横須賀【上町・不入斗・深田台・鶴が丘】山口百恵が暮らしたまち 看板建築 レトロ商店街 遊郭跡 旧陸軍遺構 神奈川県
京急横須賀中央駅から南へ向かう平坂と いう坂の上に上町があり ます横須賀の上町周辺には看板建築の商店 が複数残り懐かしいレトロな雰囲気を 感じることができますこの動画では商店街 や遊郭後旧陸軍以降山口が小学2年から 中学まで暮らした街の様子などをご紹介し ます横須賀の港側は観光地にもなってい ますが山側はそれほど知られていないと 思いますのでこの動画で楽しんで いただければ幸い です上町1丁目交番の信号を直進すると 上町商店街右へ行くと中里通り商店街です 交番はもうありませんまずは中里通り商店 街からご紹介します中里通り商店街の シンボルタワーは高さ約 8mこの地に縁のある大市が近代造船業の 発展に尽くしたことから船型のデザインに なりまし たこの商店街には戦闘の跡なども残り 懐かしい感じがし [音楽] ますは感じですがそれぞれ特徴があり [音楽] ますフル本屋さんもいい感じ ですエアサロンのファサードは趣きがあり ますがシウィンドウには坂本両馬の妻おり の住居跡の案内がありまし た後でここに戻で坂上の図書館をご紹介し ますがまずはおりの住居跡を目指し ますここには坂本竜馬の妻おりが1902 年明治35年から1905年明治38年の くまで暮らした住居跡があり ますその後終焉の地の米が浜に移っていき ました おりは約30年横須賀で暮らしまし たこの山は通称尾山坂の上に図書館があり ます横須賀市立中央図書館は山口桃が毎週 日曜に通った図書館です当時はこの新刊は なく右側の夕間ですがもえちゃんは本が 好きだったのです ね図書館がこの場所に移ったのは1963 年昭和38年5月1983年昭和58年6 月8日夕間に隣接して地下1回地上3階 建ての新刊が開館しまし た1回エントランス付近には強度資料展示 コーナーがあり新旧の横須賀の写真が展示 されていましたふとに止まり強度の歴史に 興味を持つ人もいるはずこのような展示は 大切です ね写真を見ると横須賀の風景はあまり 変わっていないところと大きく変わった ところ様々だということがよくわかり [音楽] ます図書間前には読書公園があります広い 公園で本を読むのも気持ち良さそう ですあそこに何かいます ねパンダ です [音楽] 多分ちょっとイメージしているパンダと 違う気もしますが公園と図書館を見守って い [音楽] ますそれでは上町1丁目板の信号まで戻り 上町商店街をご紹介し ますかなり長い商店街でいくつかの違う 名前の商店会に分かれてい ます上町商店街は坂の上の上町にあります が下町情緒のある地域に密着した雰囲気の ある商店街 ですいくつもの歴史ある看板築の商店が 残っていることもこの町の魅力 です看板建築とは対象末期から多く建設さ れた店舗平用の年型住宅で建物の全面に 看板を兼ねた洋風の外壁を持ち様々な造形 がなされています後年の研究者が学生時代 に名付けた看板建築という呼び方が今では 一般的です それ以前の店舗平葉住宅である町屋による 伝統的街並みも美しいものでしたが 1923年大正12年の関東大震災によっ てその多くが消失しまし [音楽] たここ上町の看板建築は昭和初期のもの です2件並んだ看板建築のデザインの違い も面白いですね 今では高価な道も当時は安価でファサード の銅板張りは看板建築の象徴的なものです が1950年の建築基準法により銅板が不 剤として認められなくなりその後モルタル 作りが多くなりました 上町銀座商店街は60店舗前後が営業して いますがかつて全長600mほどの アーケードが商店街の歩道を覆っていまし た2022年にその役目をえ撤去され 素晴らしい看板建築がよく見えるように なりましたこれから看板建築の価値が さらに増してくると思われますので撤去は 時代の先取りと言えますね 一時期我が国の商店建築でスタンダードに なった看板建築は大正時代の関東大震災の 復興家庭で生まれまし た被災した関東の大工さに変わり地方から 応援に来た大工さんがその建築を担い地方 に戻って自らの地元で建て始め全国に 広がりまし たお祭り関係の品を扱うミアはこの地域の 看板建築を代表する建物 です当時からのお店が続いていることも 含め貴重な日本の文化剤と言える でしょう正面のファサードの上の真ん中が 