(99)【日本一周修学旅行】“軍神”上杉謙信の要塞──春日山城《上越》
おはようございます本日は6月2日の 月曜日現在地は上越市に来ております国道 8号線という名前を聞くとああいよいよ西 の方に進んでいるんだなという感覚になり ます上越市に僕が最初にやってきたのは 春ヶ山城目当てだったかなと思います今日 もその春山城に行きますので今回のテーマ は上杉健身です春ヶ谷山城は戦国時代に 上杉健身が本拠地として使っていたお城で この上越市の西側にありますということで やってきましたのが春山城です春ヶ山城 四席広場といった看板がありまして上の方 読んでみるとね上杉健身の居上として著名 な山って書いてあるんですよ山ですかって いう感じになるかもしれませんが実はね 春山城めちゃくちゃでかくってここからは 見えていないかな山が向こうにあるんです けどその山にもお城が気づかれていました だから山の麓元にもこのようなお掘りを 作るというのはなかなか珍しいんです けれどものすごく大きなお城であるという ことが分かると思いますお城のお掘りには 水彫りと殻堀というものがありましてこの ようにね水が張ってあるものっていうのは 水彫りと呼ばれるんですがえー掘を掘って みると堀の底にはたくさんの板切れが腐ら ず溜まっていたこの腐らずっていうのが ポイントですよね木材というのはこのよう に空気に触れるような状態で放っておくと どんどん腐っていきますのでこのようなね 水の中にある木材というのは腐らずに残っ ているということが多いんですよよって ここから腐っていない木の板が見つかった という風になりますとあこれは元々水彫り だったんだなということが推測できるわけ ですいやあそれにしてもでかいですよね これ今見えているっぱ全体的にお城になっ ていたんですけれどあの1番大きなお城と いうと小田原城が僕パッと思いつくんです があれはね後の時代ですからこの春ヶ山城 があった頃中世のえ中頃くらいですかね このくらいにはものすごく大きくって全国 的にも珍しかったんじゃないでしょうか この案内看板にもその大きさが特徴である といった内容が書かれていまして中世から 金星にかけての逐の移り変わりを1つの城 で探ることができる確かにそうですよね 相前の大きさは埋蔵文化剤センターまで ありましたという風に書いてあったんです けれどここから埋蔵文化センターへは徒歩 20分ものすごくでかい何度も回収工事が 行われ続けてこの大きさになったという ことだと思いますのでおそらく上杉健身が いた頃というのはもうちょっと小さかった とは思うんですがそれにしてもね1つのお 城でこの大きさを持っているというのは 全国的に見て本当に珍しいここに春ヶ山城 の模型がありました現在僕がいる場所は 多分ここですよねで埋蔵文化剤センターは この辺りにあるんだと思いますが実際のね 山代の部分というのはこの辺りですから この奥の方に山の部分があるんだと思い ますもうこの場所からは見えないくらい 大きいですこんだけ大きければ復元なんか もできるんじゃないかなと思うんですがま そこら辺はね自治体の予算とかも関連して くると思いますのでもしかしたらそういう ことをしたいと思って動いているのかも しれませんがま私の復元がどのくらい観光 的な資源になるかっていうのも難しい話で はあるので現在このように何もない腹っぱ が広がっているというのは仕方ないんじゃ ないかなと思いますこのすぐ近くにあるの が春ヶ山城あと物語間という建物でして そういえば今日は月曜日でした月曜はこう いう施設閉まってるんですよてことは今日 はどこも閉まっているんじゃないかうんま しゃあなあ施設を巡るのは今日は無理そう ですけれどまお城はね山を登るだけです からいけるでしょうということで山の麓元 にある上杉健神に関連するお寺に向かって いきますお見えてますね正面にある山が 春山城のえ山次の部分ですこれ登っていく のが結構大変だった覚えがあります今回の 旅行のどっかのタイミングで山次と平山と 平次の話をしたと思いますけど山次という のはね1番古い携帯のお城と考えていいと 思います さて到着しましたこちらがリセジ寺です 上杉健身に関連する本とかを読んでいたら ね絶対にこのお寺は出てくるんですが上杉 健身がまだえ長尾虎ラチ代だったかな昔の 名前なんですけどそういった子供の頃に 学問を学んでいたお寺ですどう やらセジ寺さんも今日はしまってそうです ねここにリセジ寺と書かれていますがこの 名前に聞き覚えがあるという方もいるん じゃないでしょうか今回の旅行の中で僕は 山形県の米沢に行きましたがこの米沢ね後 に上杉市が移ってきた場所という風にご 紹介したと思いますこの米沢神社の 経官図があったと思うんですよねその時に え米沢城の浄下にはリセンジ寺というお寺 がありましたみたいな話をしたと思います 地図で見てみるとこの米沢城の南側に リセジ寺といったお寺があるんですよ つまりこれはどういうことかと言いますと 上杉市が関ヶ原の戦い以後に移された際に お寺も一緒に移ってきたということですま 