川崎の北側に隠されたミステリー

川崎の北側に隠されたミステリー

皆さんこんにちは朝川です本日は川崎市の 北側にある不自然に飛び出した地域の謎に ついて考えていきます川崎市は南北に 細長い自治体死自体もなかなか興味深い形 をしているのですが特に死の北側はさらに 興味深い形となっています まず1つ有名な市からポツンと孤立した 飛びがあることが特徴的ただよく見ますと その北側にも興味深い場所 が川崎市の地域が細長く飛び出し散歩を 東京都に囲まれている部分がありますこの 場所の成立経緯も気になるところです 本日は川崎市北側の細長い飛び出しの歴史 地理条件を絡めながら幅広く分析をして いきたいと思います まずは川崎市の概要を軽く見ていき ましょう川崎市は神奈川県の北部にある市 です人口は 155万6975人で横浜市についで 神奈川県第2位です政令指定都市に指定さ れており市内には7つの行政区が存在し ます 市域はこのように南北に広くなっています 市の中心部となるのは南側にあるJR川崎 駅の周辺駅周辺には首都圏数のハ火街が 広がりその他大型の商業施設なども 立ち並んでいます ただ川崎市はJR東海道本線や東急東横線 電園都市線小田急小田原線など東京都心と 直結する鉄道が各地を走っており市の中心 部よりも都心方面との繋がりが深い地域と いうのが多々あります そして今回着目していく場所は市の北側 行政区で言うと朝奥に属する場所です 朝奥は川崎市の北部に位置する 区内を通る小田急小田原線多玉多摩線の 沿線を中心に発展しています そしてこの朝奥の部分に川崎市の非常に 興味深い形の部分があります まず1つはこの飛び継いここは岡上地区と 呼ばれる場所で南側は神奈川県横浜市残り の3方は東京都町田市に囲まれています 川崎市とは一切接していない完全な 飛び道地この場所の成立権威も非常に興味 深いものがあるのですがこちらは以前動画 で紹介をしています そこで今回着目していくのはその北側 こちらは東側に関しては川崎市の地域が 続いているのですが西の方はぴょコンと 飛び出しています 北西南の三方を東京都稲岸市魂市町田市に 囲まれていますこの飛び出した過短い場所 ですと幅が1.1kmほどしかありません 近くに印象的な飛びがあることであまり 目立ちませんがこちらもよく見るとかなり 不思議な立地となっていますそれでは早速 秘密に迫っていきましょう この地域について知るためにはやはり歴史 そして地形や南側の飛び地こちらが様々 密接に関わってきますこの辺りを整理し つつ説明をしていきましょう まず大きな行政区画の整理から現在この 場所は神奈川県と東京都の都会に位置する 場所ですただ県が発足した当初実はこの 辺り一体全てが神奈川県でした 明治時代に現代につがる県という概念が できた頃現在の東京都玉地域の大半は 神奈川県所属でした これは多摩地区が江戸時代末期に開行した 横浜の外国人U歩規定地域に一部含まれて いたためその地域は横浜がある神奈川県が 観轄する方が都合がいいということで玉 地域は神奈川県の間轄となりました ただ1893年に玉地域は当時の東京府に 移管されますこれは玉地域が現在の東京 特部の推なっていたことから管理の円滑さ を重視したことまた現在の町田地域を中心 に少し県と政治的な対立があったことこれ らが理由として挙げられていますさてこの 時東京府に移管されたのは北玉軍西玉軍 南玉軍の3軍そしてそのうち南玉軍が今回 着目している地域と隣接している軍です ここで少し軍に関して深掘りをすると明治 以前はこの町田周辺には玉軍口座軍鈴木軍 そして立花軍という軍が存在しました明治 になると軍の分割が行われ多軍は北玉摩軍 西玉軍南玉軍東玉軍に分割東軍は現在の 中野区や杉並区の辺りにあった軍その後 南島軍と統合され豊玉軍となり現在の地域 区分だと多地域には含まれませんちなみに 多摩軍が遺管された際にもこの東玉多軍 のみに残存していますそして北玉多西玉軍 南玉軍所属の事体はその後勢や合併を 繰り返し現在の玉地域の自治体を構成して いますただ現在ほとんどが市となっており 北玉軍と南玉軍は存在せず現存するのは 西玉軍のみとなっています 今回の動画に関連することは町田多稲の 