213)長篠・設楽原の戦い決戦場【49歳独身の黙々とひとり旅愛知編】長篠・設楽原古戦場 3000丁の火縄銃を使った織田・徳川連合が武田勝頼に圧勝(愛知県新城市)

2025年1月3日に訪問。
今回、愛知県新城市を訪れたのは、先日、仕事で新東名の新城ICで下りて新城市の市街地に行く機会があったのだが、その道中で設楽原古戦場の看板を見つけたことだった。
以前から馬防柵が再現されているのは知っており、当初の予定では、そこの用事は早く終わるはずで、次の予定までかなり時間があるはずだった。それなら途中にチラッと立ち寄ってみるか、と思っていたところ予想外に時間がかかり、立ち寄るどころか、昼食をとる時間も無い程ギリギリまでかかってしまい素通りすることに。
ここに特別思い入れがある訳では無いが、一度行こうとしたのに、行けなかったとなると無性に行きたくなってしまうのが人間のさが。ということで今回と訪問となった。
ちなみに馬防柵は、どうせ誰もいないだろうと思っていたら、次から次へと訪問者が。意外と人気があるんだな。
特定の駐車場は無いが、馬防柵付近に駐車しても問題はなさそうだ。
古戦場はいくつか訪問しているが、どこも石碑や案内板があるくらいで、映像を残しておこうとするようなところは過去では関ヶ原古戦場くらいだった。ここは馬防柵が再現されていることもあるが、他の古戦場とは違って戦いの場面を非常にイメージしやすかった。
というよりもある意味、攻城戦ではないかと改めて再認識。
後で調べてみると野戦築城という作戦で、塹壕を中心とした野戦築城は1494〜1559年にあったイタリア戦争でその効果がヨーロッパでは完全に広まったが、その話を信長は宣教師から聞いていた可能性もあるらしい。
歴史は、単独ではなく縦も横もつながっているのは当然だが、宣教師の影響がここまで来ていたのは恐ろしさすら感じる。そりゃ秀吉も家康もキリスト教を禁止する訳だ。

ちなみに武田勝頼本陣跡は、東郷東小学校の南にある庚申堂の近くが入口になります。

【投稿のいきさつ】
49歳独身の自分がただ黙々と一人旅をした映像です。大学を5年間でなんとか卒業後、24歳より西日本で有名なブラック企業に入社。1年のうち平均358日が仕事で、早朝から深夜まで数字に追われる日々を20年近く続ける(休日はお盆2日、年末年始5日ぐらいのみ。勤務時間は普通の時で朝7時〜夜11時、ひどい時は書きたくないほどひどい)。そんな会社もそこそこ営業結果を残せれた為、小さい営業所の所長をやったりと、ズルズルと在籍。そんな会社も数年前から労基の指導や働き方改革で週に1日は休めるようになる(最近は2連休もある)。当初は20年近く、毎日一息もつけない働き詰めの生活の反動から休日は全く何もしたくない、と思い本当に何もしない生活を続ける。ただ、この20年間、働き詰めで仕事だけのこのままの生活ではいけない、少しだが時間もお金もある、と思い、自分は何がしたいのかを考えたところ、自分は城跡を見るのが好きだったことを思い出し城跡を巡るようになる。2020年3月にスマホにかえたのを機会に投稿を始める。それ以前に訪問した犬山城、岐阜城、広島城などの記録を残さなかったことに後悔しつつ投稿を続けています。

#長篠の戦い
#設楽原の戦い

1 Comment

  1. 実際に設楽ヶ原に行ったのと、色々な人の動画とかを見たりした結果、長篠で戦う事を選んだのは間違ってはいなかった、仮に間違いだとしても勝頼の立場や状況で考えたら撤退は論外だっただろうなと思いました。

    勝頼の長篠城攻めの理由がなんであれ、撤退したら「武田は織田・徳川の後詰めが来ただけで恐れをなし、戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出した腰抜け」と信長や家康に喧伝され、三河や遠江、東美濃の国衆達に「武田に味方しても自分達が織田や徳川に攻められたら尻尾を巻いて逃げる。 一方で徳川は奥平の後詰めに織田と一緒に来てくれた。 しかも奥平は武田の城攻めに耐えた。 武田は頼りにならない上に弱い。 ならば自分達も奥平と同様に織田や徳川に味方した方が得になりそうだ」と思われ、次々と離反される可能性が高い。

    甲斐や信濃の家臣や国衆達も信玄や信虎、それ以前からの重税(「お金の流れで見る戦国時代」という現代の本や、「妙法寺記」という古文書に書かれている)で困窮する中わざわざ遠征したのに、戦果無しに撤退したのでは恩賞が貰えない。
    戦の費用や兵糧は家臣や国衆達の自己負担であり、その出費を取り返す為に城下町や村で乱取りをしたり、人を攫って売り飛ばすのにそれができなくなる。 しかも武田領の金山は当時の技術ではほとんど金が取れなくなるほど掘り尽くしていたらしいから、家臣や国衆達の出費を補填できない。

    山県昌景や馬場信春、内藤昌豊らも、武田信廉や穴山梅雪らも陪臣(家臣の家臣)や兵として動員する領地の民に恩賞を出さなければならない立場であり、自分達が恩賞を貰えなかったり、乱取りを許可する事ができなければ、陪臣や民達に恩賞を与える事ができない。 そうなったら陪臣や民達から武田家に対する不満が出る。