閉まっているのは仕方がありませんから どんどん先に進んでいきましょうこのよう なことを考えるとお寺の名前や道の名前 そして場所の名前というのは結構歴史を 残してくれていますので歴史探作をする際 には重要な手がかりとなってくるでしょう それでは車は坂道を登っていきます今から 向かっていきますのが春山城の山次の部分 です途中まではこのように車で坂道を登る ことができるんですが結構最後の方はね 歩かなきゃいけなかった覚えがあるので 春山城は結構体力を持ってかれるお城です これより先お体が不自由な方関係者以外の 車両の侵入はご遠慮くださいということで こっからは歩いていきます舗装されている 分まだ歩きやすいですよね中世の山なんか 行ってしまうと本当に獣道というか山の中 を登っていくみたいなこともありますから さて見えてきましたあそこにいらっしゃる のが上杉健身ですそもそも上杉健身は長尾 影トだったのになんで上杉健身になったの かとか色々とね分からないこと多いと思い ますので簡単に説明をしておこうと思い ます 時代頃に幕府といって全国を統括していた 期間があった場所というのはこの京都でし たこの京都にナンバーワンの将軍がいて そしてナンバー2の関がいるそのような形 で国家が運営されていたんですしかし当時 といえば情報の伝達手段もありませんから 地方の統地というのはなかなか難しいもの でした特に室町時代の前の鎌倉時代という のはですね鎌倉が中央だったので鎌倉は 境いていたんですよそうなると室町幕府と いうのは鎌倉を統括する期間を鎌倉に置き ましてじゃ東日本の方はお前たちに任せた みたいなそんな感じのえ統治機構をしてい たんですねそれがカマクラフですつまり 幕府のミニバージョンというのが カマクラフという風に思ってもらえばいい んですが幕府に将軍と寒冷がいることから も分かります通りこのカマクラフにも ナンバーワンとナンバー2がいますこの 鎌倉ラフのナンバーワンというのが鎌倉で でナンバー2というのが関東関です鎌倉 っていうのは大体足川市がついていくん ですがこの関東関っていうのはえ上杉市が ついていました上杉市っていうのは元々 ここから来ていますしかし戦国時代頃に なりますと伊勢装まいわゆる法条相ですね といった人物がこっちの方からずっと入っ てきましてこの関東を制圧していきます そうなると関東関であったりあとは鎌倉 工房であったりそういった人々はねこの 鎌倉を追われてしまうんですよでどんどん どんどん北の方向に追いられていきまして これはまずいという風に思った関東関の 上杉市は自分の部下である長押市といった 一族に助けてもらいましたここにいたん ですね長押しがということで鎌倉久保と いうのはこの辺りまでやってきてしまう みたいな状態になるんですけれどもここに いたのが長尾影トです長岡虎はなんとかし てこの線乱のようを終わらせたいという風 に考えましてよしそれならばと自分が用姿 に入って上杉を継ぎますとまここら辺の話 はちょっと難しいんですが簡単に言うと そんな感じですねで長岡影トが上杉家の 用姿に入ってその際に上杉健身と名前を 改めたのでしたつまり上杉健身がやりたい ことというのは先乱を終わらせて平和な 世の中を作り上げるということですね特に 関東関連を継いだということもありまして 関東の平和を実現するという思考が強かっ たです現在僕がいるこの場所上杉健身の像 がある辺りから本丸に行くのはね結構大変 なんですよこれずっと山を登っていきまし て山を登っていきまして山を登っていき ましてやっと本丸に到着という感じなん ですがませっかく来たなら行こうかなあで もバツって書いてあんのかじゃあますぐ 近くまでは行けるとは思いますので本丸の 下の辺りまで行きましょう今回の旅行でお 城はいっぱい行きましたが大体行ったもの といえば金星のお城ばっかりだったかなと 思いますので山次に登るのは今回の旅行に 限って言うと初めてなんじゃないかな日本 にお城という概念が成立し始めた頃この ような場所で武将たちが生活をしていたん だなということが分かってくるそのような 場所が中世の山です後ろを振り返ってみる となかなか高い位置まで登ってきているの が分かります皆さんこれが山ですよもう 入り口なんか見てみるとね3の丸入口とは 書いてあるんですけど完全に登山道ですよ こんな場所に人が住んでいたんですからね まこれでも山の中では結構整備されている 方でやマイルドな作りをしています例えば 楠の木正の山なんか行ったらね本当に人を 殺すために救ったんだなというような構造 が分かるくらい急な斜面を登らされますの でそういった場所と比較するとま登り やすいかなという感じですさて到着しまし たこの広場が3の丸です上杉健身には子供 がいなかったため容姿をもらっています その中の1人というのがこの影トという 人物です影トってあの上杉健身の元の名前 が長尾影トですがそれと同じ名前をもらっ たということからも分かります通り結構ね いい体遇を受けています元々彼はどこの人 だったかと言いますと小田原の北条宇康安 