ブログ「ルシャ翁がゆく」
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このあたりは米町と呼ばれ明治8年に命名されました。江戸時代は「クスリ場所」の中心地で、漁業をひらいた商人の屋号「米屋」にちなむ町名です。
早くから商業が栄え、石炭輸送のトロッコが米町通りを走るなど、近代港湾ができるまで、釧路経済の中心でした。町並み形成はこの地域から始まり、神社仏閣や石碑などから当時の「米町」の歴史をしのぶことができます。(米町公園説明板から)
【クスリ】とは
北海道が蝦夷地と呼ばれた江戸時代に釧路はアイヌ語で「クスリ」と呼ばれた。 その意味として「越える道」「のど元」などといった説がある。 蝦夷地に置かれた松前藩は、海岸にあるアイヌの集落・コタンを「場所」と呼び、物品の交換に便利なコタンでアイヌと交易を行った。

啄木日記の明治41年(1908年)1月21日に「………九時半頃釧路に着。 停車場 から町許り、迎へに来た佐藤国司氏らと共に歩いて、 幣舞橋 といふを渡った。………」とあって、76日間の釧路生活が始まった。啄木22才。

昭和7年(1932年)8月25日、 斎藤茂吉 は釧路に。
 北國の釧路の町はともしびもあかあかとつきにぎはふところ
 ぬばたまの夜のくらきにとどろける釧路の濱もわが見つるかも

明治、大正、昭和の日本俳句界に大きな足跡を遺した巨匠高濱虚子 は昭和8年(1933年)8月23日この釧路を訪れた。
「釧路の宿屋に著いてから間もなく、釧路の町に出て見る。先づ一番に嚴神社の境内に行つて釧路港を俯瞰する。秋晴の港は一睥のうちに集る。一方には燈臺が見える。燈臺はあまり大きくないが、其傍に霧笛聳えているのが目につく。轉じて魚河岸ともいふべきところに行つて見る。鮪を荷造りしてゐるところ、鮪船がついて、雜魚を肥料にするべく運んでゐるところなどを見る。
壯觀。」
 露領より歸りし船と鮪船
 屈強の裸の漁夫の汗光る
 夜もすがら霧の港の人ゆきき
昭和八年八月二十三日 此の夜、釧路港 、近江屋泊。

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