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広島城の歴史を辿る
広島城の歴史を築城前の平安時代から辿ります。
小さな島や砂洲(さす)が深い入り江に点在した太田川河口のデルタに城と城下町を築くことから始まり、戦国時代、世界大戦を経て近代に至るまで流れをご紹介いたします。

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古代・中世の広島
現在の広い市域を誇る広島の歴史は、小さな島や砂洲さすが深い入り江に点在した太田川河口のデルタに、城と城下町を築くことから始まりました。
応安おうあん4年(1371)、九州へ向かう今川了俊りょうしゅんの紀行文『道ゆきぶり』には 「かひた(現在の安芸郡海田町)」から 「佐西ささいの浦(現在の廿日市市か)」に向かう途中、「しほひ(潮干しおひ)の浜」 だった現在の広島の市街地を通る様子が描かれています。

毛利氏の台頭
鎌倉幕府の重臣じゅうしん大江広元ひろもとを祖に持つ毛利氏と安芸国あきのくにのかかわりは、鎌倉時代に安芸国吉田荘よしだのしょう(現在の安芸高田市吉田町)に地頭職じとうしょくを得たことに始まります。その名の由来となった相模国さがみのくに毛利荘もうりのしょう(現在の神奈川県厚木市)を失った後、毛利氏の本拠地は越後えちごにありましたが、南北朝時代に吉田荘よしだのしょうを本拠として後、郡山城こおりやまじょうを中心に勢力を固めていきました。

戦国武将として名をはせる毛利元就もとなりが家督を継いだころは、毛利氏は、山口の大内氏と山陰の尼子氏の二大勢力に挟まれ、苦労していました。
尼子あまご氏方にあった元就もとなりが大内氏の陣営に戻ると、可部・温科ぬくしな・深川ふかわ・久村くむらなどの所領しょりょうを安堵されることで広島湾頭わんとう南下への足がかりを得ました。
武田氏が滅亡すると、可部・温科ぬくしなの代所だいしょとして緑井・温井・矢賀・中山などを預けられ、また息子の隆元たかもとも大牛田・小牛田おおうした・こうしたを預けられて、さらに所領しょりょうを拡大しました。

当時佐東川さとうがわと言っていた太田川の下流域は川の内と呼ばれていましたが、元就もとなりは武田氏が残した川の内衆という有力な水軍を手中に収め、彼らに積極的にデルタの干拓を行わせました。
弘治こうじ元年(1555)、厳島の合戦で陶氏すえしを打ち破ったのち、広島湾頭わんとうを確保した元就もとなりは、急速に中国地方の領有化を進めていきました。広島湾頭の政治的・経済的・交通の重要性を誰よりも認識し、佐東さとうの地を拠点としようとした元就の構想は、やがて孫の輝元てるもとの広島築城によって発展していくことになります。

室町~安土桃山時代

広島城築城
毛利輝元てるもとの時代
毛利輝元てるもとは、永禄えいろく6年(1563) 、父・隆元たかもとの急逝によって11才で毛利家の家督を継ぎました。そして元亀げんき2年(1571) に元就もとなりが死去すると、叔父の吉川元春もとはる・小早川隆景たかかげの補佐を受け、中国地方の大部分を治める戦国大名毛利家の基盤を引き継ぎます。

やがて輝元てるもとは織田信長と対立するようになり、山陰・山陽の各方面で織田軍勢と戦いました。
しかし、天正てんしょう10年(1582) に本能寺で信長が討たれると、備中高松城で羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉) と講和を結びました。秀吉が信長の後継者としての地位を確立すると、輝元てるもとは秀吉に臣従しんじゅうし、さらに慶長けいちょう2年(1597) に設けられたとされる「五大老ごたいろう」の一人として豊臣政権を補佐しました。