三角になっているのもいいアクセントです それにしても立派な看板建築です ミアは 1921年大正10年 創業日代戦争の兵器で横須賀を訪れた創業 者が愛知からこの地に移り商売を始めまし た着物の需要が減少した戦後ご服屋から サレ衣装専門になり今に続いてい ますこの建物は1930年昭和5年のもの [音楽] です裏通りにも蔵作りの建物など古い建物 が残ってい [音楽] ますタイルバの壁やデザインの違も見てい て飽きることがありません昔の建物は表情 豊かです ね3階建ての床屋さんの建物は当初海軍 指定旅館で後ろ側にある郵便局も含めた 建物でし た当時の海軍の旅館建築が残っているのは 貴重 [音楽] です創業 1926年大正15年の死の蕎麦屋春野 です歴史を感じる趣きのある外観と店内 です食堂としてメニューも豊富で通っても 色々楽しめそう です行ったのは日曜の午後2時過ぎぐらい だったのでまだ客足が途ことはなく他のお 客さんが映らない部分を撮影させて いただきました懐かしい感じの店内ですが 綺麗に整えられていていい感じ ですまた空いてる時間に行ってお話を聞い てみたいですね [音楽] 私は好きな天ぷらそばを頼みまし [音楽] た町銀座商店街は文会館入口のまでこの先 は上町会商店街ですアーケードは残った まま です先に進む前に路上を入った深田台の 公園やお寺などをご紹介し [音楽] ます文化会館横のこの坂は地元ではこれ坂 と呼ばれています山口桃の横須賀 ストーリーが由来の坂です子供の頃のもえ ちゃんは駆け上ったかもしれませんが私は 大人なので無理は金物 です作家の秋子さんは特定の坂をモデルに したものではないと言っていますがここが 定着してしまいました ね坂の上は平和中央公園ですこちら側は 駐輪場がないので文化会館前に止めてまた そこから登ります 横須賀市文化会館は市立横須賀病院の跡地 に1965年昭和40年5月29日に会館 しまし た横須賀市自然人文博物館は1954年に 久里浜で 会館1970年に自然官 1983年に人文官がそれぞれ現在の場所 に移転しましたミル半島の自然や人文の 資料の展示や保存研究を行いその歴史に 関する約15万点の資料の修造と展示を 行ってい ます特別展示の市街地が語る横須賀は興味 深く参考になりまし [音楽] た平和中央公園です 上の長房の良い場所からは猿島奥には暴走 半島東京スカイツリーーなども見え ます山口桃の著書青い時にもこの公園の ことが書かれてい ます私は引退当時買って今でも持ってい ますが箱にしまっていてすぐに出せないの で図書館で借りてまた読んでみまし たあのとは若くて分からなかったもえ ちゃんの心がこの年になってやっと少し 分かったような気がしまし たもえちゃんの密度の恋い21歳までの 生きてきた道本を読んでその人間性も含め 令和の今も感動しまし たそれをご紹介すると本のレビュー動画に なってしまうのでこの動画ではに関する 部分を少しだけご紹介し ます 横須賀誰かがこの名前をつぶやくだけで胸 を締めつけられるような懐かしさを 覚える横須賀を離れて8 年私はあの町で生まれたわけではない小 学校2年の終わりから中学2年の終わり まで6年間を過ごしただけなのにの思いは 一体何なの [音楽] だろう横須賀は海軍の町として知られてい ますがこちら山川には明治から終戦までは 陸軍の10平連隊がありまし た米が浜放題は明治20年代前半に建設さ れたもの です横須賀軍の守備に加え入にだった要塞 兵第1連隊後の横須賀10平連隊の訓練 放題としての役割も担っていまし た見原市の良い公園の上からいつの時代に も夕日を見る人はいたの でしょう私は夕日を見るのがとても好き です こき坂から商店街と反対方向に深田台の町 を少し歩くと流本寺があります首都圏の 古い建物と高層マンションとの コントラストが面白いと言われた時代も ありましたがそのような場所が増えて しまいました我が国の警官に対する人々の 意識が欧米先進国に追いつくことを願い ます本は途上国というよりその面では 明らかに高新国のまま です本寺は本道の素晴らしい彫刻が見物 です日本の匠の技昔の日本人の美に対する 意識の高さも感じます ねここは雰囲気の良いお寺ですね [音楽] [音楽] 下に見えるのは横須賀共済病院で急な階段 を降りると米が浜や横須賀中央駅に行け ます 昔はこの先はすぐ海でし た竜本寺は古くから米が浜のお様と呼ばれ てい ます現在の地名は米が浜と読みますが以前 は米が浜だったのでしょうか 階段の途中には穴様と呼ばれる洞窟があり かつて日連証人が鎌倉に行く途中ここで 修行したという説があることからお経を 読んでいる日連証人の像が祀られてい ますこの岩窟に竜神が現れたことが本寺の 地名の由来とされています [音楽] 上町商店街の裏通り ですここ深田台にも坂本両馬の妻だった おりの住居跡があります両馬の死後おりは 各地を点々とし再婚後約27年間ここで 暮らしましたその先ほどご紹介した場所に 去しました写真はこの地に住んでいた晩年 のもの です若い頃も見てみたかったです ね上町病院入り口の信号 です特徴ある看板建築が残っていますが その一部は路地の道路拡張で失われて しまう予定です できないものでしょう か廃線からの復興高度経済成長はせめて お腹いっぱいご飯を食べられる国にしたい という先人たちの願いもありまし た1980年代にその目標をほぼ達成し ましたがバブルという狂乱を経て経先進国 の中ではまた貧困国になってしまったのは なぜなのでし でょ目標を見失い大切なものをないがしろ にした結果とも思えてなりません先人たち の努力でここまで復興した日本の未来を 確かなものにしたいです ね上町病院入口の信号から老子を入った ところに横須賀市立上町病院がありまし た途中にある局も既にしまっているよう です東中里町内会館は昭和7年頃の建築 です上町病院の歴史は古く1891年明治 24年横須賀英治病院として創設されまし た何度かの移転解明を経て1937年昭和 11年11月10日横須賀陸軍病院と解消 1945年昭和20年12月1日厚生省へ 移管され国立横須賀病院と解消しまし た2002年平成14年7月1日国立 横須賀病院の廃止に伴い横須賀市が病院の 異常を受け横須賀市立上町病院として会員 しまし た私はその数年後輸血葉血液の搬送の仕事 で何度も訪れたことがあり ますその頃から古い感じはしましたが 2025年令和7年施設の老朽化などの ため栗に移転することになりました新しい 病院は立医療センターとして3月1日の 会員です南間跡地には医療看護系大学の 寝室が検討されてい ます移転後にも言ってみましたが1台も車 の止まっていない人の気配がないひどい 病院跡地は寂しい感じもしましたが役割を まとしたすしさも感じまし た駐車場の奥には3等の古い集合住宅が あります以前は職員宿舎か何かだったの でしょう かここにあった保育センターも病院と共に 移転しまし た昭和の中頃の高度経済成長機の建築は 各地で立て替えられていますが文化剤に なるほど長くは持たずそのうちほとんど 消えてしまうのでしょうね ここからも山の上の中央図書館が見えます 図書館は当面建替えの計画はないようです が山の上ということもあり移転建替えを 望む声もあるよう です市民の寄付によって立てられ長くこの 地で親しまれた経緯もあり ます将来必要なら自動運転者などの最新 技術で利便性を高めながら歴史を継承して って欲しいもの [音楽] です途中の道には素敵な感も残ってい ます横須賀に古い建物が比較的残っている のはトキ目的にならず変な形で発展し なかったのが結果的に良かったとも言える 部分もありますこの雰囲気を大切にして 欲しいですね [音楽] 上町病院と上町商店街の間の路地にも貴重 な昭和初期の建物が残ってい ます上町協会付属恵幼稚園は1931年 昭和6年に建築されまし た左側の2階建て牧子館部分は建築当初は 平屋でした [音楽] 礼拝道は当時のままの姿で恵幼稚園の演者 として使われてい ます文化会館入り口の信号からは看板建築 を持した登板武器アーケードがあり ますこのアーケードもそのうち撤去される のかもしれませ ん立花食堂は昔ながらの街の食堂で なかなか渋い外観 です中もイメージ通りの食堂です ね元々は蕎麦屋で100年以上続いている とのことでし た訪れたのは午後3時半ぐらいだったので 他にお客さんはいませんでしたがこの時間 に開けてくれているお店はありがたいです ねメニューも豊富で通って色々食べてみ たくなるお店 です寒かったのでカツ丼と温かいおそとの セットにしましたボリューム満点です この辺りも昭和の雰囲気が残っています ね2025年は昭和で数えると昭和100 