南大沢や堀之内が八王子市である理由とは?
[音楽] 皆さん、こんにちは。朝川です。 八王市の南頭部隣接する魂と地形や交通で 強く結ばれ、まるで一体の地域のようです 。ショッピングや通勤でも玉センター、 またその先の新宿へのアクセスが便利な このエリア。なぜこの場所は魂市ではなく 八王子市に属しているのでしょうか?本日 はこの理由を探っていきます。 八王子市は東京都の南西部に位置する市 です。人口は約56万。面積は東京23区 のおよそ1/3に相当し、東京都内で2番 目に広い地域を持ちます。 市の中心部となるのは東部にあるJR 八王子駅や京王八王子駅の周辺。周囲には 多摩地区でも有数のハカ外が広がります。 一方の西側に目を向けると産地が多くなり 緑豊かな景色が広がります。有名な観光地 である高尾さんもこの辺りに立しています 。そして市の南頭部。こちらは多ニュー タウンに含まれるエリアで住宅や商業施設 を中心に開発がなされています。 八王子市南東部は地域のや出っ張った エリアに位置しています。 オクリガーの流域に広がる兵地が特徴で 川沿いを進むとわずか数度で魂し 一方八王子中心部とは丘で隔立てられて いるため地形的には東側の玉の連続性が 強い地域です。 [音楽] この地域の特色は五地の公共交通にも現れ ています。 この地域における公共交通の主力は京王 相模原線。東路線は駅と橋本駅とを結ぶ 路線です。 からは京王線と直通運転を行っており、 実質的には新宿と橋本と結ぶ路線と言え ます。八王子市内には京王堀の内と南大沢 駅が立致しています。ただこの路線は大側 の流れと同じように東西方向に不折されて います。 この路線を使って八王子の中心部には行け ない一方、魂市の中心である多センター、 またその先恐怖や新宿などには乗り換え なしで向かうことができます。 八王子の中心部へ直接公共交通機関で 向かう場合にはバスを利用する形となり ます。 記念は自価用者の普及や道路の整備により 丘を超えて生きる手段は多くなっています が、やはり繋がり的な面で見ると東側の魂 の方が強いようにも見えます。 特に地域から程度近い場所にある玉 センター。こちらは玉市だけではなく、 辺り一体玉ニュタウンの中心部ともなって います。周辺には商業施設や業務施設、 また大きな公園なども広がり、利便性の 高い地区です。八王子市の南東部からは この玉センターへのアクセスがとてもいい こと。また京王相模原線の南大沢駅周辺も 商業施設が充実しており、とりわけ買い物 などに関しては八王子の中心部に出向か なくてもいいような状況となっています。 交通的な面、そして地形的な面から見ても この辺りはお隣の魂と同じ自治体の方が なんとなく収まりもいいそのようにも 感じる場所です。ではなぜこの場所は 八王寺に属しているのでしょうか?歴史を 振り返りながら確認をしてみましょう。 八王子市の南東部には湯村という村が存在 しました。 この湯村が1964年に八王子市と合併を したことによりこの辺りも八王子市域に なったという経緯です。 ではこの八王子との合併に至った背景は どのようなものだったのかを考察していき ましょう。 湯村という自治体が正式にできたのは 1889年明治22年のこと。範囲として は地図で示すとこの辺り 具体的に現在も使われている地名で表すと 西から水、南大沢、上、下、別、小野、 東中野、大塚などが含まれていました。 当時この辺りはまだニュータウン開発が 進む前でのどかな三尊という雰囲気、東側 の魂を含めて都化をされていた場所では ありませんでした。 次に他の地域との関わり合いという面を見 ていきましょう。江戸時代の後期1827 年に寄せ組合というものが設置されます。 湯村は四葉組合において東側の現在の魂、 また日域の村と同じグループに分類され ました。このグループ分けは単なる地理的 なつがりだけではなく、スケ合組合、様水 組合いなどその地域の結びつきが多分に 考慮されていたそうです。