広島港宇品旅客ターミナル  広島市南区宇品海岸1丁目13   #広島 #広島市 #広島県 #広島港 #港 #瀬戸内海 #フェリー #船 #宇品旅客ターミナル #宇品 #みなとオアシス広島 #旅行

広島港宇品旅客ターミナルは、広島の海の玄関口として多くの旅行者・通勤者・通学者等の拠点であるとともに、国土交通省から登録を受けた「みなとオアシス広島」の代表施設として住民参加による地域振興の取り組みが継続的に行われる拠点となっています。

広島港宇品旅客ターミナル  広島市南区宇品海岸1丁目13   #広島 #広島市 #広島県 #広島港 #港 #瀬戸内海 #フェリー #船 #宇品旅客ターミナル #宇品 #みなとオアシス広島 #旅行  20250430    @akibingo

広島市の海の玄関・広島港宇品旅客ターミナル。瀬戸内海の海上旅客交通の拠点で、江田島などの島しょ部、四国・松山への定期航路のほか、瀬戸内海のクルーズ船などの発着場となっています。広島の旅を満喫するための観光案内所やほっと一息できる飲食店も入っています。屋上では、多くの船が発着する広島港を一望できます。

広電で終点まで行って、電車降りるとすぐ目の前がターミナルです。 2階建てになっていて、1階にはチケット販売や観光案内。2階にはカフェやレストランが入ってます。

広島の海の玄関口として、船の発着が行われる旅客ターミナル。ターミナルビルの1階は大きな待合所やレストランなどのテナントが入り、広島観光の拠点としても期待されている。広電「広島港」駅すぐそばであり、「広島」駅へのアクセスも容易である。

広島港からは宮島や江田島の各方面に向かう高速船やフェリー、呉・松山に向かうスーパージェットやフェリー、瀬戸内海を巡る豪華クルーズの「銀河」などの発着が行われており、島しょ部や四国地方を結ぶ拠点として利用されている。

広島港宇品旅客ターミナル〔航路〕の路線一覧

広島〜似島[F] 似島[似島港似島桟橋]方面 
広島〜小用[高] 江田島[小用港]方面 
広島〜切串[F] 江田島[切串港旅客上屋]方面 
広島〜宮島[高] プリンスホテル[元宇品]方面 
広島〜呉〜松山[F] 松山観光港方面 
広島〜呉〜松山[J] 松山観光港方面 
広島〜高田・中町[高] 江田島[中町港]方面 
広島〜三高[F] 江田島[三高港]方面 

広島港(ひろしまこう)は、旧宇品港を中心とする広島県広島市及び周辺に位置する港湾。港湾管理者は広島県。港湾法上の国際拠点港湾に指定されており、海運・物流・貿易の重要拠点である。また、港則法上の特定港に指定されている。

港湾区域
港湾区域は、広島湾の観音崎、峠島南端及び似島南東端を順次結んだ線、同島地獄鼻、大カクマ島南端及び大カクマ島南端と沖山ノ鼻を結んだ線上、同南端から4,950mの地点から318度に引いた線及び陸岸により囲まれた海面、ならびに太田川水系の猿猴川黄金橋・京橋川御幸橋・元安川南大橋・旧太田川(本川)舟入橋・天満川昭和大橋より下流域河川水面。但し、漁港漁場整備法(昭和25年法律第137号)により指定された草津漁港及び五日市漁港の区域を除く。

草津・古江は地図中央左”庚午新開”の更に左、尾長山は地図中央右”かにや新開”の上、祇園は地図中央上端あたり、江波は地図中央左下”丸子新開””仁保松新開””があるあたり。
この地は太田川の下流域にあたり、広島三角州が形成される前である古来においては遠浅の海で、小さな島や中洲が点在していた。現在の広島市西部にあたる西区草津や古江付近は古来は入り江で天然の港として用いられており、例えば神功皇后による三韓征伐の際にはそこを”軍津浦輪”(いくさづうらわ、軍船の拠点)として用いたという伝承が残っている。遣唐使や遣新羅使、日宋貿易と、瀬戸内海は中央と西の大陸を結ぶ交通路となったものの、現在の広島港内にあたる区域には潮待ちの港が整備されることはなかった。

