東海道踏破(神奈川宿(横浜駅)~藤沢宿)
魅力ある景色を足跡と共にウイスゆっす。 東海道東を目指して歩いてみた。 ほど区としく 藤沢区 平塚大い区田原区。今回は横浜駅から 小田原宿区に突入するまで約60km。 人生初方を歩いてきました。そしてこの 動画では藤沢区到着までのパート1です。 ではご覧ください。どうぞ 。おはようございます。現在4月5日5時 46分横浜駅です。まだ寒いのでこの 分厚いコートを来て参。これだけで荷物重 すぎです。 そして帽子も忘れました。60km手に GoProを持って撮影したいと思います 。前回のゴールであり、今回のスタート 地点である横浜駅は神奈川県内で最も利用 者数が多く、毎日200万人弱利用されて いる巨大ターミナル駅だそうです。今は 早い時間なので人はいませんがすごく境え てるのが分かります。 少し歩くと川が見えてきて、この時期は桜 が咲いていてとても綺麗でした。実は前日 歩くのが楽しみで寝不足だったんですが、 桜を見て体力が回復しました。後にガは 来るんですがね。ちなみにこの川は荒玉川 っていうそうで漢字にすると東京都と 神奈川との研境の玉摩川とは違って新しい 田ぼの谷に間に川で新玉川だそうです 。そして見えてきたのが東海道東本当の スタートの浅ま交差点です。日本橋から この交差点までの東海道東の動画のリンク は載せておくので、もしよければ是非見て ください。話は戻ってここから東海道東 ってわけですが、特別な道かと言うと普通 の裏道です。ただ歴史ある道なのでこの ように神社物格がたくさんあり、東海道場 にあるよって記載もたくさんあります 。前回は曇っていましたが、今日は朝の 日差しと人の少なさと桜の綺麗さで最高に 散歩りでした 。しばらくこのような道を進んでいくと 見えてきたのは横浜市ほど区にある幸福寺 松原商店街です。浜の網横って別名もある そうで現在土曜の朝7時くらいだったので さすがにほとんどの店は閉まっていました が米田コーヒー店はもうやっていて びっくりしました。こんな感じの商店街 ってやっぱ絵になりますね。散歩料理に つきます 。そして見えてきたのは相鉄線の天王町駅 です。もう横浜駅から駅で言うと3駅も 歩いたみたいです。そしてここにあるのが 旧片橋跡です。この平だけど歴史のあり そうな不思議な見た目の橋跡はほど入口の 橋だそうでかつては木造で橋として片側に 限られていたそうです。そんなわけで本日 1つ目の宿泊町ヶ谷区に入りました 。ほどはこの後僕も苦しんだ急な坂の ゴンタ坂の手前に位置し、多くの旅人が 休憩を取る場所として賑っていたそうです 。そしてちょこちょこと歩いていくと見え てきたのがまた橋の後の旧中野です。 ぶっちゃけ秋地みたいで本当にあったこと を示している看板があっただけですが、 この橋がかかっていた川が動画冒頭で桜が 綺麗に移っていた荒玉川から繋がっており 、この後もう少し行くと見えてくる現在の 今井川だったそうです。気を取り直して さらに進むと道の左側にはほヶ谷駅が見え てきました。大体ここまでで3kmくらい 歩いたことになるので1/2の進捗ですね 。まだ5%です 。少し歩くと問とバートが今はただの マンションでしたが記録として看板が残っ ていました。やっぱちょっと入ったところ くらいに物流の拠点はあるんですね。 そして 進み東海道線を見送って進むと見えてきた のがほしく本人跡です 。足元に横浜旧東海道のマークがありまし た。鶴とか神奈川もあるので今まで 見落としていたのかも。 本人とは小田原北条士の家臣カルベ無前の 神安典の子孫と言われるカルベ家が代々 勤めているそうでといや名を兼ねるほどで 最も有力ない家だったそうです。明治3年 にカルベに解消し現在に至っているそう です。小説の登場人物にいそうな属性です ね 。途中こんなのもあったり、そして少し 歩くと一時は歴史を感じる建物が見えてき ました。畑屋後です。畑屋とは今で言うと ホテル、県食堂みたいな場所です。そして 少し歩いて見えてきたのがさっき旧中野橋 で説明した今井川です 。あの辺の雰囲気めっちゃ良くないですか ?実際に歩く良さは観光スポットじゃない 場所も雰囲気を堪能できて体で覚えて おけるところです。松の木とか花とかこの 通りめっちゃ綺麗でした。日本橋から見て この辺から松の木が道沿いに生いている 場所が増えてきた気がします。改めて国道 を離れ、旧東海道に入るとのどかな道に なって神社物格がたくさん見れたりします 。そしてさらに進むと急に日本橋から見て 初めての勾配が見えてきました。これが ゴンタ坂です。実は歩いている時は特に 調べず体に1日60km歩けるって聞い たら歩けるって言ってたので見切り発射 でき来たんですが正直うえってなりました 。 