年実際は64年までですから大ぶ昭和も 遠くなりまし た横須賀市立豊島小学校は 1872年明治5年6月22日久郷村学者 として開校した歴史ある学校 です横須賀は人口減少が進んでいて衰退 する町のイメージを持たれることもあり ます は1970年代に40万人を突破し 1990年代には43万円台に達しました がその後は減り続け2025年2月の水計 では37万人を下回ってい ます占領家からの米軍基地の問題もあり ます派手な再開発だけでなくイメージ アップや歴史を大切にした街づくりもも 必要ではないでしょう か上町3丁目の信号を超え2左に進むと 柏田遊郭後 [音楽] です柏田は横須賀唯一の公人遊郭街でした 柏田遊郭跡には当時の移行は何も残ってい ませんが近くには古い建物が残っています 歴史を重ねた風があり [音楽] 池田家庭洋品店は道板武器外壁の店舗き 住宅で昭和初期の様子をしばせ [音楽] ます柏田遊郭は陸海軍の翔平などで賑い ましたが陸海軍の喧嘩も多くありまし た遊びの場でもみ合っていてはは戦争に 勝てるはずはありません ね横須賀では今の三笠通りのところに23 年くらいの期間大竹遊郭がありましたが 1888年12月3日に豊川稲荷付近から 発生した家事で消失してしまいまし たその後ももはだった場所に横須賀刑務所 の囚人を使って付近の山を切り崩して作ら れたのが柏だ遊郭 です資料が少なく当時の様子はよくわかり ませ ん今は遊郭の移行は何も残っていませんが この場違いに広い直線道路がその意行とも 言え ますわずかに山口瞳の族という小説での 柏田の様子が今にその歴史を伝えています この広い道路の片側に7件ずつ両側で14 件穴守稲神社側に3件の計17件の店が ありまし た道の両側には桜なきがあったようです 真ん中にあったという話もありますが戦前 の柏田のポストカードを見ると両側に並木 が移ってい ます証言者の記憶違いなのか写真の場所が 違うのか数十年前のことでもよくわから ないもの です戦後GHQにより有郭は禁止されまし たが赤線という形で風俗営業は続きました 横須賀では3つの歴史的風俗外があり 1958年昭和33年に売春禁止法が できるまで存続しました昭和50年代まで は少しはその手の店が残っていたようです が米兵の利用が多かったホテル跡が撤去さ れマンションになってからは駐車場などが 目立つ住宅街になりまし た柏木は港からは遠いため海軍関係の客は 次第に安浦や絵画作などの支障外に奪わ れるなどして遊郭の経営は厳しかったよう です柏の優女たちは食事は与えられず大の ものという客用のしだし料理を食べるの ですが客がいないと食事もできません病気 になっても治療も受けられず最後は捨て られるように葬られる有様でし た吉原でも食事は与えられても粗末なもの で実際は体のもの中心であり仮想の友助は 治療も受けられないというのは同様でした のでここだけが特別ということではないか もしれませんがあまりにひどい話 です令和の日本でも満足に食事もできず 病院にも行けない人も少なくありません 未来の人から見たら今の私たちもひどい話 の当事者かもしれません [音楽] 小学校と赤線跡が道路を挟んで隣接して いるというのもなかなか珍しいと思います 学校側とは道路で直接は繋がっていないの であまり目につかなかったのかもしれませ ん入山歩道橋 です知らない人はまず入山とは読めない 難しい地名です 横須賀市立鶴保小学校は1908年明治 41年尋常鶴保小学校として開しまし [音楽] た鶴保小学校は桃ちゃんが小学2年の3期 から卒業まで通った学校 ですちゃんはこ 小学生時代を過ごしたよう です私も小学生の頃は今から思うと大きな 悩みはなかったと思いますが子供なりに 悩みもあったはずこの年まで生きてきた 経験がそう感じさせるのでしょう か小学校の前には戦闘があり ます当たりユの宮造りの建物は1927年 昭和2年の見事な建築で宮大工が釘を使わ ず立てたとのことです和風の兵もいい感じ です周りにビルがないこの景観は貴重です ねいつまでもこのまま残ってほしい街の ランドマーク ですこの細い道を登った山の上にも住宅が あり ます横須賀にはこのような道がたくさん ありある意味横空らしい道とも言え [音楽] ますちょっと登ってみますかそれほど傾斜 はきつくありませんがあまりこのような道 は得意ではありませ んこの町で暮らしていた頃のもえちゃんは 山をかけ回るなどお天場な少女でし たダスターになった後のイメージからする と想像できないですが本人がラジオで話し ているので間違いありませ [音楽] ん考えてみれば私も子供の頃は元気だった 気がし ますあまりに昔でほとんど覚えていません があっという間ですね でも何十年後かに今を振り返れば普通に 歩けるし元気だったと思うのでしょう ねなかなか見晴しはいいです ね横須賀ストーリーの坂はこのような 横須賀各地にある坂のイメージなのかも しれませ ん横須賀ストーリーは1976年昭和51 年6月21日にリリースされた山口桃の 13枚目の新魚曲です前年に港の洋子横浜 横須賀をヒットさせていた作明子作曲魚崎 竜堂の楽曲でもえちゃん自らオファーを 出し制作されまし た今でも歌い継がれている名曲です 入山公園は終戦まで旧陸軍自由平連隊の 連盟場でし た総合体育館や陸上競技場がありますが その建設に際し縄文時代の遺跡の出た山ご と撤去してしまったのは残念というしか ありませ ん公園入口の横には1980年昭和55年 軍隊記念の等が建てられてい ます旧群行士転換法の制定から約 789メに及ぶ旧軍用地が横須賀市に移管 されまし た入山公園では昭和38年に水泳プール 昭和45年に南野球場昭和46年に テニスコと球道場昭和47年に陸上競技場 が完成しました総合体育館は1978年 昭和53年に完成1997年平成9年サブ アリーナが完成し横須賀アリーナに変わり まし た入山という地名は南北町時代から確認 できます名前の由来は諸説ありますが自社 料などで高能をめせられた不入の剣を持つ 電磁で少年地名の一種という説が有力 [音楽] です入山公園の各施設建設で古墳の山が 削られてしまった話をしましたがまだ調査 さ 必品が残っているだけでもマだったのかも しれませ ん今では考えられませんが昭和の宅地造成 ラッシュの時代古墳の遺跡が出ても工事の 遅れを防ぐためそれを隠し必品を密かに 産業俳句物として捨ててしまった例も 少なくないと聞き ます災害が多く形あるものは失 ということになれてしまっているという説 もありますが経済活動優先で歴史的な異物 を残す優先順位が低いのは日本の大きな 欠点かもしれません明治時代の廃物借や城 の取り越し苦労 [音楽] 入山中学の近くで駐車場の場所には新井 ベーカリーがありまし た街の昔ながらのパン屋さんも少なくなり まし たおしゃれな今風のパン屋さんもいいの ですがその土地で長く営業してきたパン屋 さんは多くの人の心に残ること でしょう浜友公園はサッカーコートのある 公園です 旧陸軍横須賀病院の跡地をグランドとして 利用していた関東学院大学から横須賀氏が 購入し1988年昭和63年5月1日に オープンしまし た陸軍用地の石中が残ってい ます山口もえ青い時から です私の中の横須賀は海が全てではない山 に囲まれた木造校舎や中学校の前にあった 荒いベーカリーの阿草政治や中央公園猿島 いつも何気なく歩いていた横須賀なの だあの町は私に優しかっ た雨も海からの潮風も日差しも緑も何もか もがさりげなく私を包んでいてくれた 何よりあの町で暮らしていた6年間の私が 1番好きだっ た自由だった正直だった無理に突っ張ると もせず突っ張りもしなかった必要がなかっ たのかもしれ [音楽] ない横須賀市立入山中学校は桃ちゃんが 中学2年まで通っていた学校 です1947年 昭和22年開1956年昭和31年には 日本一のマンモスコになりまし た入山中学も帝国陸軍横須賀10北平連隊 の跡地で代謝を利用した木造校舎でし た桜小学校坂本中学校の校門として使われ ているレガ作りの門は 1907年明治40年に建てられた横須賀 10波平連隊の衛門です約16mの平和 1891年明治24年にできたものと推定 されてい ます横須賀に残る数少ない明治時代の建造 物です横須賀平連隊は陸軍最初の兵部隊で あり日戦争での203地の戦いでの活躍で も知られてい ますこの辺りは学校が集まっていて子供 たちの姿をよく見かけ ます子供たちの未来が幸せであることを 願い ます私は横須賀で撮影することも多いの ですが必ずしも教育がいいとは言えない 部分もあり ますもう占領化ではないのにと思わされる こともありました高な若者たちが心の傷に することなくどのような環境でも経験を 