【古代神奈川考②】⛩️🚃✨秋葉山古墳群は有鹿神社さんと鈴鹿明神社さんに繋がるのか?😧古事記&日本書紀や古史古伝を読み解きつつ、神奈川県を旅行して古代史の謎を妄想解釈します😉
はいふどきです今回は秋場山古墳軍に行っ てみたいと存じますそれで はというわけで今回も神奈川県のマイナー どころを攻めていくんですが果たしてこの 動画重要があるんでしょうかまずはいつも のように場所の方から確認させていただき ますとこちらは神奈川県海老鳴市にあり ます住宅街の公園です前回ご紹介させて いただきました桜古墳公園さんから未来 イースを買っ飛ばして向かったんですが 距離的にはそんなに離れてないかなと思っ たんですが結構時間かかりましたね意外と 道も混雑していました1つ目秋葉山古墳軍 とはさてこちら案内分もありましたんで こういった情報を参照させていただきつつ まずはこの秋葉山古墳軍に関する基本情報 の方確認させていただければと存じます まずこちらにもうちょっと近づいて蓄の方 確認させていただきますと大体こんな感じ でしょうかもちろんこちらは付ドキの ざっくり追いかきになりますので全く正確 なものではございません参考程度に見て いただきたいんですがこちらを自系列に 沿って表現させていただきますとまずは 山国時代で受期変という第1期ですすい ませんいきなり受給変練とか言い出して しまったんですが実はですねもうちょっと したら小だしの動画の方でこちらの10 期練を使ってご紹介がスタートしますこの 10期練はあくまでさんのオリジナル変練 ですので全く正確なものではございません 後ほど小出しの動画の方で説明させて いただきますので一旦ここでは省かせて いただきますそんな熟期変は置いときまし てこの山大国時代に35分が蓄造されます 大きさも約51級なんですがどうやら一部 削られてしまったようでして残ったから 予測すると大体これぐらいのサイズ感だっ たそうですそんな51級の35分が山国 時代に蓄造されます続いて45号が蓄造さ れますがこちらもなんと前方後方分で 37.5級時代間は同じく山国時代でして 大体3世紀の後半になりますさらに続き まして2分50.5級の前方公園分が蓄さ れるんですが時代間的には山国時代の ラストのラスト3世紀の夏から4世紀初頭 ぐらいですそして時は流れ古墳時代前期 前半10期年でいう第2期付近であり空白 の4世紀の前半の頃この時代間になります と5分で20m級が蓄造されますこれまで 前方公園分や前方後方墳を作っていたにも 関わらず突然の方おまけにサイズ感も 20m級ですのでこれまでと比べてしまい ますとかなり見劣りします果たしてこれが 何を意味しているのかは流れ古墳時代前期 中頃10期年でいう第3期であり空白の4 世紀の中頃の時代間この秋葉山古墳軍で 最大級の古墳である15分前方公園分で 59m級が蓄されます以上で自系列順の 説明は終了となるんですがこの他にも6 興奮がもうちょっと上の方にあったりする んですが調査されていなくってちょっと 蓄造された時代感というのは不明になり ますまたここはなんてたって山のてぺなん ですがこの秋葉山古墳軍以外の場所が住宅 地としてもうすでに増成されてしまってい たんでもしかしたらここにも何らかの別の 古墳があったんではという説もあるんです がしかし残念ながらそれはもう確認する ことができませんので現時点で秋葉山古墳 軍で判明してるのは以上となりますでです ねま基本的なところはここまでとさせて いただきましてここで気になるのはやはり こちらの古墳軍が山国のヘミこそまって 言っている時代に作られた古墳だという ことですにも関わらずしっかり前方公園分 が蓄造されています前方公園分ですので 前方公園分が蓄造されている以上大和王健 の前方公園分体制に含まれてくる可能性が ありますですのでこの神奈川県は山国の ひこ越さんまあって言っている時代にも 関わらず大和王の前方公園分体制に含まれ ている地域だということがここから見て おりますさあ何なんだここはなんて言っ たっての神奈川県です乞ジが日本職におい てこの東獄といえばエミシとか大和たると か言っているはずの場所ですまだ大和た 武尊さんが来る前にも関わらずしっかり 大和王の前方公園分体制に入っているこの 神奈川県さあ何なんだこの地域はという ところがちょっと気になり始めましたので もう少し確認してみましょうこちらは前回 も確認させていただきました和州の相模の 国の軍をマッピングさせていただいた情報 になるんですが大体相模の国は真ん中 ぐらいに相模側が流れていましてここで 東西の軍であり氷が分けられますで今回の 