【首里さんぽ】守礼門から中城御殿~龍潭池まで~中城御殿で沖縄戦の砲弾の跡を探す、松崎馬場跡〜浦添城址〜普天満宮まで続く西海道の起点

[音楽] 山のままで1番だ写真だぞ シュレイ門ンを出発して りタ行けぐるり収 山のまでいたよ こんにちは町歩き沖縄です 頑張れここで一言 流決って読み方は違うんじゃないかと時々指摘を受けます というのも流タのタは中国語で池という意味ですから流タ池と発音すると竜の池になると指摘されることがあるんですが地元では流タ池という呼び方も一般的なのでここでもあえて流池と発音にしています 色々やこしいですね それにしても今日は素晴らしい青空ですこうした天気の日はどこを歩いても快適で楽しいですね パパ シレイ門から続く左の道は琉球時代のメインの道路城道ですこの道をまっすぐに降りていくと総減寺に至ります 今日は右に曲がって流タ池に向かいます たこ焼き安 さん今日は開いてるじゃないですかお客さんが 1 人焼き上がるのを待ってました視聴者さんから裏理観光の際はここでもたこ焼きを買うと聞いていたので今日はチャンスだったのにやはり買えば良かった悔みます 右手に何かの案内版がありますこれは何でしょうか 琉球王国時代から明治機にかけての種理の市場の後右町とも呼ばれていましたこの一体は裏理地域最大の市場でした 明治期以降になると玉うどん付近に市場が 移ったため にこの地域は大正区年に地名を流日んで池 と解消しまし たなどと記載されています 正面の中空は石垣の修復中のようです 前回右手の流タ沿いの石垣を補修した時に は沖縄線で砲弾の穴が開いた石垣を どんどん新しいものに取り替えたことが ありました 沖縄線の記憶を消すような作業はとても 残念でしたが 今回の中空西側の石垣の補修工事はどう でしょうか 間近で確認してみたいと思います この辺りは旧来の石垣でしっかりと沖縄線 の砲弾の跡が残っています 左手の石垣はこれから1から積み直しだと 思いますが果たして戦争の記憶を残して くれるでしょうかま新しい石垣きになるの ではないかととても心配になります この地密沈み素晴らしいここは15年ほど 前に作られた新しい石垣きです石自体も まだ白くて新しいですね もちろん沖縄線の横断の後はありません これらの石垣は綺麗すぎる石垣です 沖縄の歴史を反映していないと私は考えています なんでこうなっちゃったんでしょうか?ここでもっと残念な発見をしてまいましたこの白い部分ですここには井戸がありました それが全くなくなっています これはどういうことですか と言うべきでしょうか 中空は復元計画が進行中です 中空が完成した時にはこの井戸も復活する のでしょうか この点もかなり心配です こちら側の石垣には沖縄線の砲弾の跡が たくさん残っています これが沖縄の歴史だと思います こうした砲弾の後は是非残して欲しい し忘れたくないですね ありがとうございます この辺りからまた新しいものに変えられて います 美しすぎてもうこれは沖縄線を乗り越えた 主理の石垣きではないですね この辺りから再び古い石垣になります 本日はここから松崎バ場を見 てりのほとりを歩きながら守理城に向かう 工程です が中クドンの石垣に注目しすぎてなかなか 前に進んでません 先を急ぎましょう 中丼の角を曲がりますと道が北方向に まっすぐに伸びています この道は守理場から続く琉球時代の街道の 1つ最道です ここをまっすぐに進むと義母から裏添え上 そして不点マグ方向に進むことができます 昔はここからも首場に行ってました たこの前の通りも最道の一部です またこの辺りにはバ場もあったようです 耳ちりの話は次の機会にして 今回は松崎バの説明版を読み上げてみたい と思います 松崎ババー と修理場から浦添え方面に至る街道の 一部及び広場の 名称竜タに突き出した一体は松が植えられ て松崎と名前がついていました ここには琉球時代の最高学府国学が置かれ ていましたまた中国からの殺法士が来た際 には流で波流戦競争を行い艦退しました 平成元年の発掘調査では国学及び主理講子 病の石書きが確認されて県の文化罪指定 指席となりましたなどと説明されています りパンのほりのここには王朝の最高学府や バ場病などがあったようです ここで時間が来てしまいました 今回の動画の撮影計画 はこの後竜タ池の言道を歩い て弁在天道を見 て遠隔時に立ち寄って最後に手令の門まで 歩くコースだったんですが ここから先は次回の動画に引き継ぎたいと 思います 本日も最後までご視聴ありがとうござい ました