近世城郭きんせいじょうかくの登場
さて、豊臣政権下で全国は統一へと向い、次第に世の中は平和と安定を取り戻していきました。その動きの中で城にも変化が表れます。それまでは山の地形を利用して守りを固めた「山城やまじろ」が主流でした。
山間につくられた山城やまじろは戦国時代のような戦が多い時代には有効でしたが、戦が少なくなってくるとそれは時代遅れになり、代わって新しいタイプの城「近世城郭きんせいじょうかく」が登場してきたのです。
堀と石垣に守られた広大な面積の城内に、城主の居館きょかんと権力のシンボルである天守閣を持つ近世城郭きんせいじょうかくは、水陸の交通の便がよい場所につくられました。
そして城の周りには家臣や町人が住む大きな城下町がつくられたのです。城と城下町は一体化して領国の政治・経済の中心として機能しました。
本格的な近世城郭きんせいじょうかくの最初は信長が築いた安土城あづちじょうとされ、信長の後継者となった秀吉によって全国に普及しました。

広島築城
天正てんしょう16年(1588)、輝元てるもとは初めて上洛し、秀吉に謁見えっけんしました。
その時に大坂城・聚楽第じゅらくだいを訪れ、その豪壮さや町の繁栄を目の当たりにした輝元てるもとは、郡山城こおりやまじょうがすでに時代遅れであることを悟り、新しい城づくりを決意したと言われています。
そして中国地方一帯を治めることができる城と城下町建設のために城地じょうちとして選んだのが祖父元就もとなりが重視していた広島湾頭だったのです。翌17年(1589)、太田川デルタ周辺の山々から城地を見立て、築城を開始しました。
当時、「五箇ごか」と呼ばれていたこの地が「広島」と名付けられたのはこの時であったとも言われています。

城地じょうちとして選ばれたのがデルタであったため、地盤が軟弱で難工事となりましたが、工事は急ピッチで進められ、2年後の同19年(1591) には輝元てるもとは入城を果たしています。
しかしこの時は本丸ほんまるなどの主要な部分が出来ていただけで、石垣や堀は未完成だったようで、その後も工事は進められました。
天正てんしょう20年(1592)に秀吉が広島に立ち寄り城を見た時も未完だったようで、文禄ぶんろく2年(1593) に石垣が完成、慶長けいちょう4年(1599) に落成らくせいしたとする記録が残されています。
しかし、翌5年(1600) 、関ヶ原の合戦において敗れた西軍の総大将であった輝元てるもとは、徳川家康によって「周防・長門すおう・ながと」(山口県)へ転封てんぽうになりました。

江戸時代初期

福島氏の入国と改易
福島氏入国
関ケ原合戦後の慶長けいちょう5年(1600) 10月、徳川家康は関ケ原合戦の論功行賞ろんこうこうしょうを行い、旧毛利領の安芸・備後両国(広島県)は福島正則に与えられることとなりました。
福島氏の加増・移封かぞう・いほうは、西の毛利氏を強く意識したものと考えられています。

福島氏入国にあたり、毛利氏家臣の中には広島城の明け渡しに反対する動きもあったようですが、福島氏の先遣隊せんけんたいに明け渡された後、毛利氏は11月末までに退去したと考えられています。
正則が広島へ入城した正確な時期は不明ですが、正則の一代記「福島太夫殿御事だゆうどのおんこと」は、翌慶長けいちょう6年(1601)3月のことと伝えています。
福島氏入国段階での芸備両国の知行高ちぎょうだかは不明ですが、元和げんな3年(1617) には49万8,223石であったようです。

福島氏について
福島正則は、尾張国海東郡二寺村おわりのくにかいとうぐんふたつでらむら(愛知県海部あま郡美和町)出身の武将で、豊臣秀吉とは親戚の関係にあり、幼少の頃から秀吉に仕えたと伝えられています。
正則の名が広く知れ渡るのは、天正てんしょう11年(1583)の賤ケ岳しずがだけ合戦で、正則は一番鑓やり・一番頸くびの活躍をしました。
これにより、正則ら七名は「賤ケ岳しずがだけの七本鑓やり」 として称賛されましたが、正則の働きは他の面々より上とされ、恩賞おんしょうでは別格の扱いを受けました。
その後、天正てんしょう15年(1587)には伊予国いよのくに今治城(愛媛県今治市)の城主となり11万石を領し、文禄ぶんろく4年(1595)には尾張国おわりのくに清洲(愛知県清洲市)の城主となり24万石を領しました。