秋葉山古墳軍がある場所はどうやら高倉軍 と呼ばれる場所のようでして改めて和住手 の方確認させていただきますと左の赤い 点線の箇所が高倉軍になりますしゃの国は 他地域と比べてみますと実はあまり豪で あり村が存在していないんですがただこの 高倉軍は坂の国の中では比較的豪が多い方 の軍になりますこちらはそんな高倉軍の 豪王をなんとなく古さんで現在の知名を 見比べてみてこんな辺かなと思って マッピングしてみたのがこちらになります ネット上の多くの初先輩方のご意見も配長 させていただきましてこちらにマッピング させていただいたんですが全く正確だと いうものではないのとこちらも諸説あるん ですがまあ何はと思われ一旦はカリセット しなければ始まらないのでこんな感じで 進めさせていただければと存じますで こちらを見てみますと今回の秋葉山古墳軍 っていうのがちょうど真ん中ら辺にあり ましてこれを囲むようにいくつかの号が 存在していますでここで気になってきます のがこちらの秋葉山古墳軍に悲装されて いるご一族の方々がどちらにお住まいの 方々でそしてこちらの号に住んで いらっしゃる方々と繋がってくるのかなん と言っても和名類住に描かれている豪のお 名前は平安時代以降の豪のお名前ですので これらが古墳時代から存在していたとは 限りませんで前回も軽くご紹介しましたが この相模の国が栄えるのは結構後で6世紀 とか明日になってから繁栄の時を迎えます 詳細は小だしの動画で触れる予定があり ますので一旦こちらでは省かせていただき ますがですのでこちらにはたくさんの豪の お名前が存在していますがそれがそっくり そのまま古墳時代から存在していたとは 限りませんただ秋葉古墳軍がある以上何ら かのご一族の方々がこちらにお住まいだっ たということはほぼ確実ですではそのご 一族の方々がこちらに一体どのように 繋がってくるのかを確認していきたいん ですがそんな中でちょっと気になっている のがこちらのアルカ神社さんですどうやら こちらには古代の遺跡があるようでして しかもそれは1つだけというわけではなく 複数ありかつ時代をまたがっているよう ですその状況を簡単においかけさせて いただきますと大体こんな感じまずいつも のように自系列は左から右へと順々に流れ ていきますまずは1番左の縄文時代の方 確認させていただきますと縄文時代の集落 遺跡として勝坂遺跡がどうやらこちらには あるようです近くには鈴鹿遺跡というもの もありましてこのことから縄文時代の方々 がこちらにお住まいだったんだなという ところが見えてまいりますなんと言っても こちらの神奈川県は東北の一部であり東北 といえば縄文時代にめちゃくちゃ栄えた 地域ですですので縄文の遺跡があること 自体はそんなに珍しくないんですがただ その延長戦上に秋山古墳軍がありますので これらの遺跡にお住まいだった方々が 秋葉山古墳軍へとつがっていく何らかの 勢力に成長していった可能性というものが 生じてまいります山大国時代から空白の4 世紀に秋葉山古墳軍が蓄造されるんですが ただその古墳軍の逐は4世紀でピタと 止まってしまい古墳時代中期の5世紀和の 5王の時代を迎えますと勝た坂アルカヤ 遺跡におきまして古代祭祀が始まります どうやらこちらにお住まいの方々は秋葉山 古墳軍による奮祭地から勝たアルカヤ遺跡 による民間祭祀の携帯に切り替わっていっ た可能性がありますそしてその延長線上に まこちらのお名前から分かる通りアルカ 神社さんがあったりするようですこれは なかなか興味深い宗教の進行の変遷状況と いうものが見えてきますがまあんまり やこしいこと言ってもしょうがないんで とにも確認も行ってみたいと存じますこの 前方に見えているのが早速15分だと思わ れるんですが私不思議で仕方ないんですが どうやって山の中でこの丘を見つけてこれ が古墳だって気づけるんですかね全く 気づける気がしないです2つ目古の方向 さあというわけでこちらの秋早山古墳軍 周辺には何らかの進行の変遷とそしてそこ につがるご一族の方々がいらっしゃったん だろうなということは見えてまいりました いやいやこう簡単に伝えてしまいますと なんだか当たり前のように聞こえてくるん ですがただこれって本当に珍しくてこの ようにはっきりと繋がりが見えてくると いうのは本当に希少です他の地域では滅多 に見えてこない同線がしっかりと見えて いるこの地域なんですがその執着点に おそらくあると思われるのがこちらにある 神社さんのアルカ神社さんと鈴鹿妙神社 さんです特にアルカ神社さんは縄文の頃 から遺跡があって最終的に古墳時代が 終わっても神社さんとして最登場してき