日本の航空史に残る重大事故「ばんだい号墜落事故」とは?慰霊碑まで行ってみました 北海道七飯町
今から54年前の1971年7月3日、 乗客上員合わせて68名が乗る番号 が函館空港を木前にして消息を立った。 お あに位置する函館市 。その隣の7町にある横骨だけに万大号が 墜落しました 。その横だけを登っていく横道路に向かい ます 。皆さんこんにちは。今回の動画は今から 54年前に起きた万大号墜落事故とはどの ような事故だったのかを振り返るとともに 現場付近に建立された慰例費とそこに至る までの道乗りをご紹介したいと思います 。今走っているこの道は標高1167の 横骨だけ頂上まで繋がっているんですが、 事前情報で一般車は標高970m付近まで しか行けないとのことでした。今回初めて 走る道なので慎重に進んでいきたいと思い ます 。さて、皆さんは万大号墜落事故と聞いて すぐにどんな事故だったか思い出せる でしょうか ?反世紀以上前の出来事なので事故その ものを知らないという方も結構多いかも しれません 。この事故は日本の航空士における重大 事故の1つと言われており、乗客上員68 名が乗った岡函館行きの旅客機万大号が この横骨だけに墜落するという大変 痛ましい出来事として知られています 。なぜ墜落してしまったのか。その辺りの 詳細については後ほど再現映像を交えてお 伝えしますが、事故からすでに54年経過 したこともあり火してしまうことが懸念さ れております。是非この動画を見て いただき改めてこの事故を再認識して いただくまたは知ってもらうきっかけに なればと思います。 ちなみにこの万大号という名は期待につけ られていた相性で福島県の観光地で知ら れる万大町がその由来とされています。 これは当内航空によるイメージ戦略の一環 であり、同社で所有する40機以上のYS イレブンに旅をテーマとして全国の知名が つけられていました。昔は各航空会社が 主考を殺らして様々な相性をつけていて、 野鳥シリーズ、惑星シリーズなど滝に渡っ ていましたが、今は期待に相性をつける ことはほとんどありません 。何やら看板が出てきましたね。スキー場 まであと15分とあります。 通行止めと書いてある看板のところまで やってきました 。ここは昔SL公園があった場所らしく、 左手に実物のSLが展示されていたよう です 。関係箇所に確認したところ看板にも書い てある通り自己責任での通行は可能との ことでしたのでさらに進んでいきます。 横骨だけの頂上へと続く道は通称横骨道路 と呼ばれており、正式な路線名はちょうど 大川13号線と大山27号線になります 。ご覧の通り道幅が狭く所々穴が開いて いるので走行の際は最新の注意が必要です ね 。なお、この横道路は当期通行止めとなっ ており、 概下旬から4月下旬まで通行できませんの でご注意ください 。標行600まで来たところに少し開けた 場所がありました 。封鎖されたゲートが正面に見えますが、 道路は左上に続いてます 。こちらが上空から見た現在1の様子で 太陽光パネルが設置されているのが分かり ます 。調べてみるとここは曇観光のゴルフ場が あった場所で2009年で営業終了となっ ていました 。現在は土地の所有車が変わり、その後地 で太陽光発電がされています 。さらに上へと進んでいきます。 標行850m付近で再び開けた場所に出 ました。 こちらが現在の様子で、ここにはゴルフ場 と同じくカ森観光が経営する横骨だけ国際 スキー場がありましたが、2005年で 営業終了となっています 。しばらくはリフトがそのまま残っていた ようですが、2020年に全て撤去された ようです 。スキー場のコース跡を横断する形で さらに上へと進んでいきます 。4月下旬ですが標900mまで来ると雪 が結構残っていました 。ここが一般車で来れる最終地点で函館 振道から約12km進んできた地点になり ます。 この先は通年ゲートで閉鎖されていますが 、登山など徒歩で通行する分には問題ない とのことでした。