馬碑(まはい)(輜重兵(しちょうへい)第五連隊跡 馬碑) 兵にとって馬は正に戦友であった。 広島市中区基町15−5 #原爆 #広島 #広島市 #世界遺産 #広島県 #広島 #サッカースタジアム
馬碑の由来
昭和三年、馬碑は輜重兵第五聯隊の兵営西南太田川沿いに建立された。
昭和二十年八月六日朝、米軍機の原爆投下により、輜重隊は壊滅、多くの兵士が犠牲になった。
その中で、馬碑は熱風を受けながらも唯一残った。
昭和五十七年、廣輜会(原隊の戦友会) により、隊跡馬碑と表示、復元された。
馬碑(まはい)(輜重兵(しちょうへい)第五連隊跡 馬碑) 兵にとって馬は正に戦友であった。 広島市中区基町15−5 #原爆 #広島 #広島市 #世界遺産 #広島県 #広島 #サッカースタジアム 20250322 @akibingo
サッカースタジアム建設に伴う発掘調査において検出された近代遺構について、一部の遺物を公開できるよう整備しました。
展示している遺物は、旧陸軍の輸送部隊「中国軍管区輜重兵補充隊」の施設跡のうち、石敷及びアスファルトの一部です。
これらは、軍馬のための水飲場や手入場などの床材に使用されていたもので、明治時代以降、広島城郭一体に陸軍施設が置かれ、軍馬が中心的な役割を果たしていた当時の広島の姿をうかがい知ることができます。
輜重兵第五連隊もこの地付近で被爆したということで、連隊に属していた多くの兵士が亡くなった。
*(輜重兵第五聯隊部隊跡馬碑 説明板)
馬碑の由来
昭和三年、馬碑は輜重兵第五聯隊の兵営西南太田川沿いに建立された。
昭和二十年八月六日朝、米軍機の原爆投下により、輜重隊は壊滅、多くの兵士が犠牲になった。
その中で、馬碑は熱風を受けながらも唯一残った。
昭和五十七年、廣輜会(原隊の戦友会)により、隊跡馬碑と表示、復元された。
*続(輜重兵第五聯隊部隊跡馬碑 説明板)
自動車が発達していない昔、物の運搬は主として馬匹によりなされていた。軍馬は日本各地より挑発(強制買い上げ)され、隊で調教、乗、輓、駄馬として、兵器、弾薬、糧秣の輸送に任じた。
戦場に於いて、四肢の蹄に哲をつけて保護され、車を輓き、また鞍上に百キロ余りの荷を背負わされ、人に寄与した動物は馬だけであった。
蹄鉄は「馬の命」、行動中落鉄した時は、兵の沓下を重ねて蹄を保護し、次の休止時に予備鉄を装着した。
戦場では晴雨昼夜の別なく行軍の為、鞍傷した馬背を兵は寝ずに水で冷やし看病し続けた。兵にとって馬はまさに戦友であった。
数字の作戦参加と米軍機の銃撃により、半数は戦死、終戦時は武装解除と共に、中国側に引き渡し、悲しくも馬は復員出来なかった。
初年兵時代、「馬は三百円、お前等は一銭五厘で幟をたててやってくる!」と古年兵に叱られ乍ら鍛えられ、然も、馬が先輩であり、初年兵の肩章にある星の数で見分けられるのか、当初は思うように動いて貰えなかった。
尚、馬は「活兵器」として大事に扱われた。
戦後六十年を経て、戦友は八十路を越え、健在者僅少となり、茲に輜重兵第五聯隊に唯一残された歴史的象徴たる、馬碑の由来を後世に伝えるべく、戦友の浄財と靖国神社の助成に拠り、付帯施設を新設した。
この馬碑と刻まれた本体の前の石碑には、「輜重兵第五聨隊(しちょうへい だいごれんたい) 隊跡 馬碑」と記されている。 輜重兵第五聨隊は昭和11年6月に編成されている。この馬碑は昭和三年なので輸送隊である輜重兵の単位はもっと小さいものであったかもしれない。聨隊ともなると平時でも馬300頭を飼育し、戦時では2000頭以上を使用したという。寿命で死亡する馬だけでもかなりな数に登ったであろう。
(碑文表) 馬碑
(裏面) 昭和三年秋十一月/建之
(副碑) 輜重兵第五聨隊/隊跡 馬碑
(大きさ:cm)
本体 70W×152H×45D
台石 125W×32H×90D
台 220W×31H×190D
■ 平成18年に解説版が取りつけられ、馬碑の由来がよくわかるようになった。原爆が上空600メートルでさく裂したことを考えると、爆心にあったこの碑がよく残ったものだと思う。
馬碑の由来
昭和三年、馬碑は輜重兵第五聯隊の兵営/西南太田川沿いに建立された。
昭和二十年八月六日朝、米軍機の原爆/投下により、輜重兵は壊滅、多くの兵士/が犠牲になった。
その中で、馬碑は熱風を受けながらも/唯一残った。
昭和五十七年、廣輜会(原爆の戦友会)/により、隊跡馬碑と表示、復元された。
自動車が発達していない昔、物の運搬は主として馬匹によりなされていた。/ 軍馬は日本各地より徴発(強制買い上げ)され、隊で調教、乗、輓、駄馬/ として、兵器、弾薬、糧秣の輸送に任じた。
戦場に於いて、四肢の蹄に鉄を付けて保護され、車を輓き、また鞍上に/ 百キロ余りの荷を背負わされ、人に寄与した動物は馬だけであった。
蹄鉄は「馬の命」、行動中落鉄した時は、兵の沓下を重ねて蹄を保護し、/ 次の休止時に予備鉄を装着した。
戦場では晴雨昼夜の別なく行軍の為、鞍傷した馬背を兵は寝ずに水で冷/ やし看病し続けた。兵にとっては馬は正に戦友であった。
数次の作戦参加と米軍機の銃撃により、半数は戦死、終戦時は武装解除/ と共に、中国側に引き渡し、悲しくも馬は復員出来なかった。
初年兵時代、「馬は三百円、お前等は一銭五厘で幟をたててやって来る!」/ と、古年兵に叱られ乍ら鍛えられ、然も、馬が先輩であり、初年兵の肩章/ にある星の数で見分けるのか、当初は思うように動いて貰えなかった。
尚、馬は「活兵器」として大事に扱われた。
戦後六十年を経て、戦友は八十路を超え、健在者僅少となり、茲に輜重兵/ 第五聯隊に唯一残された歴史的象徴たる、馬碑の由来を後世に伝えるべく、/ 戦友の浄財と靖国神社の助成に依り、付帯施設を新設した。
平成十八年
元中支派遣 第三十九師団輜重兵
第百三十二師団輜重兵
有冨部隊戦友会
1 Comment
戦地にて悲しくも散っていった優駿達に😢
前線の兵達に食料弾薬を届けるために
雨と振りくる弾雨の中を、輜重兵共々
悪戦苦闘した優駿達に😢