【八幡山城】何故?安土城を見下ろす要衝に築かれるもわずか10年で破却
天下人から一転、謀反人に貶められた 悲劇の武将豊臣秀次。 豊臣秀吉の甥として生を受け、後継者として 指名されながら謀反の疑いをかけられ、 高野山で自害に追い込まれ、 わずか28年の人生を終えました。 この八幡山城は多くの戦功により。 秀吉の信頼を勝ち得た秀次が、京の東側を 固める近江を統括することを期待され、 築いた城です。 ここは東西の交通の要衝の地。 秀吉は、東方で急速に力をつけた徳川家康を 意識して、秀次をこの地に配置したのです。 かつて信長が当時の最新の技術を駆使して 築城した安土城を見下ろすこの八幡山の地に、 秀吉の監修を受けて短期間で築き上げられました。 さて、本日は7月6日。 こちらは日牟礼八幡宮境内の一角です。 この右手の登山道が、現在は秀次の 菩提寺である瑞龍寺が構える八幡山城へ続く道です。 ほとんどの人はロープウェイを利用しますが、 私はこの登山道を登りたいと思います。 視聴者の皆様に、この山城の険しさを お伝えしたいと思います。 この八幡山の標高は271m、麓からの 標高差は約190mあり、南側は急峻な 崖となっています。 本日、かなり気温が高く、湿度も高いので、 水分補強に気をつけながら進んでまいります。 登山道の左手には日牟礼八幡宮の社殿が見えますね。 帰りはロープウェイで下ってきて、 その後参拝しようと思います。 こちらの登山道をご覧のように、 かなりしっかり整備されていて歩きやすいですね。 頂上までの所要時間はだいたい30分 程度だと思います。 さて、この登山道を登りながら、 まずはこの八幡山城を築城した豊臣秀次が、 ここに城を築城するに至るまでの経歴を 説明していきましょう。 こちらの年表は、秀次の生涯を大雑把に 私が勝手に区切って作成してみました。 実はこの秀次不明の点も多く、この年表に 記した各年は、誕生した年も含めて 異説もありますので、あらかじめご了承ください。 豊臣秀次は、秀吉の姉、智と弥助の間に 生まれました。 豊臣秀吉の甥として生を受けたがために、 若いうちから秀吉の政略に巻き込まれます。 浅井氏家臣の宮部継潤が内応することと 引き換えに、秀次は五歳にして人質として 差し出されました。 宮部継潤が秀吉に臣従後は、秀次はその 養子となり、元服し宮部吉継を名乗ったようです。 その元服後には、秀吉との関係強化を 求めた三好康長の養子となります。 このタイミングは1582年、本能寺の変の 後という説が有力です。 その後、康長の河内の地盤を引き継ぎ、 三好信吉と名乗り、大名となりました。 この時に父弥助も三好吉房を名乗るように なったといいます。 1583年、秀吉が賤ヶ岳の戦いで 柴田勝家を破り、信長後継者の地位を 確かなものにすると、秀次は秀吉に重用される ようになっていきます。 この頃から戦にも駆り出されるようになりました。 翌年には三好氏から離れ、羽柴信吉と 名を改めます。 同年、秀吉と徳川家康織田信雄連合軍が 相対した小牧長久手の戦いで、別働隊を 率いて家康不在で空き家となっている 岡崎城を奇襲して攻め落とす作戦の 大将となった秀次。 徳川軍の榊原康政、大須賀康高らに 急襲され大敗を喫し、この戦で義理の父、 池田恒興、義理の兄、森長可らを 失ってしまいました。 秀次は秀吉の怒りを買いましたが、 秀次の生涯においての敗戦はこの1回のみと 言われております。 その後は紀伊雑賀攻めや阿波岩倉城攻め などで戦功を積み上げ、 1585年には、秀吉の諱を受け、 秀次を名乗るに至りました。 そして、四国平定後には、家臣とともに 近江国の南部東部の五郡を秀吉により 与えられ、八幡山城を築くこととなったのです。 さて、やはり本日のこの暑さは半端ないですね。 少々頭がクラクラしてきました。 下ってくる方はちらほらいらっしゃいましたが、 登る人はほぼいないですね。 左手からは時折、ロープウェイが通過する 機械音が聞こえてきます。 さて、秀次が八幡山城を築いた後、 失脚するまでを引き続きお話ししましょう。 