ここから260先にバ号 の入れ日があるのでそこまで東方で登って いきます 。左に見えるのが今通ってきた横骨道路 です 。この時は慰例までの道乗りに雪が残って いましたが、草が駆られていることからも しっかり管理されたU歩道になっている ことが伺います 。標高980mからの展望はかなりよく 函館山まで見渡せます 。慰例費に到着しました 。横骨だけは標高1167mですが、 慰例費は頂上より少し下の986mの地点 に県立されています。 慰例費には事故の説明と犠牲になられた方 全員のお名前が刻まれていました 。54年前、なぜ万大号は墜落してしまっ たんでしょうか ?事故調査委員会が出した結論をもに事故 の経緯を振り返ります 。1971年7月3日、 岡空港がある札幌市の天気は雨。 17時30分発函館空港行き万大号の基長 石には貴重昇格訓練中であったアメリカ人 のジャックレイモンドスペンス服装重視が 座り指導担当の寺田町は右の服装銃席に 座っていた 。客室乗務員は女性2名 。この日は土曜日で連休だったため、旅行 客や規制客などで満席となる乗客64名が 登場しており、その大半は当該在住者で あった。そのうち半数以上の39名は同内 観光ツアの天井員と団体客で最終日の宿泊 先となっていた函館の旅館に向かう途中 だった。このツアーには夫婦や家族連れの 参加者が多く、一家全員で参加した家族も いた。その他子供たちからの初めての飛行 機をプレゼントされた熟年夫婦や婚約の ために互いの実家に向かっていたカップル 。聴心のための研修で札幌に訪れていた 警察官など様々な思いを抱いた人々がこの 万大ダ号に乗っていた 。17時30分、雨の中、乗客上員68名 を乗せたバダ号が岡空港を離陸。 函館空港までの所要時間は40分で中山峠 やムロランの上空を約4000mで通過し ていく初定のコースで飛行した。 内浦湾を超えた番大号は通常であれば亀田 半島を横断する形で函館空港へアプローチ するが当日の函館は雨模様。上空500m 以上は発達した雨雲と濃い霧に覆われ機内 から函館空港を目視することはほぼ不可能 な状況だったとされている。 このような時に活用されていたのが無線 標識通称NDBで ある航空機に備えられている自動方向地機 ADFが地上から発せられる無線標識の 電波をキャッチして現在値を把握していた 。しかしこの装置はライ運などの影響に よる誤差が度々報告されており、電波の 発信源上空までしていないにも関わらず、 ADFが到達したと認識してしまうことが あった 。その後誤作道が万ダ号墜落の原因と考え られ、函館空港に接近したと勘違いした パイロットが着陸体制に入るため度を下げ つつ進路を変更したところ横骨だけに激突 してしまったと結論付けられた。 ボアボ18時10 分頃横骨だけ行910mの地点に墜 万大号が消束を立って1時間半が経過した 頃から会場保安長と自衛隊による捜索が 直ちに開始されたが悪天候に加えすに日没 ということもあり捜索は南候 翌日の夕方17時25分頃陸上自衛隊第 11次団のヘリコプターによって横骨だけ の南性車面標910mの地点に墜落して いるのが発見された。 万大号墜落事故の翌年1周期に合わせて 横須の現場付近に慰例費が県権立されまし た。 日本の航空士に残る重大事故から54年 。遺族や関係者の高齢化に伴い将来的な 慰例費の管理に課題が残されており、事故 そのものが風化してしまうことも懸念され ている。
今から54年前の1971年7月3日に発生した「ばんだい号」墜落事故。東亜国内航空(後の日本エアシステム)のYS-11型旅客機が函館空港に向かう最中、七飯町の横津岳に墜落して乗客乗員68名が犠牲になった。現場付近には事故の翌年に建立された慰霊碑がある。そこに通じる横津道路とはどんな道なのか?そして、ばんだい号墜落事故とはどんな事故だったのか?現地に向かい、事故の経緯を振り返ってみた。
YouTubeチャンネル開設5周年映像の第1弾です。
(2025年に全3回予定)
※時期は不定期となります。
普段とは少し違った視点で北海道を知る・振り返る動画を制作します。