首里城散歩~龍潭池~中城御殿の修理中の石垣の砲弾跡を見る

9 Comments

  1. 来年の首里城復活が楽しみですね~😊首里城を1番最初に築城したのはどちら様でしょう?第一尚氏以前の方々だと思いますが、瞬天王、察度王、英祖王、それとももっと前の按司たちですかね??🤔

  2. おはようございます。街歩きさん

    この動画を見て、率直に悲しくなりました

    砲弾の痕跡があり

    井戸(カー)(がー )があった

    その痕跡こそ
    無くしては行けない事実

    悲しい

    でも、
    こうして街歩きさんが消してはいけない歴史の痕跡を残してくださっている事に

    胸がふるえました

  3. おはようございます。街歩きokinawaさん。
    琉球時代は室町時代から約570年続いた王様が統治していた時代ですね。
    石積みを基調とした美しい街づくりが進められています。
    コンクリートと違ってその時代の雰囲気が伝わってきました。

    中国からこられた冊封使も石済みの技術の高さに驚いたことでしょう!
    龍潭池付近に生殖している樹木と石積との景観が美しいです。
    また、池の役割も大きいと思います。

    琉球時代の技術者は美についての知識が優れていたと思います。
    次回の動画が楽しみです。また、沖縄訪問時には歩いてみます。

  4. お疲れ様です。
    うすまさいい天気でーびる!!
    観光客も多くて、再建中であっても見にくるとは上等です。
    一周できると思ってましたが、芸大なんかで途切れてますね。いや、池の周りの石垣斜面に道がありませんでしたかね?

    そう言えば中城御殿の石垣は、弾痕でちらはぎはぎーでしたね。新しい物に変えるのは、これはいただけませんねー。
    中には銃弾のカケラも入っていました。平和ガイドなんかでは、内地の高校生に触らせたことがありました。

    耳切りぼーじの動画待っていましょうね♪

  5. 街歩きさん、ハイサイ。凄く清々しい青空ですね。昨年首里城行きましたが、生憎の曇天でした。バリケンにちむどんどんしましたよ。耳切坊主の看板は知りませんでした。通った事のある道なのに・・・。

  6. こんばんはーお疲れさまです。中御殿の井戸がなくなっているのを見てショック!いやまあ、そこまでの話ではありませんが、ちょっともったいないと感じています。惜しいなぁ。壁を完全に塞いでいましたからたぶん内側に移動したんでしょうけど。もったいない。まあ個人の感想です。首里城周辺はお陰様で見慣れた景色になっていて、安心してお散歩動画を楽しめます。ありがたいお話です。ほんと、ありがとうございます。次回に続く、とのこと。楽しみにしてます~

  7. 「首里市」というのは、那覇市とかの市?ですか。それは知らなかったですね。ちなみに琉球大学は1950年から79年まで首里にあったそうです。

  8. 街歩きokinawaさん、撮影ご苦労様です。守礼門から中城御殿~龍潭池までの散歩で、中城御殿の石垣は、戦車や艦砲射撃に耐えられたのかは分かりませんが、銃弾ぐらいなら跳ね返せるんですね。昔の沖縄の石垣建築は素晴らしかったんですね。建物は焼かれても石垣は残っているんですね。 戦争の話になると、いつも思うのですが、本土決戦を遅らせるために、沖縄でできるだけ持久戦を続けた事により、多くの犠牲が出た事を思うと、やりきれないですね。本土の方でも、空襲や原子爆弾によって多数の犠牲者が出たのは知っていますが、あの頃の軍部は、天皇制を守ることが日本の国体を守ることになる、という事でできるだけ戦争を長引かせようとしたとしか思えませんね。 歴史に、もしも、と言う事は無意味だという人もいますが、今になってみれば、もっと早く戦争が終わっていれば、どのような世の中になっていたのか。現状を受け入れるしかありませんね。 これからもよろしくゴザイマス。

  9. こんにちは。守礼門から歩いて、綾門大道、龍潭通り、首里市跡、昔の市場の跡ですね。石垣の修理をされていますね。砲弾の跡も残っていますね。西海道、ご紹介ありがとうございました。

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