八幡山城を築いた秀次は、旧安土城の 城下町を八幡山の麓に移し、 現在も残る八幡堀などを整備し、城下町には 善政を敷いたと伝わります。 この点は後ほど別途詳しく説明しますね。 1586年には秀吉から豊臣の姓を 名乗ることも許されています。 その後も小田原征伐で北条方の山中城を 陥落させ、小田原城の開城まで とどまり、陣を張っていました。 その功績により居城を清洲城に移され、 旧領を含め百万石の大名にまで上り詰めました。 1591年、秀吉は関白の座を秀次に譲り、 天下人としての心得を秀次に伝授したとされています。 居所は、この時に京の旧平安京内裏内に建てられていた 豊臣政権の政庁兼住居である聚楽第に移ります。 母であり秀吉の姉でもある智や父の三好吉房らと 共に住むことになりました。 秀吉は朝鮮出兵に注力する一方で、 この時を境に国内統治は秀次を中心に 回り始めました。 当時の後陽成天皇が、 まだ、秀吉が住居としていた1588年と、 秀次に代替わり後の1592年の二度にわたり、 この聚楽第に行幸したことは有名です。 ところが1593年、秀吉の側室淀君が 男子を出産しました。 後の秀頼です。 その報に接するや秀吉は、朝鮮出兵の 基地であった肥前国名護屋城から我が子を 見るために、大阪まで喜び勇んで 帰ってきたといいます。 この時、秀吉がすでに秀次に関白の座を 譲ってしまっていたことを後悔したという 説もあります。 しかし、秀吉が秀次の娘と秀頼を婚約させ、 第三代関白への道筋をつけたとも言われており、 1595年6月までには秀次と 秀吉淀君の間の確執は表面化することは ありませんでした。 この6月に突然、秀次謀反の疑いが浮上します。 鷹狩りに偽装して謀反談合を行ったというものです。 秀次は否定し、起請文を石田三成などに 書き示しました。 7月5日には、秀吉が居を構えていた 伏見城に秀次が出頭するよう命令が下されます。 秀次はすぐには動きませんでした。 同じ5日には、秀次が聚楽第近くにいた 徳川秀忠を捕らえて人質にしようと企てたが、 失敗したというような真偽不明の 話も伝わっています。 3日後の8日に秀吉の使者に促されて、 ようやく重い腰を上げました。 この3日の間に、記録に残っていない 様々な動きがあったと想像されます。 伏見城に出向いた秀次ですが、結局、 秀吉への謁見は許されず、そのまま高野山への 登山を命じられます。 15日には福島正則などの秀吉の使者が 高野山に兵を率いて到着し、切腹の命が 伝えられ、秀次はそれに従い、わずか 28年の生涯を閉じることとなりました。 秀吉は8月になると、三条河原で妻や妾たち、 子たちの処刑を行わせました。 亡骸はまとめて一つの穴に埋められた後、 その上に秀次の首を収めた石櫃が 置かれ、首塚が作られました。 秀次本人は切腹を命じられたのに対し、 妻子は処刑されたことは、今も大きな 謎として残されています。 また、徳川家康などの大名預かりとなっていた 家老は、ことごとく切腹し、 家臣の多くは流刑となりました。 秀吉の仕打ちは、それだけにとどまりませんでした。 秀次の生きた痕跡も、ことごとくこの世から 消し去りたいと考えたようです。 この八幡山城も聚楽第も時を待たず 破却されました。 秀次移封後、1595年時点で八幡山城には、 京極高次が入城していましたが、 大津城へと移封となりました。 ここに八幡山城はわずか十年の歴史に 幕を閉じたのです。 ここで登山道が分岐しています。 この先は出世不動明王が納められたお堂があります。 鳥居に仏像である不動明王の扁額。 とてもわかりやすい神仏混交です。 ここは八幡山の知られざるパワースポットです。 数年前の秋に訪問した際の写真が ありますので紹介しておきますね。 関西の有名観光地の傍らには、何気なく このような歴史に埋もれた曰くありげな スポットがよくありますよね。 この鳥居のある分岐からロープウェイ 山頂駅までは直線距離でほんの50mくらい なのですが、急坂と暑さのため自分でも はっきりわかるくらい足の動きが鈍くなりました。 