常陸国風土記 谷戸の神 夜刀神社
常陸国 式外社
常陸国風土記 谷戸の神
夜刀(やと)神社
鎮座地:茨城県行方市玉造甲字天竜3451-1
<案内板>
常陸国風土記遺称地
椎井池(しいのいけ)(「夜刀神(やとのかみ)」伝説)
継体天皇(けいたいてんのう)の時代、箭括氏麻多智(やはずのうぢまたち)という人がいた。郡役所の西の谷にある葦原を開墾して新たに田をつくったという。その時「夜刀神」が群れをなしてやってきて邪魔をした。(此の池では蛇を「夜刀神」という。蛇は原住民の具象化とされる。夜刀とは「谷人」であり谷津周辺の湧水近くに居住する人達と考えられる。)
麻多智(またち)は山の登り口に境界を立て神社を建築し「夜刀神」を祀った。その後、孝徳天皇(こうとくてんのう)の時代になって、壬生連麿(みぶのむらじまろ)(初代行方郡の地頭)がその谷を占領して池に堤防を築いたとき、「夜刀神」が再び現れ、椎(しい)・槻(つきのき)に昇っていつまでも立ち去らなかったので、「目に見える一切のものは、すべて打ち殺せ」と云うや否や蛇は逃げ隠れてしまった。
<案内板(抜粋)>
常陸国風土記(ひたちのくにふどき)
夜刀神(やとのかみ)
六世紀の初めの継体(けいたい)天皇の時代に、箭括氏麻多智(やはずのうぢまたち)は葦原を開墾して新たに田をつくりました。その時、夜刀神(身体は蛇で、頭に角がある。)が群れをなしてやってきて邪魔をしました。麻多智は、神の土地と人間の土地の境界を設け、夜刀神を追い払いました。そして、社(やしろ)(現在の愛宕神社)を立てて祀りました。
その後、七世紀半ばの孝徳(こうとく)天皇の時代に、壬生連麿(みぶのむらじまろ)が池に堤を築こうとするとき、夜刀神たちがそのほとりの椎の木にのぼって退去しようとしません。そこで麿が夜刀神たちを退治することを命じると、みな逃げて隠れてしまいました。
その池は周囲に椎の木があり、清い水が湧き出ていることから椎井池の名がついたということです。