めた。あ、 状態の部屋です。 今飲み柄はないようですが、その奥が座敷 になってますが、座敷の、え、床は、え、 竹のスの子です。 え、竹の巣のコーヒしてあります。 え、こちらは 、え、土山になっています。何度に 与えると思いますが、 こちらの部屋は土座になっています。 柱は、え、調で仕上げてあります。 え、長南の跡が あります。 これ扉です。扉も長の跡があります。 え、江戸中頃まで庶民の住居は地面に むしろを敷いた土座であったと考えられて います。 江戸中期以降時代に庶民の家に板の床が 普及してくると土座は板の床に回されて いきました。で、こうして土座はなくなっ ていきます。 で、現存する小民家の多くはこの板の床に 回された状態で、え、保存されているので 、え、ド山民家を見る機会がなくなってい ます。 板の床の普及と共にドザ民家はなくなって いきましたが、それでも日本海側の雪の 多い地方では高度成長期の1960年代頃 まで、え、土座が残っていました。で、 新潟、富山、石川福井、滋賀北部などに 土座は残っていました。で、その理由は 地面を色りで直接温める土座生活は冬 温かかったためと考えられています。

土座が残る民家を探します。今回は東京都小平市の小平ふるさと村にある開拓当初の小川家の復元住居です。名主(関西では庄屋)であった小川家に残されていた古文書に基づいて建てられた復元です。古文書には土座が記されています。江戸時代の庶民の住居は土座が一般的であったようです。
土座住まいは江戸時代以降も続き、雪の多い日本海側の住居(民家)には1960年代まで残っていたという記録があります。

1 Comment

  1. 普請願書などを見る限り 京都周辺農村では 遅くとも江戸時代前期には畳敷きが普及し 土座の生活は減っていたようですから 地域差が大きかったんでしょうね いつもありがとうございます 土座の勉強になります

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