秀吉の死後、正則は石田三成と対立し、関ヶ原合戦では、豊臣恩顧おんこの大名でありながら東軍に属し、先陣を勤めるなど、東軍勝利の功労者となりました。

正則の統治と城下町の整備
慶長けいちょう5年(1600) 10月頃から、福島氏は領国経営の基礎固めの作業を進めてゆきます。
まず、福島氏は改易かいえき前に毛利氏が収納した年貢の数量を調べその返還をせまりました。また、芸備両国内に残り浪人となった毛利氏旧家臣を調査し、福島氏の家臣となるか農民となるか選択を迫ったとされます。

福島氏は毛利氏と同様に広島城を居城きょじょうとし、領国支配の中心としたほか地域支配あるいは国境の守備のため、小方おがた(大竹市)、三吉みよし(三次市)、東城 (庄原市東城町)、鞆とも(福山市鞆町)、三原(三原市)、神辺かんなべ(福山市神辺町)の6か所に支城しじょうを設置し、有力家臣を配置しました。
家臣の配置状況からは、三原城が支城しじょうの中で最も重視されていたことが窺うかがえます。
なお、元和げんな元年(1615)の一国一城令により、三原城を除く5つの支城しじょうは廃城となりましたが、幕府は三原城のみ存続を許可し、その後も存続しています。

慶長けいちょう6年(1601)の秋までには、福島氏は経済的基盤の確立のため、領内の検地を実施し、それに基づき家臣に知行地ちぎょうちを与えました。また、この検地の結果、芸備両国には 900余の「村」が誕生しました。
村は郡単位に置かれた郡奉行こおりぶぎょうのもと庄屋などの村役人によって統治され、石高こくだかを基準とした年貢徴収制度が整えられました。また、広島等の城下町並びに宮島・尾道等の経済の要所は商工業者の活動地域「町」として定められ、村と区別されました。農民、商工業者、武士は明確に区別され、近世的な身分制度が確立されました。

交通に関しては、福島氏は西国さいごく街道の三原・神辺かんなべ間に今津宿いまづじゅく(福山市今津町)を整えたこと、蒲刈島三之瀬さんのせ(呉市下蒲刈町)に長雁木なががんぎを築き港湾こうわん機能を整備したことなど、陸路・海路の積極的な整備が伝えられています。

この他、福島氏は広島城下の発展のため、城の北部を通っていた西国街道を城下に引き入れ、町人の居住区を拡大したこと、東西 2ヶ所に市を立て、商業の発展を図ったことなどが伝えられています。

福島氏による広島城普請
福島氏は慶長けいちょう6年(1601) 正月より家臣総出で広島城の普請ふしんを行ったこと、近江国おうみのくに(滋賀県)より石垣普請ふしんの専門家である穴生衆あのうしゅうを雇った。また、広島城の外郭がいかく部分は福島氏時代に整備されたと伝えられるほか、洪水に備え広島城外周部の川沿いの堤防を対岸より高くした。

福島氏の改易
元和げんな元年(1615)に幕府が制定した武家諸法度しょはっとにより、大名の居城きょじょうの普請ふしんは幕府への事前の届出が必要となっていました。
元和げんな4年(1618)に行われた広島城の普請ふしんに関しても、本来は事前の届出が必要でしたが、正則は事後報告ですまそうとしていた。

同5年(1619)4月、正則の無断普請ふしんを知った将軍徳川秀忠ひでただは、これに怒り一旦は正則を改易に処そうとしましたが、他の大名への影響を考慮して、新たに修復した石垣・櫓やぐらの破却はきゃく、子の忠勝ただかつの上洛じょうらく等の条件付で罪を許すことにしました。
しかし、正則は、諸条件を十分に実行しなかったため、幕府は正則の津軽 (青森県西半部せいはんぶ) への転封・蟄居てんぽう・ちっきょを決定し、広島へ城地じょうち引き渡しの軍勢を派遣しました。

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