ロープウェイ駅がついに見えました。 鳥居からここまでが本当に長く感じられました。 ロープウェイ駅の駅舎をお借りして、 水分補給と休憩をいたしましょう。 さて、もうここからはかつての城域に入っています。 このロープウェイ駅のある場所は二の丸下の 帯曲輪の一角で、かつての大手口と 推測されているようです。 本当に生き返りました。 本丸に向かう前に、琵琶湖方面の展望が 素晴らしい西の丸にまずは行ってみましょう。 二の丸本丸を取り囲むように帯曲輪があり、 そこに歩道が整備されています。 西の丸に行った後は、さらに北側に回って、 この帯曲輪をぐるっと一周して、 その後に瑞龍寺本殿のある本丸に登ることにしましょう。 お願い地蔵堂です。 これは現在本丸にある瑞龍寺の 管理されているお堂の一つですね。 こちらの分岐は直進して西の丸方面に向かいます。 このあたりは上り階段になってますね。 この右側の石垣の上が本丸跡ですね。 ご覧のように、かなりの大木が石垣の間から たくさん生えていて、石垣が崩壊しないか 心配になりますね。 ここに出丸方面への分岐もありますが、 西の丸に到着です。 本日は琵琶湖の湖面は見えますけれども、 湖越しに見えるはずの比叡山や比良山脈は、 今は霞んで全く影も形もありませんね。 その手前に見えるはずの琵琶湖大橋でさえ 確認できません。 そこで、数年前の秋にこの場所で撮影した 写真をここで紹介いたしましょう。 比叡山も比良山脈もくっきり。 ここの石垣は、周辺の木を切り払って、 麓からも見えるようにしたそうです。 少し棒を伸ばして、石垣を覗いてみましょう。 皆様、見えておりますでしょうか。 これは、加工度の低い石を打ち込み接ぎと呼ばれる 手法で積まれた石垣ですね。 6mの高さがあるようです。 この西の丸の南側には、先ほど分岐のあった 同じく4mの石垣が積まれた出丸があり、 より広角の展望が得られるようです。 先ほど分岐点にあった道標には270度の 展望と書かれていましたね。 視聴者の皆さんで今後訪問されようと している方は、ぜひそちらにも足を伸ばしてみてください。 高低差は20mほどありますが、距離的には 100mもないと思います。 さて、本丸の周囲を先に一周したいので、 今度は北の丸方面へ足を伸ばします。 この本丸や二の丸の石垣に積まれている 石は、織田信長が築城した安土城で 使用されていたものを一部再利用されているそうです。 また、矢穴という石を割る際に加工した 跡も残る石や。 宝篋印塔を再利用したものも見られるとのことです。 使えるものはできるだけ使って築城を 急いだのでしょうね。 築城は、豊臣秀吉がかなり細かく秀次に 指示した上で行われております。 秀吉が築城した城で、石垣が原型を 留めているという意味では、とても貴重な 城とも言えます。 こちらの広場が北の丸です。 東側の展望が開けています。 この正面眼下の湖は西の湖で、 その先には安土城のあった山と、右手には織田氏が 滅ぼした六角氏の居城だった観音寺城がよく見えますね。 そしてここには八幡山の三角点があります。 築城寺には堀切で防御されていたようです。 こちらの分岐を右に進みますと、尾根の 北端までハイキングコースが続いております。 この八幡山は別名鶴翼山とも呼ばれております。 鶴の翼のように、北側に大きく羽を 広げるように尾根が続いております。 その先の小ピークには、六角氏時代の 支城であった北の庄城の遺構があるようです。 さて、秀次はこの八幡山城で急速に城下町を 整え、善政を行ったとされております。 防御と水運に両用できる八幡堀を構築し、 安土城下で信長が行ったのに習い、 13ヶ条からなる掟書を出したり、 楽市楽座を推進したりしました。 八幡堀へ通じる排水路も整備しています。 また、本能寺の変より前の債務を破棄する 徳政をも行っております。 さて、いよいよ本丸に上ります。 