沖縄地方 2025-02-25 【沖縄戦】住民の半数が亡くなった村~戦争で大きな被害を受けた与座を歩く~戦前から戦後の与座地区の変遷をさぐる~高嶺製糖工場~沖縄軽便鉄道~ 【沖縄戦】住民の半数が亡くなった村~戦争で大きな被害を受けた与座を歩く~戦前から戦後の与座地区の変遷をさぐる~高嶺製糖工場~沖縄軽便鉄道~ 戦前大きな製糖工場があった糸満与座地区~軽便が走り那覇まで通じた与座は今より那覇に近かった~高嶺製糖工場のその後~米軍が設けたワーラーポイントとは~ ワーラーポイント与座がー沖縄地方沖縄地方ツアー沖縄戦沖縄県沖縄軽便鉄道湧き水糖蜜タンク糸満与座門柱高嶺製糖工場高嶺駅 8 Comments @ゲゲゲのジージー 7か月 ago 街歩きokinawaさん、おはようございます。富盛の大獅子は訪れましたがその近くにあったんですね。参考になりました。軽便鉄道が残っていたら製糖工場も再生されてたかもしれませんね。それにしても戦争は悲惨だなぁ…🙏 @藤村久夫-o2i 7か月 ago おはようございます。街歩きokinawaさん。もし、戦争が無かったら糸満は大きな都市になっていたでしょう。軽便鉄道には1921年、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)がヨーロッパ訪問の途中で沖縄を訪問した際に、与那原線に乗車し那覇まで行かれています。 軽便鉄道は高嶺製糖工場に原料であるサトキビを運び、できた砂糖を那覇へ運び海運で各地に送り出されていたと思います。それだけ産業が発達した都市であり、沖縄の中心都市でも、あったことが伺えます。 何故か、わが故郷、讃岐は和三盆(砂糖のお菓子)で有名で江戸時代には産業が発展しています。現在も砂糖文化が残り和三盆は「うどん」と同じくらい有名で名物となっています。 もし、戦争が無かったら糸満地域は沖縄の産業の中心であり、交通の要で豊かな都市として発展していたでしょう。現在でも、湧き水あり、人気の食堂がたくさんあり、観光名所も多くあります。 戦争で多くの市民が無くなったことは残念です。 @野上妙子-v5l 7か月 ago おはようございます。精糖工場跡、この糸満市には、ひめゆりの塔など、戦跡が多いですね。私も、こちらの散策では、考えさせられました。この平和がいつまでも続きますように。 @ねこまんま-f6u 7か月 ago この道をバスに乗って通学してたのに、こんな門の跡があるなんて知りませんでした。こんど見にいってみます。沖縄の至る所に、ほんとに沢山の製糖工場があったようですね、車で走っているとかなりの頻度で製糖工場跡の石碑などみかけますよね。 @OOGIMIKOTAROU 7か月 ago いつも楽しく見させて貰ってますww糸満、兼城ドンドンガマの坂道両サイド積み石の塀も風情があっていいですよ、今度ぜひさんさくしてくださいww坂登り切った左側の小道をいくと、開けた場所にカフェがあって(今は廃業してるかな?)そこの積み石の塀も素敵でしたよ @ryoyama9598 7か月 ago 鉄道は北部方面、東部(与那原方面)に通っていたことを聞いたことがあります。どちらもサトウキビを運ぶためだったんですかね。たしか米軍は当初、本島ではなく慶良間諸島から上陸して、本島は読谷あたりから上陸してきたと聞いた記憶があります。違っていたらごめんなさい。ご紹介の糸満は最後の摩文仁がある地でもあるので、南部を中心に激戦があったことは容易に想像がつきます。沖縄に来る前までは全く沖縄戦のことは耳にも入ってきませんでした。本土ではそんな扱いだったんでしょうね。今でもロシアの侵攻により戦争が行われています。我々が生活を楽しんでいる裏では多くの方が犠牲になっています。これでいいのか、本当につらいですね。 @markokamoto 7か月 ago こんばんは、水曜日にふさわしい?内容でしっかりと見入ってしまいました。やっぱり南部を語る上で製糖工場の話は避けられませんよね。と言ってもそれほど詳しく知ってた訳じゃないです。初めて訪沖したとき、深く考えずに南部ルートの観光ツアーに参加したんですが、そのときのガイドさんが今日のお話に近いことを仰っていたのを思い出しました。とにかく初めて聞く単語ばっかりでよくわかっていませんでしたけど、一所懸命メモしたんですよ。それを後にじっくり読み返して何とも言えない気分になったことを覚えています。うーん。いろいろ書きたいんですが、うまくまとまりません。ともあれ、大事なメモを思い出させてくれた今日の動画に感謝です。ありがとうございます。 @htstks2400 7か月 ago 街歩きokinawaさん、撮影ご苦労様です。 糸満地区を含む南部一帯は、去った戦争で激戦地だったんですね。 特に与座地区は住民の50%以上も亡くなった地区もあるんですね。 戦争中は、軍について行けば、安心だと言う事で多くの住民が軍隊について行ったと言われていますが、戦後になり、戦時中は住民の住む壕から軍が使用する、という名目で住民を追い出したのです。軍隊は住民を守らない、という事を身を以て知ってしまったんでしょうね。激しい戦闘が行われている所を、年寄りや女子供がどうして逃げて行ったのかを考えると恐ろしい事だと思いますよ。戦争反対。 これからもよろしくゴザイマス。 Write A Commentコメントを投稿するにはログインしてください。
