【家康の殺戮の舞台】刑部城跡、堀川城跡、獄門畷(浜松市浜名区細江町2025年2月23日)

【家康の殺戮の舞台】刑部城跡、堀川城跡、獄門畷(浜松市浜名区細江町2025年2月23日)

※戦意発揚→国威発揚と書くべきでした。

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刑部城(おさかべじょう)は今川義元の家臣である新田美作入道の居城です。三方を都田川に囲まれた、姫街道の要衝でしたが、1568年(永禄11年)に近藤康用・菅沼忠久・鈴木重時ら井伊谷三人衆の案内により侵攻した徳川軍に攻められ、落城しました。その後は菅沼氏が城主として入城しています。1572年(元亀3年)12月、武田信玄は「三方原の合戦」に勝利すると、祝田から刑部に軍を移して翌年まで滞在しています。現在城址には土塁や堀切などの遺構が残っており、二の丸跡には金山神社が建立されています。

永禄12年(1569年)2月に掛川城を落とした家康は、同年3月27日、再び本坂峠を越えて堀川城を攻め、堀川城は徳川勢によって一方的に殺戮された。竹田高正は城内で切腹、尾藤主膳は堀江城の大沢へ逃れたが切腹させられ、山村修理は本坂道を葭本まで逃れたが自害、新田友作は和睦を主張したので家臣と共に退去。城兵は約半数が殺害され、半数が捕えられたが、家康は石川半三郎に命じて捕虜を皆殺しとし、約700人を女子供も含めて都田川の堤で全員首を刎ねた。新田はその後、葭本の金地院に戻り、剃髪して法休喜斎(瀬戸方休とは別人)と名乗り、戦死者の菩提を弔っていたが、10年後に徳川方に見つかり、都田川の堤で処刑された。

城兵や新田友作が斬首された都田川の堤には、「獄門畷(なわて)」の名が残っており、三ケ日一里塚近くの一里山の本坂通沿いには、自刃した山村修理の墓が残っている。

この戦いに参加した大久保忠教(彦左衛門)が書いた『三河物語』には、男女ともなで切りにぞしたりけるとの記述が残っている(Wikipediaより)

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