各市は南玉軍そして古くは分割前の玉軍に 属していたという部分です一方の口座鈴木 軍及び立花軍口座に関してはかなり広い 軍在の相模原域南は茅ヶ崎藤沢までに範囲 が及んでいましたこちらも合併姿勢が 繰り返され現在当軍に所属するのは佐川町 のみ今回の動画に関連する部分ですと町田 に隣接する相模原市や大和市は元々口座に 属していたということです 最後に鈴木軍と立花軍こちら両軍と共に 現在は横浜市と川崎市の市域となっており 現存していませんまた川崎市の大半は立花 軍所属だったのですが今回着目している 地域朝奥の一部は鈴木軍に所属していまし た 情報をまとめますと現在の稲市域田市域 町田市は南玉軍の所属でしたそして川崎市 の部分は鈴木軍及び立花軍の所属で細長い 飛び出しの部分は鈴木軍に所属していまし た 現在東京都と神奈川県にいるのはこの時に 南軍が東京に行か鈴木軍は神奈川県に残っ たこちらが要員となっています そしてその後これら軍に所属していた村が 合併や姿勢を行い現在の刺期を形作ってい たということです この時の遺憾がなければ現在も川崎とその 他の自治体が異なっていて地域域が細長く 伸びているということはあったかもしれ ませんが都が異なるという状況はなかった と言えます また県ができる以前日本には両国国という 行政地区分が存在しましたこの周辺には 武蔵の国と相模の国という2つの国があり ました大まに現在武蔵の国の範囲は東京都 と埼玉県佐の国の範囲は神奈川県となって いるのですが実は川崎市と横浜市の大部分 は武蔵の国に属していました今回着目して いる場所というのは明治以前の区分でも 同じ国に属していた場所ということになり ますさてここまでが大まかな流れそして この中で東京都と神奈川県に別れている 理由が大方判明しましたただ細長い部分 のみなぜ川崎なのかどうしてこんな複雑な 時計となっているのかこの部分はいまい謎 が残ったままです次はこの細かい部分を 考察していきましょう まず1つ目の考察は町田市と現神奈川県内 の都市たちの関係です町田はよくなぜ 神奈川県ではなく東京都所属の市なのかと 疑問をぶつけられることもありますただ 地形を見ると町田市の市域は北側の初都市 とは玉給料で隔立てられています地形的な 繋がりだと南側神奈川県内との繋がりが 深いようにも見えます また今回着目している川崎市と隣接した 場所この辺りの鶴川と呼ばれる地域の大半 は東側の旧鈴木軍域と同し津川水景に属し ており川の流れという観点でも鈴木軍との 一体性が見られますこの辺りですが実は 町田駅の東側概に飛び出した細長い部分 以外ここは軍という概念ができた古代に おいては鈴木軍に所属していたのではない かという指摘があります ただ鈴木軍所属だった町田の部分が徐々に 玉軍に組み込まれていったこのように 考えることができます この理由というのは明確な資料が見つかっ ておらず時期なども不明なのですが おそらく古代の支配構造において町田の 辺りまで多軍であった方が都合が良かった このように考えられていますただ今回のお 話の中心的存在となっている軍ですが実は 設定されてから一環として同じ役割を 果たしてきたというわけではありません 軍が日本において設置されたのは600年 代後半から700年代の前半いわゆる立の 完成と共に設置されたとされていますこの 当時軍は地理的単位及び行政的な単位とし て機能していましたただ10世紀頃になる と立料体制が頸外化していき軍というのは 単なる知理的区分として機能していきます ちなみに両国国に関しても軍と同じような 推移を見せていますさてこの後は時代に よって詳細は変わるのですが領土地を支配 し両から税や作物などの徴収物を得る システムが採用されていきますどちらかと いえば地方文献的な枠組が採用されてき ましたそして時代は大きく流れ明治になる と再び中央集化が進みますその一環として 軍は再び広域的な枠組として使用される ようになります ただその時代の実態にそぐはないという ことで対象時代に入ると軍の行政的な役割 はなくなり機能はまた地理的な区分に戻る このような形ですつまり軍が行政的な枠組 として機能していたのは古代と明治期の 期間でそれ以外は単なる地理的な枠組とし