今は1963年に京都から移転してきた 瑞龍寺が占めておりますが、秀次死後に 廃却されるまでは、北西の隅に三重天守が 建っていました。 この本丸への虎口の桝形は複雑な形をしており、 侵入者から防御しやすい形態となっております。 さて、この瑞龍寺の開山についても 説明しておかなければなりません。 秀次の実母智は、秀吉の姉であり、 処刑されることは免れていましたが、子や孫は ほぼ秀吉により処刑されてしまっておりました。 日蓮宗に帰依していたため出家し、 日秀尼を名乗りました。 子孫の菩提を伴うために寺院を建てようと していたところ、それを聞いた後陽成天皇より、 嵯峨の村雲の地と瑞龍寺の寺号を 賜って創建することができました。 菊の紋章を利用することも許されたそうです。 そのため、日蓮宗寺院で唯一の門跡寺院となり、 村雲御所と称して、代々、皇女や 公家の娘を住職として迎えることになりました。 一時期は京の堀川今出川に1700坪の 敷地を有し、三代将軍徳川家光から 二条城内にあった客殿二棟を寄進されるなど、 大いに栄えたそうです。 しかし、天明の大火で全焼し、その後 再建されるも規模は大幅に縮小したようです。 この地に移ってきたのは1961年ですが、 その際にも移築されたのは1/4程度のみだったそうです。 その後も堂宇は荒廃しておりましたが、 2021年に修復復興がされ、今に至るそうです。 現在の瑞龍寺は境内も本堂の内部も 美しく整えられ、清々しい気持ちになれる空間です。 本堂の内部が公開中ということで、 拝観させていただきました。 案内の女性の方が隅々まで丁寧に 説明してくださりました。 本当にありがとうございました。 折り上げ格天井の部屋です。 襖絵は狩野派の手によるものだそうです。 床の間の蓮は実は本物ではなく、 絹と粘土で作られたアート作品です。 こちら鳳凰が描かれています。 現代美術家のmaisさんが2022年に 描かれたものだそうです。 この建物内にはあと二枚の鳳凰の絵があります。 こちらは門跡寺院として菊の紋章が 許された鬼瓦。 この白砂の引かれた庭は琵琶湖を イメージし、周囲には滋賀県の花シャクナゲが 植えられていました。 いろいろな品種を植えて、4月から 6月上旬ぐらいまで花を楽しめるようにしているそうです。 この真ん中にあえて置かれている小石。 この石に魅入られて動けなくなってしまった 三歳児がいたとか。 庭園の向こう側には雅楽の舞台。 定期的にイベントも開かれるそうです。 庭園前廊下のこの蓮の絵は、キーヤンの 愛称で知られる木村英輝さんの作。 庭園奥の建物にある二枚目の鳳凰です。 こちらは大きく羽ばたいています。 この戸板ですけれども、この絵が描かれる前は 別の絵が描かれていましたが、 あえてその上にかぶせるように描いたそうです。 よく見ると、松葉がうっすらと 残っているのがわかりました。 こちらも絹と粘土の工藤愛子さんによる作品。 リアリティがあって言われなければ、 アート作品とは気がつきませんよね。 こちらは西側の展望ですが、 かろうじて三上山が見えることを教えていただきました。 かつて藤原秀郷が大ムカデを退治したことで 有名な山ですね。 この曼殊沙華の絵もmaisさんによるものです。 日蓮宗では天から降ってくる吉兆の花だと されているそうです。 この襖も元からあったもので、 一枚20キロもの重さがあるそうです。 こちら瑞龍寺、 江戸時代と現代アートが程よく融合し、 よく建物に馴染んでいました。 尼寺であるためか、境内全体が細やかな 美観への配慮が感じられ、とても癒されました。 秀次の母、日秀尼が開基した瑞龍寺が、 この八幡山城跡に存在し続け、多くの参拝者で 賑わっていることは、 とても素晴らしいことだと実感できました。 八幡山城は詰の城であり、通常秀次は 麓の居館に住んでいました。 今は八幡山公園として整備されており、 こちらにも段状に積まれた石垣が残っております。 こちらは少々写りが良くないですが、 数年前に訪問した際の写真です。 実はこちらも八幡山城の一部となります。 豊臣秀吉の後を襲って関白の座についた豊臣秀次。 