坂はきついですが右側に学校と桜が見えて 青春の1ページとしては最高じゃんと思い ながら歩いていました 。看板によると昔はさらにきつくでも形式 が良かったためこのように浮おいなどが 描かれたそうです。また名前の由来も2つ の説があるそうで老人にこの名前を尋ね たら自分の名前が聞かれてるのかと勘違い しゴタでございますの返事からゴ田になっ た説ご門が大感の差しずにより平いででき た坂道をその名を取ってゴンザ坂と呼ばれ てたものがゴンダ坂になってそう呼ばれる ようになった説があるそうです。そして 登り切ったくらいに開けた場所を見ると 富士山がしっかりと見えていました。ま、 ヤギアンテナがなければ完璧だったんです けど 、そこから少し歩くと見えてきたのは酒木 館です。とは宿場と宿場の間に孫や人速の 休憩のためなどに設けられたものでここは これまで通ってきたゴ田やこれから通る 焼持ち坂品野坂と南所が続く中見晴しが よく西東に江戸ワンを望め旅人が必ず足を 止める名所だったそうです。この日はその 右に見える堺地蔵の桜が綺麗で最高の景色 でした。そしてここが区ととかしくのほぼ 中間地点だそうで現在のほど区と区の境に なっているようです 。そしてここにある石中が左は旧東海道、 右は環状2号って教えてくれています。 そして今から下る坂が焼き持ち坂です。 なんでこんな名前になったかと言うと2つ の説があるようで、1つ目が昔この坂の 辺りに茶やがあり、そこで焼き持ちを売っ ていたからという説や。焼き持ちつまり 嫉妬の意味で旅人が先を急ぐ仲間を羨んだ 坂田から焼き持ちになったということ らしいです 。そしてしばらく坂を歩いていくとシの 一塚が見えてきます。り塚というのは江戸 時代に該当に一約4kmごとに気づかれた 土森や塚のことで旅人が今どのくらい進ん だかを確認するための目印だったそうです 。ここは日本橋から10人目で神奈川県に 存する一立塚はとても少ないので貴重な 移行だったそう。今だとマンポ系やスマホ アプリのマップ機能でいくらでも把握 できるので便利な時代になったものですね 。として進んでいくんですが、この突角の 旧東海道の道は多少の枝別れがあり、結構 迷いそうな感じなんですが、とかくは 東海道を破する人に対してめちゃめちゃ 親切でこことかこれはいや、何も邪魔な ものが見えない綺麗な絶景の富士山で、あ 、ここの品野坂の看板とかこことか とにかく親切になっていました 。小だらしくまで歩いた限りではトップの 親切さでした。そしてしばらく進むと川に ぶつかってここはめちゃめちゃ桜が咲いて いて綺麗でした 。そしてその先の看板ではとかしくまで あとどのくらいか親切に教えてくれました 。ちなみに戸塚の看板での誘導の手厚さは 最高ですが、意外とゴンタ坂からこの辺 までのコンビニの数は少ないので、夏場 歩かれる時は気をつけた方がいいかもしれ ません 。今歩いてる柏青川はこんな感じで水が 綺麗で声が画面の中央ちょい左側くらいに いました。こんな感じの適度な自然って めっちゃいいですよね。地元の八王人に出 て落ち着きます。 そして進んでいくと久しぶりに国道1号線 と合流します。とは言ってもここは片道小 線で王道理感はないですがこの辺は飲食店 が多く近くに工場もあってのどかな感じ でした。相模原の雰囲気に近い感じです。 そしてこの近くにとかしく江戸見つけ跡が このイオンの前にあります。 ここがとかしくの入り口です。 ちなみにこの手前の信号はボタンを押して もかなり長い時間の素直に別の信号に回り ましょうてのは置いとい てくはとても大きな宿で旗がたくさんあっ たそうです。戸塚から谷へ向かうと先ほど まで歩いてきた坂が江戸に向けて手前に あるので南所前の休憩所みたいな感じだっ たそうです 。そしてと戸塚区に入ってからカシ青川の 橋にぶつかるんですがここすごくないです か?桜の絶景です。後ろのマンション街と 橋の所どにある戸塚の浮なぜあるかと言う とここ川広げのと区の浮おいのモデルの 場所だったからそうです。昔もさ魅力ある 景色だったんでしょう 。そしてその奥に説明がざっくり書いて あるとかしくの散索案内がありました。 ここには朝戸を立った人の1番目の宿泊地 として最適ってさらっと書いてあったん ですが、昔の人体力えぐいですわ 。あとは鎌倉に行くならここが分岐だった みたいで、今度ここから見に行ってみよう かと思ってます。 ちなみに近くにこんな東海道自販機もあり ました 。そしてその目の前にはJR戸塚駅があり ます。ここまでで横浜駅から大体12km くらいで全部で60kmの道乗りの1/5 くらいを歩きました。東海道の勢いの モデルの場所から近く。駅前には左に 見える戸塚穴モールや戸塚モーディ、駅 直結の桜戸塚などがあり、ここで全て完結 できそうな大きな駅でした。