@ゲゲゲのジージー 7か月 ago 街歩きokinawaさん、おはようございます。富盛の大獅子は訪れましたがその近くにあったんですね。参考になりました。軽便鉄道が残っていたら製糖工場も再生されてたかもしれませんね。それにしても戦争は悲惨だなぁ…🙏
@藤村久夫-o2i 7か月 ago おはようございます。街歩きokinawaさん。もし、戦争が無かったら糸満は大きな都市になっていたでしょう。軽便鉄道には1921年、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)がヨーロッパ訪問の途中で沖縄を訪問した際に、与那原線に乗車し那覇まで行かれています。 軽便鉄道は高嶺製糖工場に原料であるサトキビを運び、できた砂糖を那覇へ運び海運で各地に送り出されていたと思います。それだけ産業が発達した都市であり、沖縄の中心都市でも、あったことが伺えます。 何故か、わが故郷、讃岐は和三盆(砂糖のお菓子)で有名で江戸時代には産業が発展しています。現在も砂糖文化が残り和三盆は「うどん」と同じくらい有名で名物となっています。 もし、戦争が無かったら糸満地域は沖縄の産業の中心であり、交通の要で豊かな都市として発展していたでしょう。現在でも、湧き水あり、人気の食堂がたくさんあり、観光名所も多くあります。 戦争で多くの市民が無くなったことは残念です。
@ねこまんま-f6u 7か月 ago この道をバスに乗って通学してたのに、こんな門の跡があるなんて知りませんでした。こんど見にいってみます。沖縄の至る所に、ほんとに沢山の製糖工場があったようですね、車で走っているとかなりの頻度で製糖工場跡の石碑などみかけますよね。
@OOGIMIKOTAROU 7か月 ago いつも楽しく見させて貰ってますww糸満、兼城ドンドンガマの坂道両サイド積み石の塀も風情があっていいですよ、今度ぜひさんさくしてくださいww坂登り切った左側の小道をいくと、開けた場所にカフェがあって(今は廃業してるかな?)そこの積み石の塀も素敵でしたよ
@ryoyama9598 7か月 ago 鉄道は北部方面、東部(与那原方面)に通っていたことを聞いたことがあります。どちらもサトウキビを運ぶためだったんですかね。たしか米軍は当初、本島ではなく慶良間諸島から上陸して、本島は読谷あたりから上陸してきたと聞いた記憶があります。違っていたらごめんなさい。ご紹介の糸満は最後の摩文仁がある地でもあるので、南部を中心に激戦があったことは容易に想像がつきます。沖縄に来る前までは全く沖縄戦のことは耳にも入ってきませんでした。本土ではそんな扱いだったんでしょうね。今でもロシアの侵攻により戦争が行われています。我々が生活を楽しんでいる裏では多くの方が犠牲になっています。これでいいのか、本当につらいですね。
@markokamoto 7か月 ago こんばんは、水曜日にふさわしい?内容でしっかりと見入ってしまいました。やっぱり南部を語る上で製糖工場の話は避けられませんよね。と言ってもそれほど詳しく知ってた訳じゃないです。初めて訪沖したとき、深く考えずに南部ルートの観光ツアーに参加したんですが、そのときのガイドさんが今日のお話に近いことを仰っていたのを思い出しました。とにかく初めて聞く単語ばっかりでよくわかっていませんでしたけど、一所懸命メモしたんですよ。それを後にじっくり読み返して何とも言えない気分になったことを覚えています。うーん。いろいろ書きたいんですが、うまくまとまりません。ともあれ、大事なメモを思い出させてくれた今日の動画に感謝です。ありがとうございます。
@htstks2400 7か月 ago 街歩きokinawaさん、撮影ご苦労様です。 糸満地区を含む南部一帯は、去った戦争で激戦地だったんですね。 特に与座地区は住民の50%以上も亡くなった地区もあるんですね。 戦争中は、軍について行けば、安心だと言う事で多くの住民が軍隊について行ったと言われていますが、戦後になり、戦時中は住民の住む壕から軍が使用する、という名目で住民を追い出したのです。軍隊は住民を守らない、という事を身を以て知ってしまったんでしょうね。激しい戦闘が行われている所を、年寄りや女子供がどうして逃げて行ったのかを考えると恐ろしい事だと思いますよ。戦争反対。 これからもよろしくゴザイマス。
