令和7年2月11日晴 皇紀2685年 紀元祭 #気多大社 #国指定重要文化財 #天然記念物 #大神宮 #羽咋市歴史民俗資料館 #mavic3cine #千里浜なぎさドライブウェイ #神武天皇
氣多大社では、本日午前8時30分より天長祭が執り行われました
第1代神武天皇は、「日本」という国家を建設し、日本民族の中心となって、その団結を固め、その理想をかかげ、その方向を決定した英雄です
神武天皇は、初めは日向(ひゅうが)宮崎県においでになりましたが、日本国中、いくつにも別れ相争っているのをご覧になり、之を統一して立派な国家としなければならぬとご決心になり、兵をひきいてふなでしました。
宇佐(大分県)、岡田の宮(福岡県)、タケリの宮(広島県)、高島の宮(岡山県)などを経て浪速なにわ(大阪府)へ入り、河内から生駒山を越えて大和やまと(奈良県)へ入ろうとしたときに、頑強な敵の抵抗にあって、天皇の兄である五瀬命(いつせのみこと)は、重傷を負われました。天皇は「われは日の神の子孫でありながら、日に向かって戦ったから、天罰をこうむったものに違いない、神をうやまい、日の神の光を背にして戦うならば、必ず敵を滅ぼすことができるであろう」とお考えになり、方向を変えて大阪湾を南にくだり、紀伊きい(和歌山県)へお入りになりました。重傷の兄五瀬命いつせのみことは、ここでおかくれになったので竃山(かまやま)にほうむられました。天皇は進んで熊野におはいりになりましたが、山けわしくて、行くべき道もなく、困り切っておられたところ、夢のお告げがあって、天照大神(あまてらすおおかみ) より八咫烏(やたがらす) を案内者としてつかわされました。後の大伴氏の先祖である日臣尊(ひのおみのみこと) が兵をひきいて八咫烏の後について進み、宇陀うだ(奈良県)へ入りました。天皇が(宇陀)うだの高倉山のいただきにお登りになって、四方の状況をご覧になると、あちらにも、こちらにも、八十梟帥(やそたける)がいて、天皇に抵抗していました。(やそたける)とは、数多くの勇敢な人のことです。天皇は次第に之を平定して進まれ、最後に長髄彦(ながすねひこ) と対戦せられましたところ、頑強なる抵抗を打ち破ることが出来ず、苦戦に陥りました。その時、一天にわかにかきくもり、氷雨が降ってきた中に、黄金(こがね)色の不思議なトビが飛んできて、天皇の手に持っておられた弓の先端にとまりました。そのトビの光、電光のごとくに強く輝いたので、賊兵の目がくらんで戦うことが出来なくなりました。やがて方々の八十梟帥(やそたける) いわゆる多くの勇敢な人を皆平定して、天皇は、橿原宮(かしわらのみや) でご即位式をあげられました。現在の橿原神宮です。御名は神日本磐余彦天皇(かむやまといはれひこのすめらみこと) 後の神武天皇です。
古事記日本書紀によれば、国家建設に17,8年かかったようです。国家建設ということは、重大な、そして苦難の多い大業です。
神武天皇が国家を建設することがなかったら日本民族はいったいどうなったでしょうか?
国家建設によって、民族がその意志を統一せられ、その団結を固くし、一つの高い目標に向かって、整然と進んでいくということが、いかに大切であるか