またここで着目 したいのは江戸時代において湯村は現在の 魂市や日域とも一定数の繋がりがあったと いうことです。しかしながら湯村は地図で 見ると東西に広い損息を持っていたことが わかります。そしてこの1番西に位置する 槍水に関しては八王子との繋がりが深い 地域でした。槍水は元々江戸時代より キートの取引が盛んで槍商人と呼ばれる 商人集団が生まれます。また江戸時代末期 の横浜開校によりキートの輸出が盛になり ます。槍水ではそれまでの経験を生かして 外国勝者との間を取り各地からキートを 集めや水にある地前のクで蓄え、転合いを 見て販売を行うという手法で富を増やす ものが増えてきます。元々洋産が盛んで あった八王子においても横浜へキートを 出荷する流れができ槍水はそのルートの 一部となります。 このことから槍蜜光周辺では八王子との 交流が一定数あったと推察することができ ます。そしてこのことから同じ湯村でも 東西に長いことが影響で関わりの深い地域 が異なっていたと考えることができます。 さてこのように誕生した湯村ですが長い こと3巻の脳として機能して行きます。盛 だったのは洋産と楽納。特に楽納に関して は牛といえばイ草、楽能といえば湯村と 言われるほど全国にその名は知れ渡ったと されています。ただ時代が進行するにつれ て徐々に変わってきた部分もあります。 現在も旧湯木村だった八王子市南東部と 中心部をつぐ野園街道という道があるの ですが、商馬に入ると大規模な震動不折 工事が行われます。そして昭和4年 1929年に村内と八王子中心部と結ぶ バスが運行され始めます。運港区間は 八王子駅の北口と下、南大沢駅の少し北側 、現在の中央小学校がある辺りです。この ように脳損として推移をしながらも近代 交通の影響が徐々に浸透し始めていきます 。同時にバスが開通したのが八王子方面と いうのも着目したい点です。 湯村の特に西武においては徐々に八王子と の繋がりも見えてくるという形になります 。 そして時は流れて1953年、賞は28年 。この年に町村合併推進法というものが 制定されます。これは人口8000人以下 の町村を合併して行政の感祖化と財政の 安定を図るために制定されたものです。 東京都においても該当の自治体の合併が 促進されます。そしてこの要件に 当てはまっていた湯村は東京都よりお隣の 玉村との合併を提案されます。ただこの都 が出した合併案に対し湯村と玉村はどちら も何色を示します。湯村は八王子日野など を含めた大規模な合併。田村は日町、稲村 、七尾村、湯村を含めた合併を希望してい ました。ご案内の通り、五地周辺はまだ 開発が行われる前で雰囲気としては3巻の 脳村。どちらの村も現在のように大きく 発展をしていたわけではありませんでした 。 このような事情から両村とも合併の規模を 大きくしたいという思惑があったものと 考えられます。結局この町村合併促進法は 1956年に出行。この期間内に湯村、 玉村が周辺自治体と合併をすることはあり ませんでした。 しかしおな都市に新町村建設促進法という 法律が制定され、再び合併が強く推進さ れる状況となります。 雪村と玉村の合併に関して、今度は都から かなり強い意思を持ったお願いがなされ ます。ただこの星眼を持ってしても幸村と 玉村単独での合併には反対という立場が 取られます。そして翌年1958年12月 に湯村、玉村、日町、稲町の4時地帯での 合併協議会が発足し、この枠組での合併が 議論されます。また1960年になると 玉村は一転して湯村との合併を容認する 方向に動きます。ただ湯村は依前として 玉村との単独の合併は反対の立場を取り 続けます。 雪村としては八王子や日野を合わせた 大きな枠組での合併を模索していました。 しかしここで日野の事情と神面が存在し ました。少し話を戻して1953年に町村 合併促進法が施工された際、日野は八王子 との合併が推進されていました。ただ日野 は当時から人口が2万2000人を超えて おり法の要件である人口8000人を超え ていること。