#ばんだい号墜落事故#航空事故#YS-11#函館空港#丘珠空港
■■撮影機材(Shooting tool)■■
Nikon Z6 ミラーレスカメラ
DJI Mavic2 Pro ドローン
GoPro HERO8 Black アクションカメラ
動画編集ソフト
DaVinciResolve Studio.19
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【SNS】44ヤマグチ
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27 Comments
7年前夏同じ空路JAL機夕方16時台で雨降りの中感じたのは函館に近づくにつれ山岳が高く機体が下降気味事故発生可能に今思えばやはりカナ山合飛行確か機能ミスが有ればだが乗客40人以下の機体🈁️🅿️OINTと考え対エアーポケも当然🈶️が重量と同じズバリ翼と判断したい車ならば軽のS字細道走行は視界と操作に違いと同じ難しく🈚️操縦桿握り飛行経験無いが乗ればソレではと言う感じ改めてご冥福をお伝えし待
地元で当時子供でしたが、その後航空関係の仕事につきました。
そうして思ったことは、やはり当時はレギュレーション違反を
軽く見る傾向があったのではないかと感じています。
曇天の学校帰りに、YSが家の近所(管制圏内、ただし当時タワーはなく通信官)を
超低空で這いまわっているのを何度か目撃したことがあります。
いくらNDBやADFに誤作動があるとしても、強度の降水も空電もない状況下で
持続的に異常が続くというのは考えづらいですし、
その後もHWは特に改修などなく運用(現在は撤去)されてたはずです。
GCAもない空港ですし、誰も見ていない中で多少ビジュアルが確保できるなら
IAPにない進入をするというのが常態化してたのではと疑ってます。
建立・・・コンリュウ読みます。
ありがとうございました。
細かいことを言うようで恐縮ですが、慰霊碑(他にも神社仏閣など)が建てられた際に使う「建立」は、「けんりつ」ではなくて「こんりゅう」と読むのが正しいです。
ちょっと気になりましたので、老婆心ながら...
確か、土曜日の夜
ドリフターズ生放送中、いかりや長介さんが事故の一報をして茶さん工事さんが
静粛な顔してましたね
当時函館在住で中学生だったかな.
函館山に飛行機が墜落したぞ!って大騒動になって消防やら警察やらの車両ばかりになってた。
羽田沖墜落や御巣鷹山の影に隠れてしまい、忘却の彼方ですが忘れてはいけない悲惨な事故事件ですよね。
YS−イレブンあなた日本人ですか? ジュウイチですよ。😢ワイエスジュウイチです。
内容までは覚えていなかったので ようやく知ることが出来ました 小3の時の事故でした
この事故報告書は採用されていない、他の証言無視して作成された物です。
無視されてる内容として、函館上空まで飛んできていた可能性(目撃者多数)、機長の体調変化の兆候(無線応答の反応遅れ)、副操縦士がシートベルトを外していた、副操縦士は函館空港をよく知らなかった上に航空地図が通常の物と違い、北が左(通常だと西)になってる等多数あります。
無視された物の寄せ集めで可能性の一つとしては、着陸寸前に機長が倒れ副操縦士が機長を助けようとベルトを外した。
そして着陸やり直しのため着陸復行を行い北北西に向かった。
大きく右旋回し横津岳に向かってしまった(なれてない空港、変則的な地図等が関係してたかは不明)。
それと 4分9-13秒の「もく星号」、これも大島で全員死亡の遭難をしています。
「建立」は、「けんりつ」ではなく「こんりゅう」と読みます。
YSー11は「わいえすじゅういち」と言われることが多いですが、正しくは「わいえすいちいち」です。従って「わいえすいれぶん」ではありません。ちょっとマニアックな物言いですけど。
けんりつ ではなくて こんりゅう でしょう。
教育レベルが問われますぞ
『続 マッハの恐怖』にもありますがADFが反転した=On stationとは判断しません。