ますんでこちらの地域にお住まいの方々の 人の営波みがずっとあった可能性が高い ですそうなってきますとなんと一応目と花 の先に秋葉山古墳軍がありますので古墳 時体のこちらにいた何らかの勢力の方々と の関係性も推できますそんなアルカ神社 さんに関してこちらは演技命式相模の国の 女王なんですがこちらの方確認させて いただきますと真ん中の赤い点線の箇所に 高倉軍の神社さんが乗っているんですが その中にアルカ神社さんが記載されており ますのでどうやらかなり昔からあったんだ なということ少なくま平安時代にはあった んだなということがここから見えてまいり ますさらにこちらは国立国会デジタル コレクションさんから引っ張り出して まいりました相模国分自士でしてこの赤い 転線の箇所にあるか妙人演技が記載されて おります内容は日本初期の世界観に準拠し ておりまして特に目立った目新しいような 内容というものはございませんなんと研究 者の方々によってはこちらの演技に疑念を 持たれておりましてさんがパーっと見た だけでもまあ巷たに溢れるコシコ電と同じ 時代をこちらの演技も踏んでいるので 鵜呑みにできる内容ではないよなという風 に考えてはいますただあくまでこちらは 神社さんの演技ですので宗教上そうなって いるということだと思いますんで宗教解釈 の上で問題ないのかなという風には考えて いますこの辺りはまた後ほど触れますので 一旦ここでは話を前に進めさせていただき ましてもう1つの神社さんである鈴鹿 美神社さんの方確認させていただきますと こちらは国立国会都市館のデタル コレクションさんから引っ張り出して まいりました新党大事点なんですがその中 に鈴鹿妙神社さんのことが描かれているん ですがどうやら天皇の時代にこちらの神社 さんは創立されたよという設定になって いるようですですので6世紀ですね6世紀 以前にはこの神社さんはなかったという ことになりまして神社さんのお名前からし て三重県の鈴鹿ですのでおそらくは古墳 時代後期はっきり言うとア鳥時代以降に どうやら三重県の鈴鹿にいた方々がこちら にやってきたんだろうなというところが推 されます他にもこちらの神社には面白い 情報がありましてそれがざと呼ばれる本に 収録されていますちょっとそのざ個説は 国立国会投資館デザルコレクションさんに はあったんですが著作権の関係上こちらで お見せすることができませんので詳細に 関してはですねこちらURL書いてはあり ますんであの気になった方はですね実際見 ていただければと存じますがここではさん の方で買いつまんでご紹介させていただき ますとどうやらこの鈴鹿の神様誕生日卑が 描かれておりまして人身のラの際に天務 天皇が鈴鹿方面に逃亡するんですがその際 に鈴鹿の山の中にいたおじいちゃんがこの 天務天皇を助けてくれますそのおじい ちゃんは関東の方々があなたに味方します よというようなことを言ってくれるんです がこの発言の通り後に天務天皇側に東獄の 方々が従いまして人身の乱は天務天皇の 勝利に終わりますこの縁をきっかけに鈴鹿 の山の中にいたおじいちゃんがなぜか鈴鹿 の神様に出世しますそれから数年が経ち 文務天皇の時代奈良時代初島の頃なんです がどうやら伊勢からこの鈴鹿の神様が たまたま船に乗ってどっかに移動しようと したらしいんですがその際死刑にあって船 が流されてしまいますそして行きついた 場所がなぜか相模の国これをして鈴鹿の神 様が相模の国神奈川県にやってきたそう ですしかしその相模の国には元々アルカの 神様がいらっしゃいます子参のアルカの神 様vs者の鈴鹿の神様の対立がここから 始まりますどうやらこの鈴鹿の神様には 諏訪の神様も味方したようでしてアルカの 神様は敗北したような感じで描かれており ますというわけでざに関する紹介は以上で 終了となるんですが皆様いかがでした でしょうかもちろん不動きさんの妄想解釈 好きでですねちょっと喋っちゃったりはし てはいるんですが当たり前のことながら あくまでこれは神社さんのお話であって真 の歴史とかそういった匠のものではござい ませんポイントはやはりここから何を 読み取るかというところになってくるのか と存じますがこれを妄想解釈するとすん ならば簡単にパッと思いつくのはまずは これ時代設定が南北町時代でしょうはい そうですよねまずはこの時代設定を考える とパーっと思いつくのが南北町時代のお話 なんじゃないかなこれというところですお 話の冒頭からして天務天皇や文務天皇が出 てきていましたので大体7時代の話なのか なと思いきやところがその後の時代設定が かなりぶっ飛んでいますまず神様同士が バトルロワイヤルを始めるわけないので神 