また当時八王子が繊細復興の 最中であり面度の負担を強いられるのでは ないかという疑問があったことから日野は 八王子と合併をしないという選択を取り ました。 ただ日野は南側にあった七尾村との合併を 行い改めて日野町として出発したところ でした。そして当時日野が目指していたの が単独姿勢。当時死となるための要件とし て人口5万人以上というものがありました 。日野は姿勢に向けて目標達成のために 向上誘致や住宅開発などに力を入れて行き ます。このように日野は日野で独自に 目指した目標があったため湯村また他の 町村との合併に関して足並みが揃わなかっ たという面が考えられます。実際に 1961年頃から湯村は日江の合併の 申し入れを行いますが、話し合いの進捗が あまり見慣れませんでした。 翌年以降は八王子との合併競議も行われて いきます。昨日との合併も模索する中、 最終的に湯村議会において八王子との合併 が議決され、八王子に合併申し入れを行い ます。そして1964年、住民投票におい て八王子との合併賛成が上回ったことを 受けて湯村は八王子市と合併を行います。 さらりと流れを語るとこのような形なの ですが、湯村の中ですんなりと八王子と 合併の流れが決まったわけではありません 。実際に湯村内の他の地域との繋がりを 振り返ってみると、西側の地域では徐々に 八王子との繋がりが深くなっていきます。 ただ村全体としては東側の玉村との合併は 反対。このような状況。しかし村内で意見 が1枚にまとまっていたわけではありませ んでした。特に東部の村では八王子では なく日野や玉村への合併を強く願う場所が 多くありました。 1961年、玉村に近い大塚地区が玉村へ の合併を望んで分の星眼を行います。この 星願は損会において秘訣。ただまた しばらく時が流れ、合併先が八王子になる のか日野になるのかという状況で再び村 損内では対立が起きます。先ほど損議会で 八王子との合併が議決されたとご案内をし ましたが、この議決も7対6と非常に勝査 での議決でした。 また、合併の決め手となった住民投票に 関しても1916票が八王子との合併に 賛成、日との合併に賛成が1510票と日 の賛成もかなり多くなっています。 その後八王子と合併をした後も日野市合併 派の一部住民は八王子から分するように 働きかける等を行っていました。働きかけ を行った地域に関してですが東武のご地域 具体的には大塚東中の堀の内腰の別所など といった地域です。この辺りは文の 働きかけを積極的に行っていたそうなの ですが結局今日に至るまで八王子四地域と して存続しています。この流れを見ると 同じ湯村の中でも西側の八王子に近かった 部分と東側の玉や日野に近い部分で意見が 分れていたということがわかります。 そして八王子市と玉市の教会が現在よりも もう少し西側になっていた可能性もあった 。このように考えることもできます。 このようにして湯村は八王寺市となるの ですが、同時に五地周辺ではある計画が 進行します。それが多摩ニュータウンです 。多ニュータウンは1963年に基本計画 が策定されます。ちょうど湯村の合併と 同時期くらいです。そしてその後1969 年に気候式が行われ増成が開始されます。 最初に入居が始まったのは1971年現在 の長山駅の南側の地区においてです。その 後1980年代前半になると多玉多 センター駅周辺の開発が開始。その後80 年代後半から90年代前半になると南大沢 駅周辺でも開発が開始されます。 ダニュータウン、その他の地区など詳しい 歴史に関しては私が過去に投稿した動画を 参照して欲しいのですが、本動画で重要に なってくるのは湯村であった場所の景色が 様わりすることです。湯村、またお隣の 現在の魂はニュータウン開発が始まるまで は三尊の景色が広がっていました。しかし ながら開発後は住宅商業施設、また一部 地区には商業施設のビルが立つなど景色 がわりして行きます。 そしてさらに大きいのが京王相模原線の 海業。京王相模原線は1974年に京王玉 多センター駅まで海。