国泰寺(こくたいじ) 西区己斐上の大茶臼山西麓にある曹洞宗の寺院 広島市西区己斐上3-975-5 #広島 #広島市 #広島県 #国泰寺 #曹洞宗 #安国寺 #豊臣秀吉 #赤穂義士 #寺 #原爆
国泰寺(こくたいじ)は、広島県広島市西区己斐上の大茶臼山西麓にある曹洞宗の寺院である。山号は蓬莱山。本尊は釈迦牟尼仏。
国泰寺(こくたいじ) 西区己斐上の大茶臼山西麓にある曹洞宗の寺院 広島市西区己斐上3-975-5 #広島 #広島市 #広島県 #国泰寺 #曹洞宗 #安国寺 #豊臣秀吉 #赤穂義士 #寺 #原爆 20250416 @akibingo
国泰寺
所在地 広島県広島市西区己斐上3-975-5
山号 蓬莱山
宗旨 曹洞宗
本尊 釈迦牟尼仏
創建年 文禄3年(1594年)
開基 安国寺恵瓊
札所等 広島新四国八十八ヶ所霊場12番
文化財 愛宕池跡(市指定史跡)
歴史 開基
文禄3年(1594年)、安国寺恵瓊が現在の広島市中区中町に臨済宗の寺院「霊仙寺」を「安国寺」として大改装したのに始まる。本堂建立に際しては朝鮮出兵で恵瓊が持ち帰った材木が使用された。豊臣秀吉死後、恵瓊は秀吉の遺髪を持ち帰り安芸安国寺「不動院」(広島市東区)と安国寺に遺髪塚を建立する。開基時においては現在の愛宕池跡付近が海岸線であり、それより南には広島湾が広がっていた。
藩政期
関ヶ原の戦い後に恵瓊が刑死し、毛利氏に代わり広島に入封した福島正則。その弟・嫰桂琳英が入寺すると、寺号は国泰寺と改められ同時に曹洞宗に改宗した。寺号は豊臣秀吉の戒名「国泰寺殿前太閤相国雲山俊龍大居士」からつけたもの。
福島氏ののち浅野氏の帰依を得て同家の菩提所となり寺領400石が寄進され、この地域における曹洞宗15ヶ寺の触頭の任に当たった。境内の面積は1町7反(約130m四方)に及び、元禄6年(1693年)にはさらに100石の加増を受け、広島藩5ヶ寺の一つとなった。また、寛永11年(1634年)までに境内から南の海面が埋め立てられると、新開地はこの寺にちなみ「国泰寺村」(現町名・国泰寺町)と命名された。
幕末維新期
元治元年(1864年)の第1次長州征伐に際しては、幕府軍の総督府(総督は尾張藩主徳川慶恕)が置かれ、切腹した長州藩3家老の首実検が行われた。翌慶応元年(1865年)には事後処理として幕府から派遣された永井尚志らの訊問使(近藤勇・伊東甲子太郎ら新選組幹部も同行)が、当寺で長州藩家老宍戸璣(山県半蔵)への糾問を行っている。また、明治期に入って明治6年(1873年)から明治9年(1876年)までには県庁仮庁舎が寺内に置かれていた。
国泰寺の大クスノキ
戦前、寺の境内にあったクスノキの大木は樹齢300年で国の天然記念物指定を受けていたが、その根は境内の外の道路にまで伸びていたため、大正期になって寺の西側の通りに広島電鉄宇品線が開通した際、この近辺の軌道はクスノキの根を避けるよう若干カーブして敷設された。また県立広島一中(およびその後身たる県立広島国泰寺高校)の校章に取り入れられるなど、当時の広島の風景を代表する存在として市民に広く親しまれていた。
原爆被災による壊滅
昭和20年(1945年)8月6日の原爆被災で爆心地から500mの位置にあった寺は全焼全壊し、境内の大楠も根元から倒壊したが、第二次世界大戦後に再建された。
浅野家墓所の移動
昭和23年(1948年)には、藩政期以来境内に置かれていた浅野長晟以降の歴代藩主および一族の墓所が牛田町神田山の浅野家墓地(浅野山緑地)に移転した。また、吉長・重晟・長勲の墓は西区山手町の新庄山墓地にある。
新旧国泰寺の現況
山門(西区己斐上)
隣接する白神社(現存)とともに、古い時代からのランドマーク的建造物であった当寺は、市内の再開発が進むなか昭和53年(1978年)に己斐に移転、現在に至っている。中町の旧境内には現在ANAクラウンプラザホテル広島が建てられており、同ホテル正面に残された寺の遺構(愛宕池跡)が往時を偲ばせている。
