【近代化の夜明け⁉︎】銀の馬車道・鉱石の道の歴史と今【生野/神子畑/明延/中瀬】

明治時代の初め政府は食産工業政策に 基づいて西洋に追いつくため近代化政策を 進めていきました当時の日本はペリー来光 からわずか15年ほどしばらく鎖国体制を 取っていた日本は西洋の進んだ技術や文化 を間の当たりにした時近代化の必要性を 強く感じましたこれから触れるイ野や秋延 などの各鉱山そしてそれらをついだ議員の 馬車道鉱石の道は日本の産業は近代化して いく第一歩になった存在であると言っても 過言ではありません今回は現地を訪れ ながら日本遺産にもなっているイ野鉱山 や延鉱山などの各鉱山の歴史とそれらを ついだ議員の馬車道鉱石の道がどのような 貢献をしてきたのかその歴史を辿ってみ たいと思います [音楽] 兵庫県朝越市南部の張方と北部の立町地方 の方中間地点にあるのが行野の町ですここ には1200年の歴史を持つ行野鉱山が あり行野の町は鉱山町として栄えてきまし たそしてこの行野を起点に現在の姫路事故 までを銀の馬車道が行野からさらに見こ延 中の各鉱山までを鉱石の道が伸びています 2つ合わせて73kmに及ぶこのルートは 金銀道といった資源採掘に必要な道具類 人々の生活物資を運ぶルートとして整備さ れ多くの人やも馬車が生き換い沿線には 鉱山町や職場町が形成されました沿線には 人や物の動きに関連する様々な移行が残さ れておりまた途中には宿場町が現れそれら が歴史のストーリーとしてつがっていて 産業の近代化を象徴する道となっています 1868年イ野鉱山は明治政府によって 日本で最初に関営化された鉱山となります また1872年には三小端明延中ゼの各 鉱山も勧化されこれらはまさに国を上げて 近代化を押し進めるスタート地点となった 鉱山でもありますさあまずは姫路から スタートして行野まで銀の馬車道を巡って いきますその後行く野から鉱石の道を進み 巫小端秋延中の各鉱山へと順番に辿どり ながらその歴史について触れていきます ここは姫路事故周辺です ここから向こうの山の方へ49kmの銀の 馬車道が伸びています 馬車が行き換い陸池の方面から鉱石や精錬 された銀などがここへ運ばれ船で反出され ていきました 港では鉱山で必要な機械類物資人々の日用 品などの上げが行われました 議員の馬車道は正式名誉育の鉱山量馬車道 といい日本初の高速産業道路として明治 時代に入って育の鉱山が栄営化されたこと で整備が進みました江戸時代の終わりから 明治の始めイノ鉱山では銀の出量が減少し ていました議員は下兵の原料としても需要 があり明治政府は西洋の近代技術を投入し て議員の算出量増加を狙います一方で鉱山 の再開発本格稼働となると算出した鉱石を 港へ運ぶ必要あるいは鉱山経営に必要な 多くの機械や物資を港から運搬する必要が 出てきますつまり物流手段の近代化も鉱山 の近代化と同じぐらい重要なものとなり ます江戸時代までは馬の背中に荷物を乗せ て運ぶか小舟で川を下るかどで運ぶかと いった手段で物資の輸送を行っていました しかし道幅は狭くあまり整備もされてい なかったため大量の物資運搬には限界が ありましたとは言っても育の鉱山そのもの の歴史は古く付近には町や街道そして鹿松 といった基盤があり鉱山から港までそれ ほど寄伏のある地形でもなかったため整備 には取りかかりやすかった条件は揃ってい ました 姫路と育をつぐ武資大量輸送の新たな手段 として3つの案が提示されます1つ目は1 を活用した船運ですすでに1市川中流域 から船運での輸送が行われていて整備も スムーズと行きや上流域まで川幅を広げる 必要があること川底を深くする工事に莫大 な費用がかかること工事によって活水の 懸念があることなどから却下されました2 つ目は鉄道ですそっちに鉄道は開通する ことになりますが当時の時点では工事に 費用と年月がかかること思ったほどコスパ が良くないことなどからこれも却下され ましたそして3つ目が馬車道ですこちらは すでにある道を馬車が通れるものに回収 するだけで船や鉄道に比べて工事費や輸送 費を安く抑えられることから馬車道の整備 を行うことが決定しました馬車道の整備は ヨーロッパの土木技術であったマ田式で 行われました 下から粗石濃い石豆リの順に敷き詰めて ローラーで固める工事法で水分けが良い 丈夫であるという特徴がありますそして 路面を硬く整備することで馬車の総合が スムーズになりましたまた肯定差やカーブ を少なくしてできるだけ馬が一定の速度で 走れるような安全性や性格性を担保した ものとなりましたこの工事は日本人が 初めて道路を舗装する経験となりました 