秀吉に対する謀反の罪を着せられ、 眷属までもほぼ根絶やしにされました。 現時点においても、確実に謀反を 働いたという資料は皆無であるにもかかわらず、 後の世に創作され、「殺生関白」という あだ名までつけられ、貶められました。 秀吉のこの所業により、息子の豊臣秀頼を 守るべき親族が皆無となり、 豊臣氏滅亡の遠因を作ったと言われます。 秀次は今も近江八幡では尊敬され続ける 偉人であり、八幡山頂上の瑞龍寺には 参拝者が絶えません。 視聴者の皆様、この豊臣秀次の生涯に どのような感想をお持ちになるでしょうか。 さて、三条河原の首塚の後日譚を最後に 紹介しましょう。 京都の高瀬川を開削し、水運を整備した 角倉了以は、教科書にも載っている 有名な豪商ですよね。 その高瀬川開削工事の際に秀次首塚に 建てられていた「秀次悪逆」の文字が彫られた 石碑を発見しました。 鴨川が氾濫した際に流されて行方不明に なっていたようです。 角倉了以はこれを受けて、1611年に 秀次の菩提を弔うために、瑞泉寺を建立し、 「悪逆」の文字を削り取って供養塔として 再建したそうです。 実は、了以の弟、吉田宗恂は、 秀次の侍医だった縁がありました。 今も京都市中京区にある瑞泉寺境内には、 その秀次の供養塔と墓があり、 眷属の墓とともに守られています。
八幡山城は、悲劇の天下人、豊臣秀次が築き、城下町を繫栄させました。ところが、秀次は謀反の疑いを秀吉に持たれ、切腹を命じられ、この八幡山城は、秀次の生きた痕跡を消し去りたいと考えた秀吉により10年で破却されました。
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【タイムコード】
◆秀次の生涯 : 2:24
◆西の丸 : 13:35
◆瑞龍寺 : 19:24
◆日牟禮八幡宮 : 24:23
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【八幡山城】
◆近江八幡の観光の中心、八幡堀を北側に渡ると日牟禮八幡宮境内となり、ロープウェイが山上まで通じています。
◆ロープウェイを山上で降りると、石垣が現れ、展望台の先から石垣で囲まれた瑞龍寺のある本丸跡に行くことができます。
帯曲輪が本丸を取り囲んでおり、そこを進むと、展望が素晴らしい西の丸、出丸、北の丸を巡ることができます。
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【チャンネル】
@歩いて旅するにっぽん 城跡を歩く
歴史を紐解くことによって、往時の武士の息遣いや緊迫した雰囲気が感じられる場所を徹底リサーチして厳選の上紹介しています。
◆運営会社:アスタービジョン株式会社
ウェブサイトはこちら
https://astervision.co.jp/
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【撮影機材】
◆GoPro HERO10 Black
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【編集ソフト】
◆PowerDirector 365
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動画の一部で、地理院タイルに地名・アイコン等を追記した画像を利用して配信しています。
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2 Comments
この時、切腹させられたのが家康・秀忠父子だったら、豊臣の天下は盤石だっただろうか?
問題はそれほど単純だったとは思えない。
秀次もはじめのころは血縁のおじさんにぬくもりを感じることなどあったのでしょうか、まさか、年老いた旧知のおじさんが牙を剥いて自らに死を命じ、係累子供すべてに対してあれだけのことをするとは思いもよらなかったのかもしれません。