【後面展望】根室本線 富良野→滝川 【約50分】

2025 4月撮影 北海道

根室本線 富良野→滝川の後面展望となります。

以下Wikipediaより
根室本線(ねむろほんせん)は、北海道滝川市の滝川駅から富良野市の富良野駅及び新得町の新得駅から帯広市および釧路市を経て根室市の根室駅を結ぶ北海道旅客鉄道(JR北海道)の鉄道路線(幹線)である。このうち釧路駅 – 根室駅間には「花咲線」(はなさきせん)の愛称が付けられている。

全線単線の非電化路線で、JRの路線としては日本最東端となる。

新得駅 – 帯広駅 – 釧路駅間は、石勝線とともに札幌市と帯広市・釧路市を結ぶ幹線ルートの一部となっており、定期特急列車として「おおぞら」が運転されている。一方、滝川駅 – 富良野駅間と釧路駅 – 根室駅間は地域輸送中心のローカル線となっているが、滝川駅 – 富良野駅間では特急「フラノラベンダーエクスプレス」を運行したり、釧路駅 – 根室駅間では快速列車や普通列車に指定席を設置したりするなど観光輸送を意識した取り組みも行われている。

歴史
1896年(明治29年)5月14日に公布された北海道鉄道敷設法により、北海道内における1,000 哩(約1,600 km)の鉄道整備が決まり、北海道庁長官の北垣国道はルート選定のための踏査を帝国大学工科大学教授の田辺朔郎に依頼。田辺は帝国大学を後にし、北海道庁鉄道敷設部長として踏査にあたった。

十勝ルートの踏査にあたっては、樹木が繁茂して見通しの利かない夏期を避け、初春の堅雪の季節に2名の鉄道技師と数名の荷物運搬人らとともに旭川を出発。ヒグマやオオカミが跋扈する原生林や、蚊やアブや蜂が飛び交う湿地など未開の地を歩き、地形、地質、経済効果、資材の入手方法など細部にわたって、釧路までの間を20日間かけ踏査した。当初はサホロ岳の北方が最適かと見当をつけていたが、踏査の結果、現在の国道38号線にほぼ沿う旧狩勝トンネルルートを最適とし、田辺はここに「狩勝峠」と名付けた。後に田辺が完成した鉄路で釧路を訪れた際、「12時間もの間さぞご退屈だったでしょう」との労いの声に「私が以前ここへ来たときは20日かかりました。昔日のことを思えばわずか12時間でこの地を通過するのはなんだかもったいないように思います」と応えたという。

ルート決定後、旭川と釧路を結ぶ幹線鉄道として北海道官設鉄道によって旭川、釧路双方から着工された。旭川側は1899年(明治32年)9月1日に旭川駅 – 美瑛駅間が、釧路側は1901年(明治34年)7月20日に釧路駅 – 白糠駅間が開業したのを皮切りに、1907年(明治40年)9月8日には狩勝トンネルの完成をもって、狩勝峠を含む落合駅 – 帯広駅間が開業。旭川駅 – 釧路駅間が全通し、釧路線(くしろせん)となった。
1913年(大正2年)11月10日に、滝川駅 – 下富良野駅(現在の富良野駅)間の新線が開業し、起点を旭川駅から滝川駅に変更。線路名称は釧路本線(くしろほんせん)となり、旭川駅 – 富良野駅間は富良野線(ふらのせん)として分離した。

以後は、釧路駅以東への延伸が行われ、1917年(大正6年)12月1日に厚岸駅、1919年(大正8年)11月25日に厚床駅、1920年(大正9年)11月10日に西和田駅、1921年(大正10年)8月5日に根室駅まで延伸して全通。同時に線路名称を根室本線に改めた。

以来、道央と道東を結ぶ主要幹線としての地位を保っているが、1966年(昭和41年)10月1日に落合駅 – 新得駅間の狩勝峠の区間を新線に切り替え、1981年(昭和56年)10月1日には短絡ルートとなる石勝線の開業により、道央と十勝・釧路を結ぶほとんどの列車運転系統が従来の滝川駅経由から石勝線経由に変更され、大幅な到達時間の短縮が図られた。この変更により、根室本線においては新狩勝トンネル以北を通過する優等列車はほとんどなくなった。さらに1994年(平成6年)1月20日には、釧路市と帯広市の出資による「道東高速鉄道開発」(本社:札幌市、現在の北海道高速鉄道開発の前身)が設立され、石勝線とともに根室本線の新狩勝トンネル – 釧路駅間の高速化改良事業が実施された。この事業は1997年(平成9年)3月22日に完成し、札幌駅 – 帯広駅・釧路駅間の大幅な所要時間短縮を実現した。

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