    当時の武士達は面子や血筋を重んじる者が多かったらしい。 鎌倉時代から続く甲斐源氏の名門の武田家に対し信長の織田家は元は守護代の家臣筋、徳川も三河の土豪出身。 武田から見たら織田や徳川は素性の怪しく身分の低い格下の家柄の相手。
    そんな相手に戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出したとなったら、武田家だけでなく家臣や国衆達の面子も丸潰れになってしまう。

    「重税で生活が苦しい中わざわざ遠征したのに何の恩賞も無しか。 これじゃあ俺は陪臣や兵として動員する民達に恩賞を出す事ができなくなってしまったし、領内の食い物も多くを兵糧として徴収してしまったしこれからどうやって食べていけばいいんだ。 しかも戦いもせずに尻尾を巻いて逃げ出したと素性の怪しく卑しい家柄の織田や徳川に喧伝されて俺達の面子は丸潰れだ。 戦っていれば勝って乱取りできたのに」という風にお金の無駄遣い、骨折り損のくたびれもうけに終わり、面子まで潰された家臣や国衆達は不満を抱くでしょうし、仮に家臣や国衆達が不満を抱かなかったとしても、陪臣や民達が不満を抱いたらその声は無視できないから、家臣達は何をしでかすか分からないと思います。

    今後出兵に応じなくなるかもしれない、反乱を起こすかもしれない、別の武田家の人間を担ぎ出して勝頼を追放するか殺そうとするかもしれない、史実より早く織田や徳川に寝返る者が出てくるかもしれない。
    そうして武田領に混乱が生じたらその隙をついて織田や徳川、更には上杉や北条に侵攻されて武田家が史実より早く滅亡する事になったかもしれない。

    仮に撤退して家臣や国衆達の離反が加速しなかったとしても、武田と織田の国力差は更に開いて大きくなり、時間が経てば経つほど武田が不利になる一方。 仕切り直した時には今以上に領土を広げて国力を上げた織田が今以上の兵を率いて徳川の後詰めに来るかもしれない、それどころか織田の方から武田領に侵攻してくるかもしれない。 そうなったら徳川も呼応して侵攻してくるからもう打つ手はない。

    勝頼が武田家を継いだ前後の状況

    ① 信玄が信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしいから、外交での織田との関係修復は無理。

    ②織田と敵対した為に、鉄砲や鉄砲の弾を作る為の鉛、鉄砲を使う為に必要な火薬の原料、硝石が手に入りにくくなる経済封鎖をされた。

    ③ 徳川との関係修復も三方ヶ原の戦いや信玄と家康が共同で今川を攻めた際からの遺恨(信玄と家康のどちらが不義理をしたのかは分からないが、家康は上杉や北条と結んで武田包囲網を作ろうとし、信長に武田と手を切るように何度も求め、自身が仲介役となって信長と謙信に手を結ばせようとした)で無理。

    ④浅井家、朝倉家が滅ぼされ、伊勢長島の一向一揆が鎮圧されて武田と対織田で連携できる相手がいなくなっている。 本願寺顕如がまだ畿内で織田と争っているようだが、敗れるのは時間の問題。

    これらの状況を打開するには、まだ織田が畿内で本願寺勢力と戦っていて、武田相手に全軍を向ける事はない中、わざわざ出てきた信長や家康をここで討ち取る、討ち取れなくても織田・徳川軍に痛手を与え、「織田など恐れる程の相手ではない」と喧伝しなければならない、そしてそれができるのは今しかないと判断するのは当然だろうし、私が勝頼でもそう判断すると思います。
    撤退したら次に織田と戦う時は信長は出てこないかもしれないし、調略したところで熱田や津島、大津や堺などの商業が発達した街や濃尾平野という穀倉地帯を押さえ、税が安く豊かな織田を離反し、山に囲まれていて耕作に向いた地も少なく、税が重く貧乏な武田に味方する者は出てこないでしょうから。

    一度撤退して織田が畿内に戻った後すぐに徳川を攻め直すという人がいましたけど、それは無理だろうと私は思いました。 
    行軍するだけでも消費する兵糧を貯めるのにも時間がかかるし、長篠城攻めで消費した武器弾薬だって補充しないといけないのにそんなすぐには補充できないでしょうし。

    同様に長期戦も武田には無理です。 武田は遠江を完全に領土化していないから、長篠城を攻めている武田軍の兵糧や武器弾薬の補給は信濃から険しい山道を越えないとできないしそれ程多くは運べない。 一方で徳川は自軍の本領であり、しかも織田の本領の尾張にも近い。
    どちらが兵糧や武器弾薬の補給が楽かと言われたら、圧倒的に防衛戦側の織田・徳川ですから、長期戦になれば武田の方が先に兵糧や武器弾薬が底を尽きる事になり、撤退するか全滅するしかない状況になったと思います。

    かと言って出陣する事なく武田を裏切った奥平を野放しにしていたら、それこそ信長や家康に「武田は織田や徳川の影に怯えて裏切り者の討伐もできない臆病者揃い」とか喧伝してくるでしょうから、三河や遠江、東美濃の国衆達の離反を誘発しかねないと思います。

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