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街歩きokinawaさん、おはようございます。
富盛の大獅子は訪れましたがその近くにあったんですね。
参考になりました。
軽便鉄道が残っていたら製糖工場も再生されてたかもしれませんね。
それにしても戦争は悲惨だなぁ…🙏
おはようございます。街歩きokinawaさん。
もし、戦争が無かったら糸満は大きな都市になっていたでしょう。
軽便鉄道には1921年、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)がヨーロッパ訪問の途中で沖縄を訪問した際に、与那原線に乗車し那覇まで行かれています。
軽便鉄道は高嶺製糖工場に原料であるサトキビを運び、できた砂糖を那覇へ運び海運で各地に送り出されていたと思います。
それだけ産業が発達した都市であり、沖縄の中心都市でも、あったことが伺えます。
何故か、わが故郷、讃岐は和三盆(砂糖のお菓子)で有名で江戸時代には産業が発展しています。
現在も砂糖文化が残り和三盆は「うどん」と同じくらい有名で名物となっています。
もし、戦争が無かったら糸満地域は沖縄の産業の中心であり、交通の要で豊かな都市として発展していたでしょう。
現在でも、湧き水あり、人気の食堂がたくさんあり、観光名所も多くあります。
戦争で多くの市民が無くなったことは残念です。
おはようございます。精糖工場跡、この糸満市には、ひめゆりの塔など、戦跡が多いですね。私も、こちらの散策では、考えさせられました。この平和がいつまでも続きますように。
この道をバスに乗って通学してたのに、こんな門の跡があるなんて知りませんでした。こんど見にいってみます。
沖縄の至る所に、ほんとに沢山の製糖工場があったようですね、車で走っているとかなりの頻度で製糖工場跡の石碑などみかけますよね。
いつも楽しく見させて貰ってますww
糸満、兼城ドンドンガマの坂道両サイド積み石の塀も風情があっていいですよ、今度ぜひさんさくしてくださいww
坂登り切った左側の小道をいくと、開けた場所にカフェがあって(今は廃業してるかな?)そこの積み石の塀も素敵でしたよ
鉄道は北部方面、東部(与那原方面)に通っていたことを聞いたことがあります。どちらもサトウキビを運ぶためだったんですかね。
たしか米軍は当初、本島ではなく慶良間諸島から上陸して、本島は読谷あたりから上陸してきたと聞いた記憶があります。違っていたらごめんなさい。ご紹介の糸満は最後の摩文仁がある地でもあるので、南部を中心に激戦があったことは容易に想像がつきます。沖縄に来る前までは全く沖縄戦のことは耳にも入ってきませんでした。本土ではそんな扱いだったんでしょうね。今でもロシアの侵攻により戦争が行われています。我々が生活を楽しんでいる裏では多くの方が犠牲になっています。これでいいのか、本当につらいですね。
こんばんは、水曜日にふさわしい?内容でしっかりと見入ってしまいました。やっぱり南部を語る上で製糖工場の話は避けられませんよね。と言ってもそれほど詳しく知ってた訳じゃないです。初めて訪沖したとき、深く考えずに南部ルートの観光ツアーに参加したんですが、そのときのガイドさんが今日のお話に近いことを仰っていたのを思い出しました。とにかく初めて聞く単語ばっかりでよくわかっていませんでしたけど、一所懸命メモしたんですよ。それを後にじっくり読み返して何とも言えない気分になったことを覚えています。うーん。いろいろ書きたいんですが、うまくまとまりません。ともあれ、大事なメモを思い出させてくれた今日の動画に感謝です。ありがとうございます。
街歩きokinawaさん、撮影ご苦労様です。 糸満地区を含む南部一帯は、去った戦争で激戦地だったんですね。 特に与座地区は住民の50%以上も亡くなった地区もあるんですね。 戦争中は、軍について行けば、安心だと言う事で多くの住民が軍隊について行ったと言われていますが、戦後になり、戦時中は住民の住む壕から軍が使用する、という名目で住民を追い出したのです。軍隊は住民を守らない、という事を身を以て知ってしまったんでしょうね。激しい戦闘が行われている所を、年寄りや女子供がどうして逃げて行ったのかを考えると恐ろしい事だと思いますよ。戦争反対。
これからもよろしくゴザイマス。