の7つまり北条士出身なんですね上杉市と 法城市が同盟を結ぶ際にまほぼ人質みたい なもんでしょうか自分の息子を上杉市に 用姿にやりまして上杉との関係性を強くし たというのがその影トなんですけれども後 にね別の用姿と戦いになりますそんな上杉 影トが住んでいた場所というのがこの場所 ですなんで別の用姿と戦いになったの かっていうのが書いてあります剣身が死ん だ後にですね後め争いが行われますつまり 誰が上杉健身の後を継ぐかという話でそれ がお盾のランと言うんですけれどもお盾と いうのはずっとね向こうの方に今も公園が 残っているんですがあの辺りかなと思い ますあの辺りに上杉影トが移動しましてで そこで戦ったっていう話ですねこのお盾の 欄で敗北したのが上杉影トで勝利したのが 上杉影勝です上杉影勝については米沢でお 話ししたと思います杉ヶ原の戦いに破れて 米沢に移された初代反手です3の丸を超え て坂道を登ってきたということで二の丸に 到着しましたよくこんな場所に住もうと 思いますよね二の丸には誰が住んでいたと いう表記はなくどうやら昔台所という風に 呼ばれていたそうですまそのまま考えます とおそらくここで食事を作って本丸に持っ ていっていたんでしょうさて登ってきまし たあれ 本丸歩けるようになってるななぜこんなに 行きにくい場所にお城を作ったのかという とこの光景が答えでしょうこの山の上から は平部部を一望することができ情報が必須 だった当時の戦において情報を集めるには 持ってこいの場所だったと思いますこの 周辺の防衛には現在僕が登っている春山城 だけでなく周辺には小さなお城というのを いくつも作っていましたそのようなお城と いうのをこの春山城から見ることができ 近づいてきている敵などもここからは一目 瞭然だったと想像できます手前の方は市街 地下が進んで当時のおかげはほとんど なくなっていますが奥の方に目を向けて みると田ぼが広がっている中で林が隣立し ているそのような中に集落があるという ような光景が広がっていますので中世頃に はこのような光景が広がっていたんだと 思いますこの上越市には港があるという こともありまして江戸時代頃にはこちらを 西回り甲路の気候地として使う船も たくさんいましたよって港町としてって いったため現在は海側がこのように発展し ていますその発展をさらに進めたのがここ に見えている駅の存在でしょう鉄道が通る ようになりますとたくさんの物流人の流れ が生まれていきましてこの場所が町の中心 地となっていきました上杉健身が眺めてい たであろう光景というのが現代的な形に 発展していっているそんな様子を見ること ができるのがこのヶ山城です結構登ってき ましたがさっき僕が上杉剣身の銅像を見て いた場所というのはこの場所です剣身の 銅像ちょっとだけ見えますねということで まずはあそこまで戻っていきましょう 銅像の辺りまで降りてきました上杉健身 さんかっこいいお城を作ってくれて ありがとうございます ።
●X
Tweets by Y_Eschool
●Instagram
https://www.instagram.com/Youtube.ele.school
●公式ホームページ
https://youeleschool.com
●メールアドレス
marutakeebisu.yh@gmail.com
取材依頼や案件なども募集しております。
お気軽にお問い合わせください。
Amazonほしい物リスト
https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/3ODNCBI95ULS0?ref_=wl_share
動画制作に活用する予定の書籍などのリストです。 ご支援いただける場合はよろしくお願いいたします。
#旅行 #日本史 #日本一周修学旅行
6 Comments
本丸まで登ってくださってありがとうございます。本丸からの眺めは絶景でした。
春日山城、、よい城ですね。僕も訪れたことがありますが、城を歩いていると不思議と気分がよくなって、当時人生に疲れて夢破れた撲のこころをいやしてくれた記憶があります。懐かしいですね。😃
普通に登るだけでもハードですが、毎年11月になると謙信きき酒マラソンが開催され、そのコースの中に春日山城跡が含まれており、歴戦のランナーの方々もしんどいと本音を漏らしているのも聞いたりしますね…
今みたいに道も整備されていないのは当たり前と考えると、当時の状態で現代人がこの春日山城跡を登るとなったら、多分登り切れそうにないですよね…
以前、春日山城跡を訪れた際、修復作業に使うための小さな土嚢を携帯して登ってくださいという呼びかけをしていたので、ひとつ持って登城した記憶があります
10年前にに行きましたが、変わらない風景で安心しました。
林泉寺にはいれなかったのは残念でしたね。
お疲れ様です
50年近く前ですが本丸に登った時はここまで整備されていませんでした
行政を中心に沢山の方々が発掘・調査・整備をされておりますが
山城の方はまだまだ時間が掛かるようです