旧跡
「愛宕池跡」を除き、いずれも中町から移築または再建されたもの。
墓所
豊臣秀吉の遺髪塚
安国寺恵瓊の遺髪塚
香林院(大石良雄の妻)・大石大三郎(同三男)の墓
武林治庵(赤穂浪士の一人武林隆重の祖父。明人・孟二官)の墓
供養塔その他
赤穂義士追遠塔 – 大正2年(1913年)の建立。
仏舎利塔 – タイ王国仏教会寄贈の仏舎利、仏像が安置。
林為龍「不許薫酒入山門」石標 – 寺内での香菜と飲酒を禁じた戒律標。
境内跡地(中町)
愛宕池跡 – 市指定史跡。己斐の現地でなく旧・国泰寺跡に保存。
行事
豊臣秀吉供養のため毎年4月12日に「豊公祭」が行われる。茶を愛す秀吉のため、上田宗箇流による茶の献茶が行われる。
赤穂浪士大石内蔵助(良夫)の妻理玖、三男大三郎の墓があることから、毎年12月14日には「義士祭」が行われる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曹洞宗
曹洞宗は、お釈迦様より歴代の祖師方によって相続されてきた
「正伝の仏法」を依よりどころとする宗派です。
禅宗の一つであり、今から約八百年ほど前の鎌倉時代に、
「道元禅師どうげんぜんじ」が正伝の仏法を中国から日本に伝えました。
その後、第四祖である「瑩山禅師けいざんぜんじ」が全国に広められ、
「曹洞宗」の礎を築かれました。
曹洞宗では日常生活のすべてが修行であり、
禅は悟りの実践であると捉え、坐禅を修行の中心に据え、坐禅の姿そのものが仏の姿として、只管打坐しかんたざ(ただひたすらに坐禅を行う)を基本としています。
道元禅師どうげんぜんじ、瑩山禅師けいざんぜんじこのお二方を両祖りょうそと申し上げ、御本尊「お釈迦しゃかさま(釈迦牟尼仏しゃかむにぶつ)」とともに、「一仏両祖いちぶつりょうそ」として仰いでいます。
福井県の「永平寺えいへいじ」と横浜市の「總持寺そうじじ」が両本山となります。
國泰寺史
(一)霊仙寺から安国寺へ
現在の國泰寺は、昭和五十三年三月、都塵をさけて己斐のこの高台に移った。清閑なこの地は、かつて黄檗宗おうばくしゅうの始祖、隠元いんげん禅師ぜんじが、瀬戸内海に映える山並みを眺め、はるかな中国の古里、通玄山に酷似すると感慨深く、今も禅師の手跡と言われる通玄山にいつも慈光は降り注いでいる。
【己斐中にある通玄山(岩)通玄とは禅の境地という意味】
(浅野長晟あさのながあきら家臣、寺西織部信之てらにしおりべのぶゆきが隠元禅師直筆の書「通玄山」を得て、1674年(延宝2年)に彫刻した。)
文禄元年(1592年)四月十三日、豊臣秀吉とよとみひでよしはこの霊仙寺れいせんじで、一日、安国寺恵瓊あんこくじえけいらと清遊している。この日は終日雨が降っていたようで、秀吉は竹笠を着けて、寺が大切にしていた庭の蓬莱山に登り、茶室などの将来設計を自ら指示して、非常に喜んだと史料に伝えられている。
元来、安国寺恵瓊あんこくじえけいは、毛利氏もうりしの政治外交僧として活躍したが、秀吉との間をよく奔走し、秀吉からの力量を見込まれ、後には大名扱いに取り立てられている。
ところで毛利輝元もうりてるもとが、太田川デルタの上に広島城を築き、入場したのは天正十九年(1591年)一月八日である。
その翌年、文禄元年(1592年)二月二十八日、輝元は諸将を率いて朝鮮出兵のため、秀吉に先だって出発している。その二ヶ月後に、秀吉は総指揮をとるため、九州へ西下の途中、神辺まで出迎えた恵瓊の案内で広島に数日立ち寄り、城の内外を視察し、この霊仙寺へ足を運んだのである。つづいて恵瓊は、秀吉に従って九州肥前の名護屋に赴き、さらに朝鮮に渡って輝元の陣に加わり、歴戦している。
文禄二年(1593年)九月、戦勝した恵瓊は毛利方の三将と帰国した。その翌三年、恵瓊は持ち帰った朝鮮の良材の一部で、当時牛田にあった安国寺「安芸安国寺あきあんこくじ(不動院)」の山門の再建などに使用に、その多くはこの霊仙寺の大改築に充て、広島の城下に壮大な新装の安国寺(新安国寺)を建立した。