49kmの馬車道は3年の年月をかけて 1876年に完成しました建設費用は当時 の金額で8万8384円 現在に換算すると35億円でした 馬車道を作る際に1番苦労したのが川に橋 をかけることで橋の数は20以上に及び ました こちらの馬車道集築費は銀の馬車道完成を 記念して立てられたもので最も工事が南行 した行橋近くに記念費が立てられています 現在は新しい行の橋になっています 鹿松から山の方へ進むと途中明治時代の おかげを残す宿がいくつか現れ当時の移行 などが見られますそしてそのような宿泊町 をいくつか経由して馬車道は行くのまで 繋がっていきます こちらは馬車道のルート場にある辻川町 です 宿町であり武士輸送の中継記事だった町で 今も歴史的建造物がいくつか残っています 銀の馬車道は辻川の町を抜けると市川沿い を北上していきます さらに北へ進むと今度は町にたどり着き ます 館町は当初は銀の馬車道のルートからは 外れていましたが住民の要望によりルート に組み込まれました 明治時代には旅館や茶屋が並び賑合ってい ました今も小民家が見られます 銀の馬車道は現在はほとんどが舗装されて 国道や剣道として利用されています現在の 国道や剣道は銀の馬車道のルートとは完全 に一致しているわけではなく当時のルート で今は入ることができない場所もあります こちらは泡町です宿場町として栄えてき ました 日本で初めての舗装がなされた馬車専用 道路を間のにした沿線の人々はそれまでの 曲がりくねった細い道とは異なり幅が6m から7mもある真っすぐな道を見て大いに 驚いたと言われています 川ガの町がある上川町には舗装されず残さ れている銀の馬車道跡があります当時の 馬車道の姿をとめているものとしては唯一 のものになります 馬車道の完成から約20年後1895年に 姫路行くの間に万タ鉄道が開通しこの区間 は鉄道路でつがるようになりましたそれと 共に居車道としての役割は終えるように なり1920年に廃止となります さらに期待へ進むと行の峠に差しかかり ますこちらの行の峠を超えるとやがて市川 に沿って集落が見えてきます 鉱山町として栄えた行野の町です 行く野で銀の馬車道と鉱石の道が交差して います さでは続いて育の口座の歴史と現在の様子 について触れていきます イの鉱山は平安時代807年に開行したと 伝えられ1200年の歴史を持つ鉱山です 戦国時代から本格的に採掘が始まり織田 信長や豊秀吉によって管理されていた時期 もありました江戸時代は幕府の直轄となり 里山や岩見銀山と並んで江戸幕府の財政を 支えていました [音楽] 名治時代の初め1868年には栄の鉱山と なります 政府による調査の結果イ野鉱山は従来の やり方ではなく西洋の近代技術を導入した 鉱山運営を行っていくこととなり日本で 最初の関演鉱山として再建されそして食産 工業政策による日本の近代化を象徴する 代表的な鉱山となっていきます フランス人技師24人を迎えて機械化火薬 による採掘様要水路ダム建設トロッコ機道 鉱山学校など西洋の最新技術が次々と導入 され近代鉱山を作り上げていきました育野 鉱山は1889年からは皇室財産となり その後1896年に三菱合子会社に 払い下げられた後も国内有数の鉱山として 稼働していきました 銀を中心に金や銅鉛り亜鉛鈴などが算出さ れ採掘した鉱石は70種類に及びました 採掘された銀などは先ほどの馬車道を通っ て鹿松まで運ばれました 行動が深くなっていき採掘のコストが 見合わなくなり1973年に育の鉱山は 閉算します 現在は観光地化されていて観光動として 1000m ほど行動内を見学することができます動内では人形による採掘の様子が再現されていたり縦コの後が見られます [音楽] イ野鉱山の行動の総延長は350km地下 880mの深さまで達しました [音楽] 敷地内には資料館やお土産屋なども併設さ れています さあ行くの町を歩いてみます町を歩いて いると鉱山町として栄えたことが伺える 名残りやを見ることができます [音楽] ここを行くのでは銀の馬車道と鉱石の道が 交差していました さあここからは鉱石の道をたどりさらに北 へ進んでいきます 鉱石の道は行野から巫端明延中といった各 鉱山へつがる29kmの道です巫小端明延 中野鉱山も行く野と同じく明治政府によっ て関営化され近代的な開発が行われました そして鉱石を運ぶための専用道路が整備さ れ各鉱山がつがるとともに姫路島での銀の 馬車道とも連絡して輸送ネットワークと なりました最初は巫コ端鉱山での銀の採掘 量が増加したことを受けて1885年に 巫小端行野間に鉱石運搬専用道路が建設さ れましたこれが鉱石の道の始まりです鉱石 の道沿いにも各鉱山施設の移行や鉱山町の 景官などが見られます さではここからは向こうの山の中にある 巫端へ向かいます 行く野から車で20分ほどで巫コバ地区に 到着します右手に大きな建造物が現れます 巫コ端口座の歴史も古く平安時代から銀を 算出していたと言われています1872年 に巫コ端鉱山は関営化されその後1879 年に銀鉱脈が発見されたことで銀山として 本格稼働が始まりますそして育野鉱山と 同じく皇室財産の時代を経て1896年に 三菱に払い下げられました 採掘量の低下により1917年に鉱山とし ては閉算しますが1919年先行場が建設 され秋延鉱山で採掘された鉱石の先行場と して生まれ変わりました現在見られるのは その先行場の施設の移行になります 明延鉱山から運ばれてきた鉱石から鈴谷や 道亜鉛などを選別しその後鉱石の道を通っ て行野方面へ運ばれていきました巫小端 から行野までの運搬手段は最初は馬車で 1891年からはトロッコで運搬するよう になりますそして行野の精錬所あるいは銀 の馬車道を通って姫路まで運ばれました 191年にバタ鉄道が2駅まで開通すると 直接2駅まで運ばれ鉄道で輸送されるよう になりました昭和30年代からトラック 輸送になり道やトロコ道は廃止されます [音楽] 三小端へ向かう道路脇きに現れるこちらの トンネルの後は三端先行場と任をついでい た機道のトンネル跡になります さてこちらの三小端先行場ですが1940 年からの拡張工事によりその規模は東洋1 とも言われるほどでした先行場は山の斜面 を利用して作られた階段場の構造で1番上 のところに明の延山から運ばれてきた鉱石 が到着し肯定差を利用して先行作業が行わ れました幅は110m長さ165m高さ 75mありビルで言うと22回分の高さに 相当します 先行上体制で24時間体制で稼働し夜も 明るかったことから不城とも呼ばれました 現在先行所の中に入ったり上に登ったり することはできませんが辺りは広場となっ ており下からその様子を伺うことができ ます当時の建物はほとんど解体されてい ますが先行上の基礎部分が残されている 感じですそして周辺にもいくつか移行が見 られます [音楽] [音楽] [音楽] [音楽] 先行上の周辺には社などが並び川に沿って 鉱山町が火流の方まで形成されていました 美小には再生駅は1000人ほどが生活し ていましたが現在は20人ほどとなってい ます 巫端先行場は1987年明延の平山と共に 創業停止しますさあでは続いてその明のに 向かいますがその前にですね巫端先行場後 の広場にはこのような車両が保存されてい ますこちらは延と巫端の間約6km結んで いた名心電車の車両です 竹延の鉱石は最初は牛や馬車で山道を超え てこの巫小端まで運ばれましたが1912 年からは空中作度そして1929年に トンネルが完成したことによって鉱山鉄道 によってここまで運搬されるようになり ました鉱石を運搬する傍原1945年から は客車が連結され旅客輸送も始まり鉱山町 の人々の交通手段としても利用されました 旅客の運賃は1円だったことからこの名心 電車は1円電車とも呼ばれます 秋延と巫コバをつぐルートも鉱石の道を 形成しています 巫小端からさらに北製方向へ山の中を進む と今度は明延びに到着します 今見えているのは1936年頃に建設され た明の鉱山住宅です 明延の歴史もこれまた古く奈良の大仏の 健造の際に明延の道が使用されたという 言い伝えが残されていますまた織田信長谷 豊富秀義の管理家となった時代もありまし た巫小端と同じく1872年に栄化され その後皇室財産を経て1896年に三菱に 払い下げられ採掘や先行精錬輸送などの 技術によって近代化が進んでいきました 9年には鈴が発見されその後日本一の鈴 鉱山として反映していきます 鈴の算出量は国内の90%を占めるほど でした ここら辺が口座の中心地だった場所で インクラインや信号機の跡などが残ってい ます この上に訴事務所工場などの建物や名電車 の乗り場がありましたそしてここから 先ほどの巫小端先行場まで名神電車が山の 中を突っ切っていました 明の辺鉱山は円高と金属価格の下落の影響 を受けて1987年に閉算となっています そしてかつての行動一部は現在明延鉱山 探検行動として定期的に開催されている ガイドツアーで入ることができます行動内 には江戸時代の手彫りの後縦コの後や採掘 に使われた機械車両類などが展示されてい ます [音楽] 明の延山では鈴銀銅亜鉛を中心に40種類 ほどの鉱物が採掘されました行動の総援は 