て使用されてきたということになります ただそれ以外の期間でも裏の所材地を表す ために国や軍が使用されていたことがあり ますここで話を再び川崎市の細長く突き出 た部分に戻していきますまずこの辺りです が現在でこそ住宅開発が進み多く建物が 立っている場所ですがその開発が始まった のは昭和に入ってから特に江戸時代や町 時代それより古い時代ですといわゆる山の 中にあるような場所でしたそのため現在の ようにかっちりと軍の領域が決まってい なかったと考えることができます この軍域が確定されていくのがいわゆるア 桃山時代の後期から江戸時代にかけてこの 時期年宮具の厚生徴収と漁の権疫確定の ために検地という作業が行われますこの 時期ご案内の通り軍は行政的な役割を失っ ていましたが行政を行う際に地理的な区分 として関節的に利用されることはありまし た例えば税を集める際に細かい村を集めた 軍を1つの区画として見なすこのような 事例ですそして帳簿作成や年賀徴収の円滑 さを上げるために村が所属する軍を変更 することがあったそうです例えば現在の稲 市平地区こちらは今回着目している細長い 場所のすぐ北側にある地域です この平お地区から見つかった江戸時代初期 の文女の中において武州鈴木軍平村との 記載があったそうですまたすぐ南側にあっ た新工寺村こちらも江戸時代初期多軍所属 の時期があったり鈴木軍所属の時期があっ たそうなのですが1707年頃多軍所属と なったそうですつまりこの細長い部分の 周辺というのは特に江戸時代の初期におい て玉軍所属と鈴木君所属が変更されていた 可能性が高いと言えますそしてその理由は 地理的な要素もありますが時の支配構造 江戸時代であれば江戸幕府の構造上の関係 で分けられたこのように考えることもでき ます ここまで江戸時代において五地周辺で村が 鈴木軍と玉軍との間で移動をしていた可能 性があると考察をしてまいりました そして江戸時代の後の時代明治時代におい て大きく日本は変化して行きます文明会下 ザ切り頭をうんちゃらとても色々な変化を 遂げておきますが地方の自治制度も変化し ていきます 完結に申し上げれば現在にまでつがる都道 府県そして市町村という制度ができます それまでは地理的な単位では行政国行政 単位では江戸幕府の直轄量や大業の支配 する反などに分かれていました 江戸時代においてはある程度地方文献的な 状況だったのですが明治に入った後は近代 化のために中央集権的な構造に組み換え られて行きます そこで10代の範や爆府量などを整理して 枠組を決めていくこれが都道府県の設置 ですそして都道府県の中にも小さな枠組を 設置することとなり当初は大空証拠性と いうものが制定されたのですが近代化を 急ぐあまり地方の実情に合わない制度だっ たということで廃止されてしまいますその 代わりに制定されたのが軍町村編成法です これが現在の市町村につがってくるわけな のですがこの際に先ほどもご案内した通り 軍が行政単位として復活します そして軍の領域を設定する際ですが江戸 時代まで使用されてきた軍の領域これを元 に決めるところも多かったそうです 多軍と鈴木軍の教会に関しても江戸時代の 配置変更が反映されたものがこの際大きく 影響を 残しそして軍の軍域が現在の地域そして 東京都と神奈川県の都道府県に反映されて いるこのように言えるかもしれませんこう 考えますと川崎市西部の刺益というのは かなり神人えな部分があります 前半でも言及していた飛び市である現在の 川崎市岡こちらに関しても多軍所属の時期 と鈴木軍所属の時代を行ったり来たりして いた時があったそうです 結局最終的に周辺の村が玉軍岡鏡は鈴木軍 に残ったことさらに横浜市か川崎市どちら かと合併をするかと議論になった際に 繋がりの深かった柿村が川崎と合併する ことを選んだため現在のように川崎市の都 となっています 地域の複雑さというのは地域間のつがり ご地周辺の地形そして時の異性者の統治 体制これらが絡み合ってできたものと 考えることができるでしょう さて今回の動画はここまでとなります次回 は湖に沈んだ道土の歴史について見ていき ますご視聴ありがとう存じますまた次回も 一生懸命頑張りますごきげよう