様が喧嘩をしているということはその神様 を進仰しているご一族もしくは集落の方々 同士が喧嘩しているということです場所柄 的にも鎌倉のすぐそばですのでまずは 南北町の相乱から関東 対そのまま転象元気の戦国時代までなん てったって相乱だらけのエリアですで 先ほどのアルカ明人演技にしてもそうなん ですがあの書物は南北町自体と転に作成さ れた書物という設定になっていますですの でこの辺りをターゲットにしてくるという のが1つのキーポイントになりましてそれ が本当かどうかはさておきこれらの宗教端 を作った方がどうやら南北町時代と 転国時代をターゲットにしているという ことは推察できますですのでこれらの エピソードをそのまま鵜呑みにするのでは なく抑えを聞かせた状態で読み解いていく 必要性がありそうですというわけでこちら 突っ込んだらもう少し色々出てきそうなの で次回その辺りをさらに深掘り解釈して いきたいと存じます今回の動画が気に入っ ていただけましたらチャンネル登録高評価 応援とコメントメッセージをいただけまし たら幸いですというわけで今回はここまで となりますまた次回もよろしくお願い いたします
古事記&日本書紀や古史古伝を読み解きつつ、
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秋葉山古墳群は
有鹿神社さんと鈴鹿明神社さんに繋がるのか?😧
◆参考資料
『座間市史資料叢書』1 (座間古説),座間市立図書館,1987.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9522960 (参照 2025-01-09)
平凡社 編『神道大辞典 : 3巻』第二卷,平凡社,1941. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1913348 (参照 2025-01-03)
中山毎吉, 矢後駒吉 著『相模国分寺志』,海老名村,大正13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1019928 (参照 2025-01-02)
神谷永平 (稲羽) 頭注『延喜神名式』上,出雲寺文次郎[ほか],明14.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/815157 (参照 2025-01-01)
『和名類聚抄 20巻』[2],村上勘兵衛,寛文7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2555718 (参照 2024-12-03)
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#古事記
#日本書紀
5 Comments
需要あります。
伊勢国風土記に、出雲建子(伊)伊勢津彦(伊)が東国へ追い出されたとあり、これが武蔵国造の祖でした。
相模川上流のこのあたりは、武蔵へむかう陸路だったんじゃないでしょうか。
またの別名が、櫛玉命(新)であり、ニギハヤヒ降臨部族の鴨県主・天櫛玉であるという。
これが安房忌部、天太玉命ともつながりがあるようで。。。ともかく鴨とつながりのある海神系の氏族なのではないか。
それが、のちに和邇氏の時代には丸部だったり、応神朝の軽部などの姓になった?
木簡などから、相模にはそういう氏族がいたような気配がありますが、
邪馬台国一期ということであれば、武蔵国造の祖と、時代的に一致するんじゃないだろうか。
最近、旅動画もみてます😄
有鹿神社は先史時代における水利権が形を変えていった神社かもしれませんけどね。縄文時代あたりだと尚更ですが、共同体における飲み水の確保にも必要不可欠ですし、みだりに穢してはならないため禁足地にもなるでしょうから。
なお勝坂遺跡は有鹿神社奥宮(相模原市)のほうですね。勝坂式土器は信州のほうでよく見られる土器ですからねぇ……水利権を守るためにも、諏訪神は有鹿神社とはむしろ味方な気がしますけどね。
知識も豊富で、見せ方もうまい。たった17分の動画にすべて詰め込んで、毎度毎度、感心します。あなたにぜひ取り上げて欲しいのが、長柄桜山古墳群(ながえさくらやま)(神奈川県逗子市・三浦郡葉山町)です。4世紀前半築造だというから今回取り上げた海老名の古墳と同じ時期です。海浜型と名付けら断崖絶壁に存在する不思議な古墳です。海浜型前方後円墳の時代 2015/(公財)かながわ考古学財団 (編集)同成社 いったいどこの誰がこのような僻地に、このような壮大な古墳を築いたのか?