550km地下1000mにまで及びまし た こちらの建物が明延山探検行動のガイド ツアの受付場所になります4月から11月 の毎週日曜日に開催されていて予約がなく ても当日申し込むことができます そしてその向い側には一煙電車広場があり ます 明の延美コ端を走っていた名電車がここに も保存されていてさらにこちらでは定期的 に乗車体験が開催されています この名電車は明の辺鉱山が閉山される直前 まで運行されていました 今は人がかなり少なくなりましたがかつて の鉱山住宅や共同浴上映画館後など鉱山町 の反映を感じられる建物が残されています [音楽] [音楽] [音楽] [音楽] [音楽] [音楽] [音楽] [音楽] [音楽] 再生期昭和30年頃の従業員は1500人 で秋の延の人口は4000人ほどでした 現在は50人ほどとなっているようです 明の延鉱山は資源が枯渇して平山したわけ ではありませんので地下にはまだまだ資源 が眠っていると言われています 明延からさらに期待進むと中地区に着き ます姫路から続く73kmに及ぶ銀の 馬車道鉱石の道の終点となりますここには 中鉱山がありました 1573年に農民によって光る殺金が発見 されたことが中鉱山の歴史の始まりとなっ ていますその後次々と行動が掘られ江戸 時代は金山として栄えました巫バタ秋延と 同じく明治時代の1872年に勧産 の時代を経てその後1896年に三菱へ 払い下げられ再開発が試みられますが第1 次世界大制の影響で中断しますその後も いくつかの会社で採掘が行われましたが 思った業績を上げることはできませんでし た1935年に日本成功株式会社が所有 すると新しい機会や設備を導入して開発を 進めたことで近代化が進み新たな公脈にも あたり繁栄の時代を迎えました1935年 から1969年までの34年間に約8tの 金を算出しております中鉱山で採掘された 金は姫路へ運ばれた後瀬戸内会の直島で 精錬されましたまた昭和の時代には金と共 にアンチモンの採掘も行われるようになり ました アンチモンはレアメタルの一種で貴重な 資源で潜水艦のバッテリーなど軍受品にも 使用されていたため戦時中も採掘が進み ました1969年に鉱山としては閉算し ますが施設の一部は日本成功中所として今 も活用されていて輸入した材料から アンチモン製品が製造されています アンチモンはパソコンやテレビDVD ディスクや冷蔵庫など生活用品に幅広く 使用されています現在日本で作られる アンチモン製品の7割から8割がここで 作られています 一般的には鉱山の平山と共もに関連施設は 解体されたり廃墟化していきますがこの ような理由から今も鉱山関連の設備が残さ れていて現役で稼働し続けていますまです ので観光地化されておらず鉱山の中心施設 があった場所や行動などに入ることはでき ません 中の町には鉱山町の街並みが残されてい ます町ができた当初から開発が行われて いるわけではなく当時の区画からほとんど 姿を変えずに来ています鉱山が稼働してい た時代には商店や飲食店パチンコ店浴上 演芸場などが並んでいて多い時で1000 人ほどが暮らしていました [音楽] [音楽] [音楽] [音楽] 今回取り上げてきた兵庫県の張間と田島を つぐ銀の馬車道と鉱石の道そしてその先に ある鉱山や鉱山町宿場町これらは近代化を 押し進めてきた人々の知恵や技術日本の 近代化に貢献したその歴史の第一歩を 感じることができるエリアとなっています

明治時代のはじめ、政府は殖産興業政策にもとづいて、西洋に追いつくため近代化政策をすすめていきました。

当時の日本はペリー来航からわずか15年ほど、しばらく鎖国体制をとっていた日本は西洋の進んだ技術や文化を目の当たりにしたときに、近代化の必要性を強く感じました。

動画内でふれる生野や明延などの各鉱山、そしてそれらをつないだ銀の馬車道・鉱石の道は、日本の産業が近代化していく第一歩になった存在であるといっても過言ではありません。

今回は現地を訪れながら、日本遺産にもなっている生野鉱山や明延鉱山などの各鉱山の歴史と、それらをつないだ銀の馬車道・鉱石の道がどのような貢献をしてきたのか、その歴史をたどってみたいと思います。

【出典】
Map-It マップイットl 地図素材サイト

【Instagram】
https://www.instagram.com/akihiroba/

#生野鉱山 #歴史 #明延鉱山

1 Comment

  1. 1年前に明延鉱山のガイドツアーに行きました 近代の鉱山に入れる、貴重な経験をできてとても良かったです

Write A Comment