空から観た鶴田城址(岡山)、美作杉山家の歴史④その城主杉山備中守為就
鶴田城(たづたじょう)
閑国(しずくに)大夫重実によって築かれた鶴鳴城がその前身と云われる。閑国越中入道俊定のとき、垪和八郎為長によって攻められ落城し、垪和為長が改修して鶴田城となったと云われる。
垪和氏は浦上氏や尼子氏に従い、その後は三村氏を通じて毛利氏に従った。 垪和為長が討死したのちは、嫡子竹内善十郎為能が幼かったため、弟の杉山備中守為就が鶴田城主となり、竹内為能はやがて高城を築いて居城とした。この杉山為就の子、竹内久盛が現在も続く竹内流古武道の開祖にあたる。
浦上氏が滅亡して宇喜多氏が台頭すると、毛利氏と宇喜多氏は和睦して手を結んだが、織田信長の中国侵攻によって宇喜多氏は毛利氏を離反し織田信長と結んだ。 天正8年(1580年)宇喜多氏は垪和へ侵攻し鶴田城と高城を囲んだ。竹内氏は毛利氏に援軍を求め一度は宇喜多氏を撃退したが、陣替えの隙を突いて再度侵攻してきた宇喜多氏に攻められ、高城二ノ丸の守将岸氏勝が宇喜多氏に寝返ったこともあって落城、竹内氏は滅亡し帰農した。
即ち、良い田畑や主たる領地は奪われたが、山奥の貧しい田畑を開墾し生きながらえた。そしてその16代目の子孫、それが私、杉山誠一である。
40年前、私の結婚式で父、吉男の従弟であった河根誠氏が私の親戚代表としてスピーチをしてくれた。その時、私の祖父、杉山高三郎が岡山の鶴田村(たづたむら)の出身であったことや、日露戦争における203高知で戦った勇者の一人であったことを知った。 それから約40年後、その祖父の残した刀を差した姿の祖父の父、逸八の家族写真や、祖父が日露戦争で負傷したときの新聞記事を見るにつけ、祖父の故郷、岡山に関心が湧いた。 そして三度岡山の杉山本家跡を訪れた。
これはその3度目に岡山県鶴田村を訪れた時の記録である。
垪和、竹内、あるいは杉山一族は、応仁の乱(1467年)以後、京都をはじめ戦国時代、領民の安寧と平和を願ったという。 このことを我が子孫にも伝えていきたい。
2025年(令和7年)3月12日 美作の杉山家、16代目、杉山誠一
(参考: 小川博毅著 竹内・杉山一族の戦国史 「美作垪和郷戦乱記」、
並びに城郭放浪記 美作鶴田城(たづたじょう)https://www.hb.pei.jp/shiro/mimasaka/tazuta-jyo/ より)