広島三角州が形成される前は、現在の安佐南区祇園や東区牛田(太田川放水路河口から川沿約9~10km付近)が太田川河口であり、港湾施設はなく、例えば平安時代菅原道真が大宰府に左遷される途中に尾長山(現二葉山で広島駅北側)に休憩に訪れた際、船で近くまで寄せている。

初めて人工での港が形成されたのは平安時代末期、厳島神社荘園の倉敷地が当時太田川河口である佐東郡桑原郷(現安佐南区祇園)にできた時である。この桑原郷の港の存在は嘉応3年(1171年)『伊都岐島社領壬生庄立券文(新出厳島文書)』で確認できることからそれより前に港ができていたと考えられており、当時は太田川舟運と内海航路の拠点であったと推定されている。平安時代末期の安芸守としてこの地を治めた人物の一人に平清盛がおり厳島神社は清盛の手により造営されたが、この桑原郷の港も清盛が整備したかどうかは不明。

鎌倉時代以降、佐東郡は安芸守護職の安芸武田氏により支配され、水軍が創設され(武田水軍)その拠点として広島湾内に港が整備された。なおこの水軍は戦国時代武田氏滅亡後は毛利水軍に編入される。またこの時代に中国山地でのたたら製鉄に伴う大量の土砂流出により三角州が形成され、河口は沖合に伸びていった。

この鎌倉から安土桃山時代にかけて広島湾周辺にいくつか商業地と港が形成されている。例えば現安芸郡海田町成本付近には”二日市”が、現廿日市市には”佐西の浦”と呼ばれた港があり、この2つは応安4年(1371年) 今川了俊が九州探題に下向した際に書いた紀行文『道ゆきぶり』に登場する。

安土桃山時代、広島城が築城されると城下町として整備され、江戸時代に入ると河口部に水陸交通の拠点ができていく。加古町や舟入は当時あった水運拠点の一地区であり地名はその由来である。また、当時島であった江波には”江波港”が外港として栄え、江戸時代末期には広島藩により貿易港として整備される計画も挙がったものの版籍奉還により頓挫している。

宇品港

宇品港形成以降。右側が軍用桟橋で左側は市営(民間)桟橋。まだその他の河口部が整備されていない。
「千田貞暁#宇品築港事業」および「宇品#歴史」も参照
明治以降、広島は都市として栄えていった。ただ太田川河口は堆積土砂による遠浅のため大きな船舶の通行ができないことから近代的な貿易港整備の必要性に迫られ、行政に対し地元より要望が出されるようになった。更に当時、廃藩置県以降の旧広島藩士に対する士族授産(士族への生活救済政策)として大規模な政策が考えられていた最中であった。

1880年(明治13年)、千田貞暁が広島県令(知事)に就任するとその要望に応え整備に向け動き出す。1881年(明治14年)から1884年(明治17年)にかけて基本計画を内務省のお雇い外国人であるローウェンホルスト・ムルデル技師が作成、1884年9月千田を発起人として宇品にて築港事業が着工した。当初予算は8万7,000円、財源には地元からの寄付や旧広島藩主浅野長勲が旧藩士に与えようとした士族授産補助金が当てられた。新しい技術として、潮止めには服部長七が考案した”長七たたき”が用いられている。

1885年(明治18年)、明治天皇山陽道巡幸において、広島からの呉市への行幸出発点として当時工事中であった宇品港が選ばれている。

この宇品築港事業は難工事であった。工事期間中、何度も災害に遭遇しそのたびに当初計画から数度の設計変更することになり、工事費は最終的に約30万4,500円までに跳ね上がった。千田は資金工面のため奔走し2度の国庫補助金を得たものの、1889年(明治22年)3月このことが原因となり国から懲戒を科され更に左遷されることになった。