1988年に南大沢 、1990年に橋本まで開業し、前線開業 に至ります。 これにより交通の流れが一気に変わった ことが予想できます。まずニュータウン増 まではご案内の通りこの辺りには鉄道が 通っていませんでした。ただ湯村の西武 現在の南大沢駅の少し北側の辺りまでは 八王子駅からのバスが伸びておりそちらへ の公共交通は存在するという状況。しかし 、相模花線開業後は東西方向を移動する 鉄道が開村 の範囲のほぼ全域がこの相模原線の利用 圏内となります。 ニュータウンの中心である多センターへの 移動の利便性増加、またその先の新宿方面 への利便性の増加で八王子方面への依存度 が相対的に下がります。 さらに都市の発展や道路の発展により さらに八王子方面への依存度が下がる。 この状況から南大沢や堀の内旧湯村であっ た辺りが八王子との一体性が薄いように 見える。このように考えることができる でしょう。 ここまでの話を総合するとまず八王子氏の 南頭部が八王子となったのは合併が要因。 そして合併には様々な事情が絡み合ってい ました。また歴史にイフを挟むのはやぼか もしれませんが、多ニュータウンの開発が もう少し早く開始されていたら、また4に よる合併の手導がもう少し遅いタイミング で始まっていたら、このことを想像すると 五地周辺の都市機能や交通の流れが大きく 変わっていたため、合併に関しても結果が 大きく変わっていたかもしれません。 また旧湯ぎ村の東部の合併後の分に関して この詳細な流れの部分の資料を今回私が 見つけることができなかったため結果的に 現在も八王自士の範囲であるということ しかお伝えできませんでした。 この部分に関してご存知の方いらっしゃい ましたらばコメントをお寄せいただければ と思います。さて今回の動画はここまでと なります。ご視聴ありがとう存じます。 また次回も一生懸命頑張ります。ごきげ よう。
#八王子市 #多摩市 #南大沢
八王子市の南東部。京王相模原線の南大沢駅や京王堀之内駅がある辺り。この辺りは八王子市とは言え、直接八王子市の中心部に向かう鉄道がなく、また道路交通や鉄道がお隣の多摩市の多摩センター周辺。また、その先の新宿方面に向いているため、八王子市中心部との一体感が薄い場所です。
ここが八王子になったのはご当地にあった由木村が八王子市に吸収合併されたため。ではなぜこの村はなぜ八王子との合併を選んだのか。本日はこの辺りを考察していきたいと思います。
関連の動画
多摩ニュータウンについて
利用者が90%減った路線
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24 Comments
0:37 …相模原市緑区になってますが…
旧由木村の南大沢が2025春アニメ「日々は過ぎれど飯うまし」の舞台モデルになったので特に気になっていた話題です。
旧由木村と八王子市の一体性は合併前後の歴史から推察するとケースバイケース(旧由木村西部は比較的ある・旧由木村東部は比較的乏しい)だという事が分かりました。
将来を考慮すると、八王子市・日野市・多摩市・上野原市・相模原市(旧藤野町・旧相模湖町)辺りで広域連合を組んで県庁並みの権限・財源・人間の3ゲン強化が必要だと考えます。
今から50年ちょっと前、鑓水で〇〇大学助教授教え子〇〇事件が発生。真夏に👻が出ると騒いでいた。
当時の鑓水はジャングル。ヘリコプターでTV中継する大きな事件だった。
こん○○は、お疲れ様です
地形だけみると浅川系統でなく、
大栗川系統で多摩市っぽいっすね
古くからの街道でみると
野猿街道と柚木街道で
八王子中心地との関わりが
多かったからなんでしょうかね🤔
多摩ニュータウン通りや尾根幹や京王線は
多摩ニュータウン開発後ですものね
野猿峠がね、バス通りっても峠道で時間もそれなり料金も高いから気軽に使わない
街道沿いを大規模に削って自転車で気軽に北野駅に行ける程度に平坦にして開発してたらロードサイド店舗の出店もあったろうしもう少し繋がりが強かったかもねえ
