水攻め【忍城の戦い】落城しない真の理由は石田三成?本気で戦わなかった謎とは

忍城の戦いの記事はこちら https://studio-kuruwa.com/archives/3974
1590年、全国の諸大名を臣従させた秀吉は、関東の北条氏に対し戦いを仕掛けます。天下人の侵攻に対し、北条氏は領内各所に配された支城で豊臣軍を迎撃するとともに、本拠小田原城に軍勢を集結させ、籠城する作戦をとります。北条方として戦うことになった忍城があるのは、武蔵国と呼ばれた埼玉県北部。利根川の対岸はもう上野の国で、周囲に松山・館林、鉢形城などがあります。城主は古くからこの地を治める成田家です。忍城はどのような城だったのでしょうか。目立つのは城を囲む水の広さ。まるで湖のようです。曲輪ひとつひとつは島状になっており、細い通路と橋がそれをつないでいます。水堀は城の中心部まで入り込み、本丸にたどり着くには5度も6度も橋を渡らなければなりませんでした。城内には山のような高さのある場所はなく、低地に築かれた城であることがわかります。忍城の城主成田氏長は、この戦いで北条家の命令により兵を率いて小田原城に籠城することになりました。城主不在の忍城に残された城兵はわずか300人ほど。一族である成田泰季(なりた やすすえ)が留守を預かることになりましたが高齢であり、戦いの前に病没してしまいます。変わって嫡男の長親が忍城防衛の指揮をとるという、とてもあわただしい状態だったのです。そんな忍城に豊臣の大軍が攻め寄せてきたのは1590年6月上旬。ここで城の周りにいた領民たちが入城。わずか300人ほどだった忍城の人数は農民や町人、僧や神主までを加え3000人まで膨れ上がります。
参考文献中井俊一郎「石田三成からの手紙12通の書状に見るその生き方」サンライズ出版2012など

15 Comments

  1. 関東戦国史にハマっていて昨年行きました。稲荷山古墳群も行きましたが忍城攻めにも関係してたのは知らなかったです。

  2. 色々と伝説のある水攻め伝説の城
    秀吉の命令であくまでパフォーマンスとして行われようとした水攻めですが
    実際に水の引き入れはしていなかったのでしょうね
    古墳そのものに堤防が接続されているように水没が確実な忍川下流域に本陣を構える伊達や酔狂な真似は流石に…
    水を張るのなら忍川上流で忍城のある微高地上の皿尾口方面に構えないと大惨事になった事でしょう

  3. ようこそ埼玉県へ 石田堤というとんでもない規模の遺構がある世界的にも稀有な場所だと思います

  4. 日本の場合の<水攻め>は、城の周囲を水浸しにして補給路を断つ兵糧攻め一種です
    そもそも、関東平野のど真ん中に水を溜めるダムなど造れるはずもありません

  5. あけましておめでとうございます(1月4日視聴)

    忍城懐かしい。
    お城の少し東にある「ふくさ屋」の「十万石まんじゅう」と、その隣にある食堂「魚豊」さんの「うな重」が美味しかった~。
    三成に倣って古墳の頂上に立って「ゼリーフライ」を食べながらお城の方を眺めたのも思い出しました。
    蓮の公園と隣の「田んぼアート」にも行ったっけ。

    ・・・なんか、お城とあまり関係ないコメントになってしまったw
    今年もよろしくお願いします。

  6. 動画で紹介いただいた古墳横の石田堤だけでなく、南方3km?くらいの場所にも『石田堤史跡公園』というのが有って水責めの堤が現存しています。
    大正時代に広範囲な発掘調査がされましたが、堤の中から埴輪が発見されたようです。
    当時点在していた古墳を壊して土を利用したようですね。罪な事です。

  7. 本気で力攻めしなかったのは、秀吉から甲斐姫を無傷で確保せよみたいな厳命を受けてたからだったりして(笑)生きて捕らえようとする攻め手と頃す気満々の甲斐姫、甲斐姫が忍城防衛戦で活躍できた理由はこれだった!?

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