この新安国寺が、後に國泰寺となるわけで、國泰寺の開基かいきは恵瓊であり、当時の世代でいう「開基甫恵瓊ようほえけい」である。
豊臣秀吉死後
慶長三年(1598年)八月、秀吉が死没すると、恵瓊はその遺髪を持ち帰り、新安国寺内に豊太閤の五輪塔をたてた。
豊臣秀吉遺髪の墓
慶長五年(1600年)七月、恵瓊は石田三成らと徳川家康討伐を図ったが、九月十五日の関ヶ原の戦いで敗れ、十月一日、恵瓊は石田三成らとともに、京都三条河原で処刑された。まもなく、毛利一族は広島を去り、防長へ削封されることになったのである。
安国寺恵瓊遺髪の墓
(二)安国寺から國泰寺へ
慶長六年(1601年)三月、毛利氏のあとをうけて、福島正則ふくしままさのりが広島の地に入国した。同年十二月六日、正則の招請に応じて、尾張国白坂(現在の愛知県瀬戸市)の雲興寺十三世嫩桂琳英うんこうじじゅうさんせどんけいりんえい(正則の弟)がこの新安国寺に入山した。文献によれば、慶長七年(1602年)四月十七日(寺伝では四月十二日)、寺号を安国寺から國泰寺と改め、宗派も臨済宗から曹洞宗とした。
國泰寺という寺号の由来は、太閤豊臣秀吉の戒名 「國泰寺殿前太閤相国雲山俊龍大居士こくたいじでんぜんたいこうそうこくうんざんしゅんりゅうだいこじ」によるものである。
この琳英は高僧と聞こえ、時の後陽成天皇ごようぜいてんのうから、宗眼円明なりとして、天眼普照てんがんふしょうの号を賜った。普照(勅特使天眼普照禅師ちょくとくしてんがんふしょうぜんじ
)は当寺の開山である。
(三)基礎固めから発展へ
浅野氏あさのしの藩政は、長晟ながあきらの入国以来明治維新まで、二百五十年の長きに及び、それだけに、菩提寺としての國泰寺は、寺領をはじめ本堂、諸施設など、その保護助成のもとに基礎固め、発展へとつながり、また叢林そうりんとなった。
寺領について
慶長七年(1602年)福島正則ふくしままさのりから三百石を与えられたが、やがて正則は封地され、入れ替わって浅野長晟あさのながあきらが紀州より入国して、國泰寺の寺領は二百石とされた。しかし、浅野光晟あさのみつあきらが二代藩主にだいはんしゅになって、寛永十一年(1634年)に寺領は三百石に復し、三代藩主綱晟さんだいはんしゅつなあきらとなって、元禄六年(1693年)百石を増して四百石になった。
寺格の充実、諸行事について
①慶長十年(1610年)夏、当寺として初めての結制を執行し、僧侶約三百人が集まる。結制実施で大本山永平寺から、正式に寺格を認められる。
②寛永六年(1629年)、大本山から僧録状を受ける
③寛文三年(1663年)、再び芸備両国の僧録状を受ける。
④享保九年(1724年)、本山に常法幢を願い出て、同年冬結制して初めて常会江湖じょうえこうこの寺となり、常法幢免許状を受ける。常法幢については、当時藩主吉長の特別な援助があり、本山から免許されたが、次に晋山開堂しんさんかいどうを行う必要があった。
⑤享保十年(1725年)、晋山開堂を執り行う。常法幢を願い、晋山開堂を始めたのは、当寺八世道湛林達の時である。
⑥宝暦二年(1752年)冬、永平寺の高祖五百年忌にあたり、五百人結制が行われ、衆僧三百七十人が安居した。
本堂、諸施設について
(一)万治二年(1659年)、本堂の屋根を初めて瓦葺とした。
(二)宝暦八年(1758年)、大火によって諸建物は残らず類焼したが、本尊や尊牌は嶺雲院に移し、同12年、本堂、庫裏などを再建した。
(三)明和四年(1765年)、惣門、中門、禅堂、書院、開山堂が落成し、鎮守の愛宕社も再建されたが、同年不運にも、当寺は再び大火に遭い、門前の塔頭三カ寺を含め全てを失った。しかし、同八年諸堂ことごとく復旧した。
(四)安永二年(1775年)経蔵を建立し、翌年経蔵の納経式を行う。
(五)文化十一年(1814年)新たに書院を造営する。