信州 定額山 善光寺 ”無宗派の単立仏教寺院” “一生に一度は参れ善光寺”

善光寺(ぜんこうじ)は、長野県長野市元善町にある。無宗派の単立仏教寺院。住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務め、実際の護持・運営は天台宗と浄土宗が担っている。
本尊は日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)で、絶対秘仏である。近年は七年に一度とされている開帳は前立本尊(まえだちほんぞん)で行い、本堂前には触ると御利益(ごりやく)が得られるとされる回向柱(えこうばしら)が建てられる。
この善光寺如来は由緒ある仏像として権威の象徴とも見なされ、戦国時代には大名がこぞって自領(本拠地)に善光寺如来を遷座させ、各地を転々とした。
昔から多くの人々が日本中から善光寺を目指して参詣し、「一生に一度は参れ善光寺」と言われた。長野市の中心市街地は善光寺門前町を含み、長野市ほか北信に広がる長野盆地は「善光寺平」とも呼ばれる。

概要
山号は「定額山」(じょうがくさん)で、山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営されている。「大勧進」の住職は「貫主」(かんす)と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務めている。「大本願」は、大寺院としては珍しい尼寺である。住職は「善光寺上人」(しょうにん)と呼ばれ、門跡寺院ではないが代々公家出身者から住職を迎えている(浄土宗では大本山善光寺大本願の法主)。現任の善光寺貫主(大勧進貫主)は2022年(令和4年)6月17日に就任した、前大勧進副住職の第104世栢木寛照。善光寺上人(大本願上人)は鷹司家出身の第121世鷹司誓玉である。
古えより、「四門四額」(しもんしがく)と称して、東門を「定額山善光寺」、南門を「南命山無量寿寺」(なんみょうさんむりょうじゅじ)、北門を「北空山雲上寺」(ほくくうさんうんじょうじ)、西門を「不捨山浄土寺」(ふしゃさんじょうどじ)と称する。

特徴として、日本の仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている。また女人禁制があった旧来の仏教の中では稀な女性の救済[注 1]が挙げられる。そのため、江戸時代には女性の参詣者が非常に多いという特異な現象があった(昔、女性の旅行者はまれだった)。また、善光寺参詣で得られるのは現世利益ではなく、死後の極楽往生だった。身分も男女も善悪も問わず、どんな人でも必ず極楽往生できるという善光寺の特色が、全国から人々をひきつけたと言える。

本尊の一光三尊阿弥陀如来像は丈一尺五寸で、三国渡来の絶対秘仏の霊像とされ、本堂「瑠璃壇」厨子内に安置されている[8]。その姿は寺の住職ですら目にすることはできないとされ、「お朝事」と呼ばれる朝の勤行や正午に行なわれる法要などの限られた時間に金色に彩られた瑠璃壇の戸張が十数秒ほど上がり、瑠璃壇と厨子までを拝することが通例とされる。

数えで7年に1度の御開帳には、金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)が絶対秘仏の本尊の分身として公開される。また、日本百観音(西国三十三所、坂東三十三観音、秩父三十四観音)の番外札所となっており、秩父三十四観音の三十四番水潜寺で百観音結願となった後には「結願御礼として長野の善光寺を詣でる」といわれている。

本堂
善光寺本堂は、近世の建築としては東大寺大仏殿につぐ大建築で、屋根の広さは日本一である。建営費は約2万5000両で、そのすべては回国出開帳でまかなった。[23]1953年、国宝に指定された。

現在の本堂は宝永4年(1707年)竣工。設計は甲良宗賀(幕府大棟梁甲良氏3代)が担当した。本尊の阿弥陀三尊像(一光三尊阿弥陀如来像)を安置する。2階建のように見えるが、建築形式的には一重裳階付(いちじゅうもこしつき)である。屋根は檜皮葺で、屋根形式は撞木造(しゅもくづくり)という特異なものである。これは入母屋造の屋根を丁字形に組み合わせたもので、堂の手前の部分は南北棟、奥の部分は東西棟になり、上方から見ると大棟の線が丁字状になっている。平面構成は正面5間、側面14間の身舎(もや)の周囲に幅1間の裳階を巡らした形になり、裳階部分を含めた平面規模は正面7間、側面16間となる(以上の説明文中の「間」は長さの単位ではなく柱間の数を表す)。間口24メートル、奥行54メートル、棟高26メートルで、一般的な日本の仏殿と比べて間口に比して奥行が長い。

建物南正面の奥行1間分は壁や扉を設けない「吹き抜けの間」とし、その先の奥行4間分が外陣、その次の奥行5間分が内陣、外陣と内陣の間が中陣、建物のもっとも奥が内々陣となる。内々陣は西(向かって左)に秘仏本尊の阿弥陀三尊像を安置する瑠璃壇があり、その前に常燈明(不滅の法燈)がある。

