【東海道踏破】三島宿から沼津宿へ!静岡県最大の人口密度の清水町って知ってる?
魅力ある景色を足跡と共にウイス ゆっすを目指して歩いてみた三島のどかな 街を越え途中には2つの寺に一塚松波を 越え川を渡れば海の香りの 沼しく積み重ねてきた歴史とラブライブの 聖地としての新しい歴史が紡がれていまし た今回は前回のゴールの三島大社から 小田原以来の海の町沼を目指しますそれで はどうぞこんにちは今から三島大車を出て 日が落ちるまでに沼津を目指しますまずは この三島区のスポットを回っていき ましょう三島区にも東海道をテーマにした 街灯があってなんと花が飾られていました しかも増加ではなく生きた花で街の人がお 手入れしておりいい雰囲気を自分たちで 作っている感じが良かったですそして進ん でいくと見えてきたのは問や跡ですといえ ばとは物流の拠点でありまた宿泊施設を 提供する場所で三島区は険しい道の箱根 8里の運送を担っていたため業務は膨大で 馬とは不足し多忙を極めていたそう400 年前のブラック職場の話が伝わってるとは 箱根8里を歩いてきた身としては馬がいて もあの山に物を運ぶ仕事は大変そうだと 思いました三島区は人昔前の雰囲気があっ てとても魅力的ではありますが400年前 の宿町を感じられる場所は少なかったかも しれませんそしてここには数少ない三島区 を感じられる場所せコ本人跡があったそう 本人とは大用やバグ府の役人など身分の 高い人専用の宿のことですそして歩いて いくと消徳大使というビッグネームが書い てある石碑がありました消徳大使道建設費 です消徳大使を祭る大使進行に基づいて同 した記録を構成に伝えるためのもののよう ですそしてその先に見えてくるのが 伊豆箱根鉄道寸ず線の三島広駅ですかつて 三島市区では強い西風におられて火災が 広がることが多かったそうですした被害を 防ぐため1697年にこの三島広浩司が 整備されました道を広く取り秋地を設ける ことで炎症を食い止める王隊としての役割 を果たしていたんですねそしてそこを 超えると市街地とはそろそろお別れです サブカルカフェとかもあるんですねしかも 1番橋のエリアにまそんなわけで進んで いくとこの辺が西側のかつての三島区の 出口があった場所みたいそのちょっと奥に は小川があって白い看板がこの水路は戦艦 っていうそう戦国時代に作られた伊豆と賀 の国境にある考え水路で名前の由来は戦艦 度の建設費か経済効果か戦艦くらいだから ということだそうちなみに戦艦は今で言う と大体1億ぐらいなんだって高そして ちょっとだけ看板が見えていましたがこの 川を挟むと賀国ではなく清水町に入る みたい清水市とはまた別の場所です清水町 は三島市区と沼津区のちょうど中間に位置 しており面積はわずか8.81kmで静岡 県内の面積が3番目に低くただ人口は 3万2000人もいて人口密度は実は静岡 県内トップだそう県内トップの人口密の 場所を今まで知らなかったとはそして少し 進むと条夜灯がありました条夜灯とは夜間 に常に灯されている明りのことで街当 みたいなものですこの条夜島には両側に 秋場大言と富士宣宮と刻まれています元は この辺の旧東海道の十次郎の斜め前の ところにあったみたい昭和3年から昭和 26年まで高知生理が行われその時は地方 の神社に移されていたけど東海道400年 を記念して今の場所に置かれたそうちなみ にこの辺も新宿って言うそう新宿原宿と かって今でこそあの大都会を連想するけど ありふれた愛の名前だったんですね少し 住むと三島水郵便局が四町村として 切り替わっても三島って名前が強いんです ね 駐車場が狭いってレビューもありましたが これは確かにこの辺の清水町の街並は1 車線で石米も多くて木造の家が多いので 大磯町の街並を少し思い出しましたそして その奥には2つの一塚合わせて節身の一塚 が見えてきました北側にあるのが玉地の 一塚です江戸から29番目の一塚でこっち は当時のまま残されているようですこっち は当時のままというだけあって森蔵みたい に緑が美味しげってますねそして反対側に あるのが放置の一塚でこちらは復言された そう長い年月網風にさらされて原型が損わ れたので昭和60年に多くの特によって 原寸通り復現されたみたい玉地の一塚が 森像なら完全にこっちは色がきっくですね ちなみに放置の方には建場があり旅人や 運送業者の休憩所にもなっていたそうです そして少し進むと力強い3番例の文字が 意味や3つの世界の全ての精霊に対して 苦養することの大切さを示すものだそう これは調べて初めて知りましたがこれを 書いた人が白絵描って江戸時代の中期の 臨財集を立て直した前脳改革者で前後庶民 にまで分かりやすく広げたり多数の前側を 残しているそうなんでこんな説明をしたか と言うと沼津の次の千場町原宿のキー