南大沢駅は計画当初は「由木平」と呼ばれていました
多摩センター地域や八王子の松が谷 鹿島等は多摩中央署や南大沢署が出来るまでは日野警察の所轄でした
下柚木近傍に住む者です。地域の運動会は今も由木地区で毎年行われています。由木中央小内に石碑もあり、合併当時は生まれていませんでしたが、この地域はやはり八王子市本体?とは異質な感じがしますし、近年外部から転入してきた方は別として、昔から住んでる(私も含め)者は、自身が八王子の人間とは思ってはいない方も多いのが事実です。八王子の中心部に出るには、やはり山を下らなければなりませんので、だったら多摩センターに行ってしまいます。
合併しないで単独で由木市を目指せばよかったのでは。
南大沢が八王子市なのは知ってたが、なぜあそこが八王子市という理由が分かりました。
映画館よく行ったんだよね。
まぁ確かに南大沢や多摩センの辺りって尾根幹も鉄道もなかった頃は八王子か府中方面に出るしかなかったでしょうから、今の交通感覚とは大分違っていたんでしょうね
南大沢は綺麗な街だし都立大やアウトレットモールもあるけど、共働きで都心に通勤するのには遠すぎるんだよな。多摩センター以西のダイヤ改悪もあったし。
八王子、日野どっちにも住んだけど
福祉は日野の方が良かったな、今となってはどっちと合併がよかったのか。
橋本から府中に通勤してるのですが、調布回るのが時間ロス😢、この前人身振替で多摩モノレールに振替したけど、地獄を見ました。
このあたりの小山部分が移動のネックなんですね。
やっぱ北野とか片倉あたりから南大沢の方抜けるのは結構遠いし、八王子駅周辺とかもっと西の方とは毛色が違うよう感じるんよな
我が母校も八王子市東中野で、名前は八王子キャンパスではなく、高幡不動や多摩センターが最寄りで近くて、多摩キャンパスと呼ばれるほどで、どちらかというと日野市とか多摩市っぽい感じですね。
柚木地区の合併を巡って、八王子、日野、多摩で相当揉めだようですね。
殴り合いの紛争状態にもなったとか
当時は多摩は村で日野とは今でもそうですが峠越えになるってこともあって
多摩地区の中心都市であった八王子との合併を最終的に決断したということのようです
動画でも述べていましたが、東部の大塚、鹿島地区は多摩市への編入を要望して
多摩市議会では可決されたものの、八王子では否決ということになって今のままになったと
結局市役所の支所(八王子では事務所と呼んでいますが)を開設(由木東事務所)という
形で収めたということのようです
職場の同僚実家が由木地主さんです。大体地名に「上」「下」とつく所は古くからの歴史があるように感じます。
由木村の人たちは多摩村が大嫌いだったのかな?何かしら遺恨かプライド的な問題があったんだろうか
自動車社会になる前は地理的な都合が非常に大きかったと思いますので、由木村西部は御殿峠&野猿峠で八王子に、由木村東部は大栗川経由で関戸(現在の聖蹟桜ヶ丘)方面との交流が多かったんでしょうね。
よく言われる話し
何処に住んでると聞かれて
南大沢の住民は八王子とは
言わず南大沢と答える。
まだ 一度も八王子駅に
行ったことない。
できれば 隣りの多摩市か
町田市に編入してほしい。
八王子市の足の部分🦵
86年のハレー彗星到来時は、都立大建設予定地が、東西南北360度、上方180度まったく街灯や都市の明かりが視界に入らない場所があり、夜明け前にそこで見た。
警官も真面目に夜明け近くでもパトロールしていて、職務質問してきたおまわりさんに望遠鏡でハレー彗星見せてやったよ。尾っぽほとんどなかったな。
南大沢や堀ノ内は今の情勢を考えれば多摩市が良かったのだと思う。
理由は八王子市は京八に事務所を持つ某議員や新興宗教問題などでイメージ悪化や南大沢自体も新興宗教トラブル多い話も聞くので猶更です。
かといって日野市も市長を考えると多摩市が良かったのだと改めて思うところです。
八王子市は意外と財政状況良くない話も聞くので。
これから日本が衰退したら都道府県合併がありそうです