国境の城 佐敷城跡 熊本県芦北町

肥後と薩摩の国境に位置する佐敷城。肥後の国境を守るため1588年に加藤清正が築いた城です。城代は重臣の加藤重次です。城下町からも目立つお城でした。

このお城は、1592年の文禄の役に出陣していて手薄になった隙をつかれ一時乗っ取られたらしい。梅北の乱というそうだ。梅北国兼という人物が首謀者で島津家の家臣だった。この乱は3日で鎮圧され梅北国兼は討取られている。そしてこの乱は謎が多いらしい。梅北国兼の軍は肥前名護屋に行くと見せかけて佐敷にいたらしい。動機は何だったのか、秀吉による九州征伐での恨みなのか、朝鮮出兵の拒否なのか、よく分からないそうだ。乱の黒幕とされた島津歳久は切腹・家臣が乱に参加したという理由で阿蘇大宮司家の阿蘇惟光(13歳)熊本で切腹・同盟者とされた佐賀の江上家種変死・・。秀吉の苛烈な裁きだったことがうかがえる事件だった。もしも乱が成功して九州各地から反乱軍が多く集まっていたらとか、島津義弘軍が遅れて名護屋に着陣したのも作戦だったのかもとか想像が膨らみますね。一方では島津家内において国人の力を削ぐ目的もあったという説。。梅北国兼は地頭職だったし。謎だ。姶良市には梅北神社があって梅北国兼が祀られている。一揆の首謀者が神様に。梅北氏は肝付氏の一族である。

関ヶ原合戦の際は、島津軍に包囲されたらしいが加藤重次は守りきったそうだ。佐敷は薩摩街道と人吉街道が通る交通の要衝であるため以前から相良氏や島津氏が奪い合った地域でもあり秀吉も重要な場所と考えていて加藤清正の飛地となったのかも。

2度にわたる改築を行った佐敷城ですが、1615年の一国一城令により廃城。1638年に壊し方が不十分だと指摘され更に壊す。この指摘は、島原の乱が影響している。これだけの石垣が残っていることを踏まえると、どんなお城だったのだろうかとここに立ってみると想像が膨らみます。
御城印は芦北の役場で購入できました。係りのひと ありがとうございました^^

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