千田貞暁銅像
また住民による様々な騒動にも発展している。

1889年(明治22年)11月、着工から5年後に宇品築港事業竣工、翌1890年(明治23年)竣工式が行われた。

竣工当時は多大な費用をかけた工事であったことから千田に対して批判的であったが、1894年(明治27年)日清戦争時に宇品港は”軍用港”として兵站拠点の最前線となり、のちの日露戦争でも同様の状況であったことから、千田は再評価されることになった。またこれに関連して、1894年に旧国鉄宇品線(広島駅~宇品間5.9 km)が開通している。

1922年(大正11年)公有水面埋立法により「宇品港」指定。この間高潮被害に遭遇したり、1905年(明治38年)芸予地震の際には埋立地という特性から宇品地区は多大な被害を受けている。

当時の賑わいは文部省唱歌「港」や、現在港周辺にある公園の記念碑などで窺い知ることが出来る。なお、宇品港は終戦まで陸軍船舶司令部が置かれ軍用港として用いられ、戦後は引揚援護局が置かれ復員および引揚者の受け入れ港となった。

昭和初期の拡大

第一次世界大戦以降、広島は商業地として発展を遂げ、さらなる港湾施設の整備が要望された。1932年(昭和7年)「広島港」に改称、1933年(昭和8年)第二種重要港湾に指定。

1933年、まず県営工事として宇品の西端側つまり現在の宇品西地区を商業港として修築が着工した。当初事業費は350万円。

あわせて工業港として整備が進められた。当初の計画は1940年(昭和15年)に策定、工期は10年、宇品以西の河口部つまり千田・吉島・江波・観音・庚午・草津の沖を8工区に分け、第1工区から第5工区(千田から観音まで)を県営工事として第6工区から第8工区(庚午・草津)を市営工事として整備し、その合計約132万坪に企業を誘致し一大工業地帯(軍需工場)を整備する予定で進められた。また同時に内務省により太田川改修工事(太田川放水路)が進められており、浚渫土砂を工業港造成に用いることも考えられた。そこへ第二次世界大戦による戦時対応のため工期を3年に短縮、第2工区吉島・第3第4工区江波(現江波南・江波沖町)・第5工区観音の合計986,460坪を整備する計画に変更された。

1940年(昭和15年)6月、臨時広島県議会にて議決、総事業費1,970万円、財源は埋立地の用地売却費と県債による。

1940年11月、着工。順調に進められたが、1941年(昭和16年)12月太平洋戦争勃発以降は資材および労力不足により工程はズレていった。この間、第2工区は陸軍に接収され広島飛行場となり、第3工区は工事中止したものの、第4・第5工区には三菱重工業誘致が決定した。また1945年(昭和20年)広島市への原子爆弾投下に遭遇、戦後は工事を続けることが一層困難となった。

現代

2014年。左端から廿日市・五日市地区、草津漁港、観音地区、江波地区、吉島地区、出島地区、宇品中央・宇品内港・元宇品地区、宇品外貿地区。
1948年(昭和23年)に貿易港として開港指定される。1951年(昭和26年)重要港湾に指定、1953年(昭和28年)広島県が港湾管理者に認可され、1992年(平成4年)国際拠点港湾(旧・特定重要港湾)に指定される。

また1970年(昭和45年)港湾区域変更により廿日市港区が編入され材木港を整備、1978年(昭和53年)開港した。

1960年代までにマツダにより仁保沖の埋立が行われ、マツダ宇品工場が完成し自動車輸出港として整備されている。

2003年(平成15年)には広島港に新旅客ターミナル完成、広島電鉄宇品線の軌道をターミナル前まで延伸し、バリアフリー化を図っている。

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