学びにできれば新しい扉が開くと知って 欲しいです ね鶴ヶ丘は完成な住宅街 ですこの辺りになると横須賀と言ても軍 付近とは全く雰囲気が違います ね県営鶴ヶ丘団地は1960年代の団地 ブームの頃に建てられました当時団地 暮らしに憧れる人も多かったようですこの 団地も桃ちゃんが住んでいた頃はまだ地 年数が浅く綺麗だった でしょう昔の団地は贅沢な土地の使い方で 放感がありいいです ねこの団地も外壁を綺麗に塗り替えるなど 整備すれば人気が出るのではないでしょう かまあ立替えらいちゃうケースが多いです けど ねもちゃんのことは引退間際にさらに好き になったのですが小学生の頃からの三浦友 ファンでもあったので引退が残念という より2人の結婚は本当に良かったなという 思いがありまし た引退後は三浦桃さんとして素敵な家族を 作り幸せに暮らす様子も伝えられてい ます青い時からもえちゃんの言葉をご紹介 し ます自分の意識の中での私自身はあの町に いるあの坂道をかけ海を見つめあのの街角 を歩いて いる私の原点はあの町 [音楽] 横須賀青い時の最後の言葉は幸せになり ますでし たもう今はファンレターも届かない桃さん に幸せでいてくれてありがとうと伝えたい です ね横須賀は影のある街とも言われますが影 はマイナスではなく深みという魅力に つなげることもでき ます横須賀の魅力がさらに高まることを 願い ます今回ど須賀上町入山周辺をご案内 いたしましたのは私高橋秀之でした最後 までご視聴ありがとうございましたまた 次回もご覧いただければ幸です
横須賀の上町周辺には看板建築の商店が複数残り、懐かしいレトロな雰囲気を感じることが出来ます。
この動画では、商店街や遊郭跡、旧陸軍遺構、山口百恵が小学2年から中学2年まで暮らしたまちの様子などをご紹介します
横須賀の港側は観光地にもなっていますが、山側はそれ程知られていないと思いますので
、この動画で楽しんでいただければ幸いです。
━━━ 目次 ━━━
00:00 オープニング
00:01 京急横須賀中央駅
00:55 中里通り商店会
02:10 おりょう住居跡
02:40 横須賀市立中央図書館
03:55 読書公園
04:26 上町商店街
07:29 みどり屋
08:43 商店街裏通り
09:20 上町商店街
09:45 春日野
11:20 これっきり坂
12:00 文化会館
12:18 横須賀市自然・人文博物館
13:00 平和中央公園
14:40 米ヶ濱砲台跡
15:35 龍本寺
17:20 お穴さま
18:10 おりょう住居跡
18:40 上町商店街
20:15 横須賀市立うわまち病院
22:30 図書館への道
23:30 横須賀上町教会・附属めぐみ幼稚園
24:30 立花食堂
26:05 横須賀市立 豊島小学校
27:00 柏木田遊郭跡周辺
31:50 横須賀市立 鶴久保小学校
32:50 当り湯
33:25 山頂への細い道
35:30 不入斗公園
36:20 横須賀アリーナ
38:25 新井ベーカリー跡
38:55 はまゆう公園
39:30 わかやま青果店 浜田屋
40:20 横須賀市立 不入斗中学校
40:53 旧横須賀重砲兵連隊営門
41:43 横須賀市立 桜小学校・坂本中学校
41:55 鶴が丘
42:30 県営鶴ケ丘団地
44:25 エンディング
━━━ 音源 ━━━
BGM:甘茶の音楽工房
━━━ 関連動画 ━━━
横須賀【ドブ板通り 国道16号】海軍のまち アメリカンテイストな商店街 神奈川県
横須賀【田浦・船越】海軍のまち 旧海軍遺構 海上自衛隊創設の地 レトロ建築 神奈川県
━━━━━━━━━
#横須賀
#上町
#不入斗
#深田台
#鶴が丘
#山口百恵
#旧陸軍遺構
#看板建築
#レトロ建築
2 Comments
横須賀で生まれ40年近く暮らした者です。幼稚園から高校までを市内で通学し、登下校の道の現在の様子が映し出されて懐かしい限りです。
百恵さんは1学年下で入中(不入斗中学)の校内ですれ違っていたはずです。もちろん当時は顔などわかる由もありませんが。
私もたまに横須賀の街を歩いている夢をみます。この動画のあちこちに映っている裏道や今は消えてしまった練兵場などを歩いているのです。
百恵さんと同じように、魂はあの地につながっているのでしょう。懐かしい映像をありがとうございました。
説明も分かりやすく、素晴らしい動画でした🎉