#川崎市 #若葉台 #町田市

神奈川県川崎市は南北に細長い自治体。なかなかに面白い形をしています。そして特に面白いのが市の北側の場所。ここにはあの有名な、ぽつんと孤立している飛び地があります。ここの成立経緯を探るのも非常に興味深いのです。

ただ、よく見るとその北側も川崎市の市域が細長く飛び出し、三方を東京都に囲まれている部分があります。ここの成立経緯にも非常に興味深い要素が隠れているのではないか?
本日はその謎に迫ります。

以前紹介した飛び地の謎に迫った動画
【解説】深い歴史とミステリー!川崎市の飛び地の成り立ち
同じ神奈川県内、海老名市の謎の土地
謎の土地、謎の駅。ミステリーたくさん神奈川のある場所を訪れました

Twitter

動画に関することや、更新情報を呟いています。
メンバーシップを開始しました。今後発展をさせていくつもりです。
https://www.youtube.com/channel/UCF3HlRnZvCRpKpJYgTVKlxg/join
サブチャンネルはこちらです
https://www.youtube.com/@light7564
地図データ(C)Google

目次
0:00 イントロ
1:03 川崎市と件の飛び出し
3:44 昔は全部神奈川県!?
9:37 細かい部分を考察
15:22 明治期以降の考察

24 Comments

  1. 知って黒川👍柿って中国から渡来して川崎の柿生、王禅寺から日本中に広まったってホント?栗平駅に集まる鳩の群れが半端ないって!!駅から遠くても黒川のシリコンバレーの残業リーマンの太客が居るから八幸オレンジタクシーは常連客に恵まれてる

  2. 僕の現在の勤務先 大田区田園調布・雪谷付近から4キロ先は、川崎市中原区になります😊。丸子橋を越えれば 神奈川県川崎市中原区ですね😊。

  3. 先っぽの部分は三沢川水系で多摩川へ合流しますが、黒川青少年野外活動センターの裏山が分水嶺です。
    東側は鶴見川水系となっていて、散歩していると、この水はどっちに流れるのかと気になります。
    町田辺りは、境川水系、鶴見川水系が入り組んでいるので分水がどうなっているか興味があります。境川は江の島がある相模湾、鶴見川は東京湾なので、ちょっとの差が更に大きな差となります。👍

  4. あなたが居た山梨県より
    人口は多いんだね。
    79万人しかいない山梨県
    リニア駅は必要?
    って感じます。

  5. まだナビがここまで普及する前に仕事でよく行ったけど、当時首都圏は看板だけで行きたい方面行けてたけど、この地区わけわからんかったww今や川崎駅周りのタワマンが高額だけど、川崎唯一の高級住宅街?の麻生区、当時から新百合駅近マンションも7~8千万代、へぇ~となぜ川崎なのにーw思ってましたw鶴見川の源流、町田なんですよね~神奈川は横浜開港するまでは相模国が強かったし。稲城、町田等県堺問題は、結局は水!水利権で時の権力で複雑化したと思ってます!あのあたりって完全山を開拓して造ったNTなので車ないとしんどいではなく無理(笑)登戸から先、自転車乗ってる人達ほんと見かけません(笑)あと緑山って前TBSスタジオがあったせいか、関係者が多く住んでたので山なのにw閑静な住宅街になって近くは青葉区なので住んでる人結構いるんですよね~でも車ないと絶対無理!あの坂というか、山、チャリ移動は地獄(笑)体鍛えたい人かダイエットしたい人にはいいかも(笑)