パーソンだからですここを歩いてた時は 知りませんでしたてなわけで進んでいくと 久しぶりに国道1号に合流しましたそし たら目の前に千都県では滅多にお見にかか れない山岡屋がこんな東海道にあるなんて 時刻も16時半でまだ箱根区三島宿区間の 山中城で食べたそば以来何も食べてい なかったので入っちゃいました注文したの は醤油ラーメン大盛りとハンチャーハン セットです久しぶりのがっつり飯美味しく ないわけがなく最高でしたそしていい塩分 補給もできましたそこまで喉が乾いていた 自覚はなかったんですが塩分を取った瞬間 水を無限に飲めるようになって多分1.5 Lは飲んだ気がします夏場対策しないとな ごちそうさでしたそしてお店を出ると東京 方面の青い看板が東京までは125km 小田原までは39km箱根までは20km 随分遠くまで来ましたねそして改めてまた 進んでいきますこの辺も本当にのどかな道 ですねただ歩道がしっかりあって人が たくさん住んでいることを伺える道です 正直この辺は東海道としてのスポットは ありませんがこのバス停がやってるん だろうとかこんな家住んでみたいなとか 自分がここら辺出身だったらなとか普段 から眺めながら歩いているのでただ見ぬ地 を歩いているだけでも楽しいですこれから もいろんな場所を歩いていくので共有させ てくださいてなわけで久しぶりに東海道 らしい松波が見えてきました長沢の松波 ですここにあるのは黒松が中心だそう ちなみにそもそもなんで松が東海道の名所 にこんなに植えられてるかというと旅人の 日差しけとか風とか目印のためなんだそう この末の木は関営年間頃に整備されたん だって読んで字のごとく1列に並んでる だけですが当時の雰囲気をおそけして もらったみたいでいいですねそしてその奥 にあるでかい胃腸の木があるのは地方神社 っていうらしいです鎌倉で残種された森吉 ですが氾濫によって止なく葬られそこに 地下神社ができたそう大体鎌倉時代の直前 くらいの出来事だそうですそしてその さっき話したですなんかこの橋新しいなっ て思ったら平成26年の3月に完成したと 橋に書いてありました11年前にできた 新しい橋なんですね川の氾濫を話題に出し ましたが大規模な堤防ですね夕やも ギリギリ見えて雰囲気良かったです着川を 超えると清水町を抜け逐村としては沼津市 に入りました沼津区はもうすぐのようです ね沼津市は面積は約187kmでとても 大きく人口もおよそ18万人海あり山あり 自然の恵に囲まれたバランスのいい町です スルワに面した港町として境え沼豆港は今 もグルメと観光の人気のスポットだそう 沼ず校は次回訪問しますこの辺になると 沼津市街が近いからなのか車通りも増えて きましたでも歩道は細くなるというでも それは一瞬で四導剣道380号に合流し ぐっと道も歩道も広くなりました進んで いくと右に声優が見えてきました手が でかくねこんなでかい声優見ましたもう 名前も沼津だそうそして左にはスポーツ クラブ剣サウナも普段の生活はここだけで 完結しそうですねそしてこんなところに ボロボロの歴史マップと東海道寸父と書か れた石中がありましたもうこの辺は完全に 市街地でこのまま都会の道ではなく旧 東海道は1本外れますそして外れる直前に あるのが大家の少子ですこの少子の意味と しては今まで歩いてきた同心や渾心党と 同じく旅人やその地域の人々の安全を祈っ ているというような素敵なものですそして 歩いているとだんだん建物の高さが増して きましたどうやらこの辺りは今回の目的地 沼の近くのようです左手には堤防が見え その向こうには仮の側が流れています町の 風景が川と共に広がっていて何とも 落ち着いた雰囲気です少し進むと閉作 自蔵村というお地蔵さんがありましたこの 地蔵は日本3大あ内の1つ胃賀越のあ内に まつわるものだそうです物語の概要として は物語の主人公閉作はこの地で茶を営む 年いた男性ある日彼の元を旅兵が訪ねてき ますべは閉作の娘お米の夫である渡辺かの 敵川可愛いまた五郎の行方を知っている 様子作はかのために自ら命を立ちその情報 を10秒から引き出しますこの悲しい決断 が後にかのあちを成功へと繋がったのです 閉作の激用心に心を打たれた人々は彼の苦 のためお地蔵さんを建立しましたA日には トモルコシの屋台が出ていたことから モコシ地蔵名小子育て地蔵とも呼ばれてい たそうですこの話は神座の演目イガ道中 すごく沼ずにもなってるとのこと今度機会 があったらそちらも見てみたいと思います そしてこの道をちょっと進むと小さな一塚 のある公園がいじ公園ですうの一塚より人 一回り小さいのは縮小復言されてるからだ そう名前は沼の一里塚で沼内に一塚を置か ないために一里より手前に作られたみたい そしてその手前にあるのがマなどの玉類を 磨いていたという玉い白層普通の岩と何が 