【寺社参詣】#93 一畑寺(島根県出雲市/中国26番/臨済宗妙心寺派)~目のお薬師様、「のんのんばあ」のふるさと~ Ichibataji Temple

神社仏閣めぐり「寺社参詣シリーズ」第93回は、島根半島の真ん中、一畑山の山上にある臨済宗妙心寺派寺院、醫王山一畑寺です。

一畑寺の開創伝承では、次のように言われています。
寛平6年(894)、日本海岸の坂村という漁村に与市(よいち)という漁師と、目の見えない母親が住んでいました。お盆の日、与市はとなりの赤浦へ漁に出ましたが、魚が一匹もとれませんでした。そのときミサゴという鳥が、与市を呼び寄せるように輪を描いて飛んでいました。
与市はミサゴに導かれるように船を近づけると、海中に光る物が見え、すくい上げると仏像でした。 与市は漁をやめて仏像を家に持ち帰り、自宅に安置しました。
ある日、一人の旅の僧が与市の家を訪れ、一夜の宿を頼みます。その僧侶は、与市の家の仏像を見て、間違いなく薬師如来であり、直ちにどこか良い霊地を選んで安置するように勧めました。さらに、その薬師如来が与市の夢枕に立ち、百丈が滝から跳び下りたら、母親の目は治ると言われたため、与市は、反対する村人をはねのけて飛び降りたところ、母親の目は見事に開き、与市も無事でした。
そして与市は、旅の僧に言われた通り、薬師如来を安置する場所を探しに出ます。やがて、宍道湖を望む場所にたどり着き、安置しました。

その後与市は比叡山延暦寺へ赴き、出家して名を「補然」と改め、薬師如来を安置したお堂を「医王寺」として開かれました。

与市改め補然が、延暦寺へ赴いたことから、医王寺は天台宗に属していましたが、鎌倉時代末期の正中2(1325)年に、石雲本竺という人物が臨済宗南禅寺派の寺院として再興、寺号を「成徳寺」と改めました。
さらに江戸時代になって承応2(1653)年に一畑寺に改名。寛政2(1790)年に、臨済宗妙心寺派に転じました。

一畑寺は、眼病・諸病に霊験あらたかと、昔から多くの参詣者や信仰者が居り、地方の人にもご利益を分かちたいと、一畑薬師を勧請し、小さな寺院や教会が多くできました。明治中期に、一畑寺十一世・教道和尚がこれら小寺院や教会を組織化して一畑薬師教会とし、第二次大戦後の昭和28(1953)年、新憲法と宗教法人法の元、一畑薬師如来を勧請する寺院や教会、信者の集合団体の支部や講社を包括する、包括宗教法人として、仏教で118番目に一畑薬師教団として認可登録され、一畑寺が総本山となりました。
初代管長・大錦祖綱氏、2代目管長を飯塚幸謙氏が勤め、現在は3代目管長を飯塚大幸氏が勤めています。

境内のあちこちに、漫画ゲゲゲの鬼太郎に登場する目玉おやじのブロンズがありますが、これはゲゲゲの鬼太郎の原作者である故・水木しげるさんが、幼少の頃に、実家に来ていたお手伝いさんである景山ふささんと一緒に、一畑寺を訪れていたためで、ふささんがしげる少年にしていた、お化けや妖怪の話が、その後の水木しげる漫画の世界の元になっています。

一畑寺がある出雲地方では、神仏そのものや、神仏の拝み手のことを「のんのんさん」と呼んでおり、ふささんは、その「のんのんさん」の妻であったことから「のんのんばあ」と呼ばれています。ふささんも、ここ一畑薬師の薬師如来を信仰しており、その功績を称えて、境内には「地蔵菩薩」としてふささんとしげる少年のブロンズ像が置かれています。

境内は、駐車場から山門へ続く「けちえんの道」に続き、山門の奥には「本坊書院」と「法堂」が、さらに石段を登った所に、「鐘楼堂」「観音堂」「薬師本堂」「八万四千仏堂」「下生閣」「十六羅漢堂」などがあります。
このうち、鐘楼堂の鐘楼は、戦国武将・毛利輝元の陣鐘を改鋳したものと伝えられていましたが、第二次大戦の金属回収令で、昭和19(1944)年に軍に供出。岡山県玉島市(現:倉敷市)の製鉄所に運ばれましたが、溶鉱炉へ投入しようとすると、急に停電となったり、吊すチェーンが切れたり、果てには担当者が病気になるなどしたため一向に捗らず、遂には終戦を迎えたため、鋳つぶされることはありませんでしたが、そのまま製鉄所構内に放置されていました。しばらくして製鉄所の当時の作業員の知らせで、再び一畑寺へ戻ってきましたが、鐘の質を調べるために、108ある表面の「瘤」のうち8つが切り取られていました。それでも、音は昔のままだったため、そのままの状態で、現在も鐘楼堂に吊されていて、毎日夕方と諸行事、東日本大震災の慰霊や、大晦日の除夜の鐘などで撞かれています。

一畑寺は、宍道湖の湖北を走る一畑電車や、松江市内や出雲市内を走る一畑バスなどの社名の元となった所で、ここ一畑寺への参詣者輸送を目的に設立されたのが一畑電気鉄道でした。当初は出雲今市駅(現:電鉄出雲市駅)から平田駅(現:雲州平田駅)までの路線で、着工から7箇月ほどで開通。その後一畑寺の最寄りとなる一畑駅まで工事が進められました。
当時は「一畑軽便鉄道」でしたが、大正14(1925)年に「一畑電気鉄道」に改め、それまでの全路線が電化、その後に開通する小境灘~北松江、川跡から大社神門は電化路線として開業しました。昭和57(1982)年の、国鉄山陰本線 伯耆大山~知井宮(現:西出雲駅)間の電化までは、山陰地方唯一の電化路線でした。
第二次大戦時、不要不急路線として、一畑口~一畑は休止(後に廃止)され、一畑寺の最寄り駅は一畑口駅に変更となりました。

「目のお薬師さま」として、今もなお多くの参拝客が訪れる、「のんのんばあ」のふるさと、中国観音霊場第26番札所、醫王山一畑寺の動画をご覧ください。

撮影機材:Panasonic HC-X1500

【使用BGM】
「夏の跨線橋」(ノスタルジア(甘茶の音楽工房別館))
http://nostalgiamusic.info/index.html

【Webサイト】
一畑薬師公式サイト(総本山一畑寺)
https://ichibata.jp/

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