駅の橋を超え て反対側を歩くとと塚郵便局があるのです がここが2つある本人跡の1つ内田本人跡 だったそうです。そしてそこから数分歩く とあるのはサーベ本人跡です。創設者は サーベ相山でとかしくの解説に際し強く 働きかけた人だったそうです。行った時は 気づかなかったですが、奥には屋敷神で あった神社が現存しています 。そして進むとまた坂です。名前は大阪で このように結構長い坂で東海道を旅する人 にはかなりきつい場所だったそうです。坂 を登り切ると藤沢区に向かって比較的平坦 な道に入るため大きな区切りだったそう です。 この坂を超えるとこんな絶景が待ってい ました。戸塚が坂の多い場所であるという ことを象徴するような場所ですが、長い坂 を乗り越えるとこういうご褒美があるので 登山とかが好きな人がいるんでしょうね 。ここら辺はとかしくと藤沢区の間で さっきのような展望を楽しめる休憩所が あったみたいです。そしてここら辺に正式 な宿町ではないですが、戸塚区と藤沢区の 間にある愛の区として原宿という名前が、 え、この辺に残っていました 。ぱっと見普通の道ですが、寺や旅人を 守る同心がこの辺にもありました。 さらに進むと歩道橋で望むいい景色の橋に 藤沢バイパスの出口の持ちがあり、盲直長 すぎた横浜市を超えて藤沢市に入る手前 まできました。そこにあるのが愛の宿鉄砲 です。この綺麗な景色とは裏腹に名前の 由来は少し悲しいものでした 。現象によると昔この付近にいた長者、ま 、お金持ちというかメ下ですかねのクに 大者が住みついて水神様の使いとしてご飯 って名付けられたそうですが、その長者が 没落し、餌をあげる余力がなくなると、 それを見た大は迷惑はかけられないと近く の池に去っていきましたが、空腹には耐え られないので人間の影を食べていたそう です。影を食べた人間は弱ってしまった そうで大を退治することになったそうです が大は賢く鉄砲を見ると池の深くに潜って しまったそうですが漁師がここで一家を 講じかつて長者が言ったようにおはと呼び 昔の飼主だと思い顔を出すとついに 打ち殺されてしまったそうです。その打っ た漁師が住みついたということで鉄砲って 名前になったと書いてありました。 そして悲しい話とこの美しい桜の景色を見 ているうちについに藤沢市に入りました。 面積は約70平方km。人口は約44万人 の場所で江の島や湘南海岸のある湘南の海 といえばこの辺といった町です。このと角 と藤沢市の間のこの場所は鉄砲式の名前の 由来とかを駆使して100稼ぎをしてても 見せたい素敵な場所だと思います。桜の 季節に是非皆さんも行ってみてください 。少し行くと茶やもあって不勢があるなと 思いました 。そして看板には江の島まで7kmとあり 、行きたい気持ちは山々ですが、ここは 我慢して旧東海道東を進めました。少し 進むと一塚の看板だけが残っているものが ありました。この長い坂は異業 自を超えて進むとついに藤沢宿が見えてき ました。 藤沢区はさっきの坂にあった遊業寺が近く にあって旅人や参拝企画で賑わっていた そうです。またここでは江の島の方に 向かう人も立ち寄っていたそうです。ここ もとかしくと同様大きめの宿町だったそう です。そしてここら辺は藤沢広浩司という 場所だったそうで渋谷のスクランブル交差 点みたいな街道が交差する場所で交通の 要所だったり広い場所なので家事の時の 避難所みたいな場所としても使われていた そうです。そしてその一角には今は 藤沢しく交流感が立っていました 。そしてこの赤い異行橋を超えると左側に 見えるのが考察。大きい掲示板みたいな ものの後地でした 。少し進むと巻いた本人跡がありました。 江戸時代には朝鮮通信士も黒具品対宮の 施設ということでここに宿泊した記録が あるそうです。この辺の街並は歴史があり そうなだけあって所々このような歩いて みよう藤沢しくとか書いてある場所が たくさんがありました。そして今回江戸三 どちらも見逃してしまいましたが藤沢区は 以上です。そしてここまで大体20km くらいで全距離60kmの道乗り1/3 ぐらいを歩きました。ここからも旅は続き ますが、次の動画で紹介したいと思います 。ご視聴ありがとうございました。高評価 、チャンネル登録が励みになるのでして いただけると嬉しいです。 [音楽]
皆さんこんにちはゆっけと申します。
東海道踏破(横浜駅から藤沢宿までの動画です)
日本橋から横浜までの動画はこちら!
小田原着いた後に観光した時のはこちら!
使用した音源
・Tomato_and_Salt(オープニング)
・Sunlit_Path(エンディング)
すべでのBGMはDOVA-SYNDROMEから利用させていただいております。
SNSは以下の通りです。
X(旧Twitter):@Shikimino2018