違うのか正直分かりませんがこの付近には 古墳が多くの玉類が多く出していて昔は 体操を活躍したんでしょうね静岡県指定 高古資料にも指定されていますそして進む と再び静岡剣道380号に合流し都会の 大通りでしか見られない歩道橋からでしか 渡れない道を越むと旧東海道川通りの石中 がなんでここから左に回るように旧東海道 ができてるかというとかつてあった沼津城 の浄化町に沿って道ができていたからの ようですそして途中には水神社が顔や海が 近いので水の災害が起こらないようにとか の祈りが込められてるんでしょうねそして その横には沼津城司に続く中央公園が後で ぐるっと回って沼津城本丸市にも向かい ますこの道の途中には川グルア通りの説明 や沼津の外略図などがありましたこの足元 の石畳は昭和30年代ぐらいまであった 石畳をイメージして整備したそうイメージ して整備しているのでとても歩きやすい ですそしてここにも川の標識が1番東海道 をしている沼津区の場所はここだった気が しますてなわけで到着しました沼津区は 東海道53次12番目の宿場で鶴川の ほとりにあり海と川に挟まれた風港無名な 場所として旅人に人気だったそうです広い 川に橋がかけられていなかった時代すぐ横 にある蟹ノでは私船が使われ旅のリズムを ゆったりと変えてくれた場所だったそう ですこの辺は駅からずっと続く大通りに なっていましたまずは沼津上司を見に アーケードを通っていくとたくさんの花の ある火壇の先にあるのが沼津城本丸市です 広々としていて過ごしやすい公園だなと 思いましたそんな公園の橋に沼津城のえみ と勝した外略が書いてありました元々は3 枚市場がここに武田勝がご条市への備えと して転生7年に気づきその後徳川の城に なって大久保正が沼津半手になりますが 後月がいなかったため沼津大久保家は断絶 となりまた1641年の大価で消出した そうそしてその後水の友が3枚橋の跡を 生かし沼を築づき成長としての役割を全倒 したそう大きさは3枚橋市場の時の約半分 程度の小さな城だったみたいその後江戸 時代も終わり一時に沼津平学校がおかれ ましたが東京に移転し1873年に廃上を またして解体されたようです横に沼津城 本丸市もありましたこの看板の前から 見渡すとこんな感じそして本日のホテルに 向かうついでに沼津駅も見ていきましょう か駅に向かう途中にこことかこの上にも 可愛らしい女の子のキャラクターがあり ましたこれはラブライブサンシャインの キャラクターでここ沼津はラブライブ サンシャインの舞台になっているみたい ですそして何より驚いたのが吉本劇場って 沼津にもあるんですねそして駅前広場は こんな感じ見らしがいいのにちゃんと背の 高い建物もありごちゃごちゃしすぎてい ない過ごしやすそうな場所でしたそして 駅前には沼津名誉市民だった井上優しの 母子像や沼津機関区の記念費があり車輪が 置かれていましたそして駅のところには ラブライブのキャラクターがでっかく押さ れていましたこの規模の街でここまで アニメが激押しされている場所は初めて見 たので驚きです実はまだ見たことがなくて 大体先に意図正地巡礼をしてアニメの存在 を知りあれこの辺じゃんとか言いながら アニメを見るのが好きなので今度見て みようとそしてきっとめちゃめちゃ正地に なっていそうな中店商店街もせっかくなの で通ってみました止まるホテルもすぐそこ だし時間も遅いので一部は閉まっています が怪しいキャッチもいなそうで筋肉マンの ミュージアムからご飯屋とか商店街といえ ば不人服だとか銅像だとかなんとカード ショップまであり雰囲気もいいし歩き買い があってめっちゃ良かったです反対側から 見るとこんな感じそして今日止まるホテル がこちら中店商店街の途中にある参考員 沼津駅前ですホテルの部屋はこんな感じ セミダブルで清潔感もあって広さも必要 十分風呂トイレも清潔でいい感じそんな この部屋は1泊沼津の玉漁行で取れた回線 も食べられる朝食付きで7128円でした 安くてマジ最高でしたてなわけで今回の 動画は終わります次回は沼ずコの方に一旦 寄り道をしてきたのでその時の動画 をあげる予定ですご視聴ありがとうござい ましたチャンネル登録評価が励みになるの で是非していただけると嬉しいですでは 次回 [音楽]
皆さんこんにちはゆっけと申します。
東海道踏破(三島宿から沼津宿までの動画です)
清水市ではなく清水町って知ってる?
箱根八里前半の動画はこちら
使用した音源
・Tomato_and_Salt(オープニング)
・Sunlit_Path(エンディング)
すべでのBGMはDOVA-SYNDROMEから利用させていただいております。
SNSは以下の通りです。
X(旧Twitter):@Shikimino2018
1 Comment
狩野川(かのがわ)です。