あと、当時GPWSはありません。1966年の全日空羽田沖事故同様、事故調の判断に疑問の残る事故でした。
ばんだい号は1度函館空港上空に来たあと市内上空をループ回転したあと横津岳へむかいました。これは複数の目撃証言があります、
建立を「けんりつ」と読んだ時点で幻滅やわー😢
動画の内容も墜落の原因に関しては悪天候と機器の誤作動というだけで薄過ぎやしないか?全然「詳細」ではないですよ。
どっかの文献を省略してまとめただけのように聞こえます。
まぁ自分の言葉で語ってるなら「けんりつ」とは言いませんよね。
事故当時、私は小学6年生でした。「ばんだい号」の墜落事故の後、間もなくして雫石町上空で発生した全日空727便と自衛隊機の空中衝突事故も記憶に鮮明です。幼いながらも、その連続する悲劇に大きな衝撃を受けました。当時は、現在に比べて航空機の墜落事故が多かったように思います。貴重な映像の撮影、お疲れ様でした。慰霊碑の前で、あの日の記憶とともに、哀悼の意を込めて合掌させていただきます。
今振り返れば何か昭和40年代後半は航空機事故に限らず交通災害による犠牲者が多かったように思います。
列車事故 北陸トンネル急行きたぐに号の列車火災
近鉄総谷トンネルの列車正面衝突
その他
連合赤軍のあさま山荘事件
大阪の千日前デパートの火災
熊本の大洋デパートの火災 等
記憶にあるだけでも多くの方々が犠牲になられました。
私が子供の頃の事故でしたが、子供心に “東亜国内航空” “ばんだい号” と言う文字が何故か怖かったです。
YS-11はプロペラ機に一度乗ってみたくて八丈島まで乗ったことがありますが、ジェット機に比べてのどかでプロペラの振動も心地よかったのを覚えています。
取り上げてくださり有難うございます😊あまりにも謎の多い事故だったので当時 横津岳にはUFOの基地が有る!と言う噂も有りました!
けんりつ=こんりゅう です
開始間もない1:56付近
「建立」は「こんりゅう」と読みます。
建立(コンリュウ)です。
当時小学校🏫4年でしたが記憶有り。NHKニュース速報では、ばんだい号は函館空港✈️到着前に天候が悪く着陸出来ない との交信を最後に消息を断つ との報道だった。
建立=こんりゅう ね!
私はこの事故後の1976年に羽田ー帯広をTDAのYS-11で往復しました。とにかくエンジン音とその振動が大きくてよく揺れる「最悪な乗り心地の機材」でした。ばんだい号も悪天候となると相当な揺れを伴いながら飛んでいたんでしょう。搭乗していた乗客は悪天の揺れと墜落の瞬間の衝撃の違いも判らなかったのかもしれませんね。
墜落現場の発見と救助開始は現代とは比較にならないくらい遅いですが、当時は当たり前(そんなもの)でした。
我々人類の科学技術は時間に対して指数関数的な発展をしています、つまり今よりほんの少し過去の技術は現代とは比較にならないくらい低かったんですね。たまに1985年の日航123便事故を陰謀だという意見を散見します、それは現代を基準にすればそう見えてしまうのかもしれませんが、あの1985年当時もまだ「それが当たり前」の時代だったんです。
30人以上の方が亡くなった日本の航空機事故といえば、ちょっと古いですが1952年の日本航空301便「もく星号」が三原山へ墜落した事故があります。1966年は航空機事故の多かった年で、2月は全日空60便羽田空港沖、3月はカナダ太平洋航空羽田空港、5月はBOAC富士山上空、11月は全日空535便松山沖と相次ぎました。次がこの1971年「ばんだい号」事故ですが、なんと27日後に雫石上空で全日空58便と航空自衛隊機が衝突しました。1982年日本航空350便が半田沖に、そじて1985年には満席の日本航空ジャンボ機が御巣鷹山付近に墜落しました。その後は1994年に中華航空機が名古屋空港で墜落した事故を最後に大きな事故はありませんが、昨年1月2日に起きた羽田空港での日本航空機と海保機の衝突にはヒヤリとしましたね。
遺族であってもここまで慰霊に来る方もないと思います。本当にありがとうございます。