  6. この辺りに川崎フロンターレの練習場があるんだっけ?
    で、すぐそばには町田ゼルビアのスタジアムがあるから地域を盛り上げゼルビア応援しようと言われてもいやウチはフロンターレサポだからとかw
    緑山超えた辺りの住人はうちら横浜だからゼルビアの応援はしませんみたいな、町田ゼルビア四方を敵地に囲まれてよくやるよなぁww

  7. 昔多摩永山に住んでたけど、川崎が近くまで進出しているんだ。初めて知った。

  8. 川崎ナンバーの登場が1980年、それまでは横浜ナンバーだった。住民ショック・・・
    春日部ナンバーの登場が1990年、大宮ナンバーに戻してくれと悲鳴。その後クレヨンしんちゃんで人気上昇。
    最近、江戸川ナンバーちゅうのができて今日初めて見たわ。

  9. そして麻生区にはこれからブルーラインがやってくる。
    そうなれば小田急多摩線は新宿一転集中路線から横浜都心部などへも行ける多極路線に変貌する事は明らか。
    麻生区は横浜市青葉区から若い女性や高所得世代の流入などがあるから人口減や増加を栗化しつつ将来的には青葉区の人口を抜くのは明白でしょう。
    黒川やはるひ野は稲城側の若葉台に比べると街が落ち着き子育て世代の入居も多いので。
    稲城市でも平尾地区や南武線エリアは人口増に対して京王相模原線は減少傾向だから猶更。
    町田は新横浜線ショックで人口減が加速するからそれを考えるとブルーライン延伸とグリーンライン川崎延伸は大きな効果を持ってくるであろう。

    それにしても最近は麻生区、狛江市は人口減に悩まされるのに何で調布や府中は増え続けるんだと言いたくなる。
    京王線なんて新宿アドレス以外は取りえなく速達性も悪いのに江戸川区や荒川区など東京下町や神奈川の若者を吸い取り続ける嫌な存在なのに。
    神奈川は人口が923万人→920万人までへっているのに多摩地区は422万人や430万人まで増加はどう見ても神奈川や大田区などの東急沿線や下町(墨田区、葛飾区、台東区等)の若者を奪い取る嫌な存在。
    吉祥寺や調布が川崎や錦糸町を格下に見て港区、新宿、渋谷と中央線、京王線以外を見下すから城西~北多摩の中央線、京王線以外の全国から調布市民辺りは嫌われる。
    今の若者は下町や東急沿線より中央線や京王線ばかり憧れる風潮やめてほしい。

  10. 今回は違いますが、川崎の飛地の方の岡上の近所のTBSの緑山スタジオやこどもの国や寺家ふるさと村の近くに住んでるので興味深かったです。
    鶴川駅は車で町田方面に行くのに良く通過しますが、黒川の方は滅多に行くこともなく少し謎めいた地域でした。横浜も地域的な一体性が無いと感じますが、川崎市はそれ以上にバラバラな感じがします。多摩川が共通項なのかもしれませんが、、、幸区が細くて切れそうな感じ

  11. 東京・神奈川の都県境と武蔵・相模の旧国境が一致しないため、南武線には全駅川崎市内にもかかわらず頭に武蔵が付く駅が4駅連続で存在する。

  12. 川崎北部はのどかで好き❤川崎南部に引越ししたら空気が全く違ってショックだった😵
    しばらくは帰りたくて気持ちが沈んでた😢

  13. 川崎の小田急線より北側には以前は中学校がなく、私が中学校に上がる年、今から46年前にできました。
    それまでは、北の奥地ならは、4km以上離れた場所から通ってきたのです。
    その中学校がでにるまで、私に通っていた中学校の学区は、幸区や中原区よりひろかむたのでふから。

  14. このチャンネルの動画は、いつも何が言いたいのかよくわからないてことを忘れてました。
    今回もコメント欄のほうが興味深いですね。
    地元なので楽しみにしてたんですがね。

    黒川地区について、説明したかったんじゃないの??
    サムネイル見る限り。

    もう少し動画の構成を練り直したほうがいいと思うけどね。とにかく無駄に長い。
    ちゃんとこれ本人が見返してるのかな?そこの時点でちょっと疑問。

Write A Comment

Exit mobile version