本尊は高さ160センチメートル、方91センチメートルの瑠璃壇の中にあり、これは諏訪の初代立川和四郎が1789年に造ったもので、四方に扉がついており、孔雀や竜などの透かし彫りがある。この瑠璃壇の中にさらに高さ93センチメートル、正面84センチメートル、厚さ67センチメートルの厨子があり、本尊はその中に赤地の金襴に包まれて安置されている。さらに厨子の前には二重の戸張がかけられている。

中陣と内陣の間の欄間には来迎の二十五菩薩の像があり(後述#残された台座の謎も参照)、中陣の右には地蔵菩薩が、左には弥勒菩薩が中陣を見下ろすように座っている。東(向かって右)は開山像を安置する「御三卿の間」である。「御三卿の間」には開山の本田善光と妻の弥生御前、子の善佐の像を厨子に安置する。この厨子は国宝の附(つけたり)指定となっており、寄棟造、本瓦形板葺きとする。

御戒壇
善光の間の東から階段を降り、真っ暗な板廊下を右回りに回って、瑠璃壇・本尊の真下をひと周りして、入り口の北に出る。これをお戒壇巡りという。途中に板戸があり、そこに鍵前がついており、その鍵前を握ると極楽往生できるという言い伝えがある。一方、心がけのよくないものは錠前をつかめずに犬になってしまうという言い伝えもある。

外陣
まず目につくのは大きな台で、これは妻戸台といって上に太鼓などが置いてある。その東側に松の枝が花瓶に差してあるが、これは親鸞上人が善光寺に参詣した際、松の枝を捧げたのにちなんだものである。

この他、閻魔王像、お賓頭盧さん(おびんずるさん)などを安置する。このびんずる像の体をなで、その手で自分の患部をなでると悪い部分を治すご利益があるとされる。1月6日の夜にはこの像をかついで堂内をまわる、「おびんずるまわし」という行事がある。

コロナ禍の2020年の一時期、感染を防ぐため、善光寺はびんずる尊者像に「触れないで」という張り紙を貼り、お戒壇巡りもできなくなった。

山門(三門)
その他
かつては南大門、五重塔、中門・回廊、本堂と一直線に並んだ配置であった(『一遍聖絵』)。また、長野県立歴史館は、現在より南側に善光寺があったと展示・解説する。

善光寺山門の「鳩字の額」
山門(重要文化財)
寛延3年(1750年)に完成した。正面に「善光寺」という額が掲げてあるが、公澄法親王の作である。鳩が5羽描かれていることから「鳩字の額」としても親しまれている。「善」の字が牛に見えるともいう。2階の内部には山門本尊の文殊菩薩騎獅像、その四方を守護する四天王像、色鮮やかに修復された仏間の障壁画、四国八十八ヶ所霊場御分身仏などが安置されている。

2007年(平成19年)に修復工事がなされ、大正から昭和にかけての修理で檜皮葺きになっていた屋根が、創建当初の栩葺きに改められた。栩葺き(とちぶき)とはサワラの板材で屋根を葺く方式である。また、江戸時代から昭和に至るまでの参拝者による落書きが多数残されている。落書きのうち、江戸時代のものは2階に昇った正面にある「江戸 と組よね」や3階(仏間)の北西側の壁面にある嘉永年号のものなどである。昔は限られた期間しか2階に上がることができなかったが、現在では常時拝観できる。

経蔵
経蔵(重要文化財)
1759年に完成。五間四方宝形造りのお堂。内部中央には仏教経典を網羅した鉄眼黄檗版『一切経』全6771巻が納められており、高さ約6メートル重さ約5トン奥行約4メートルの巨大な輪蔵を時計回りに一周押し回すと、すべての経典を読んだのと同じ功徳を得られるという。
経蔵入り口にはこの輪蔵を考案した傅大士の像があり、経蔵内には伝教・慈覚の両大師像が安置されている。また経蔵の前には輪廻塔があり、この石の輪を回すことで功徳を積み、極楽往生できるといわれる。

日本忠霊殿
1906年建設、1970年に現在の三重塔構造に建て替えられた。戊辰戦争から第二次世界大戦に至るまでの戦没者を祀る慰霊塔である。
また1階には#善光寺資料館があり、善光寺所蔵の什物を展示している。

鐘楼
1752年に建立されたが、善光寺大地震により2度焼失。1918年に再建された。善光寺の山号である「定額山」の額が掲げられているが、これは伏見宮貞愛親王の染筆である[75]。仁王像および仁王像背後の三宝荒神・三面大黒天は共に近代彫刻家として著名な高村光雲・米原雲海による作である。仁王像は一般的な配置と逆になっており、右に吽形、左に阿形となっている。

鐘楼(登録有形文化財)
1853年再建。南無阿弥陀仏の六字にちなみ、六本の柱で建てられている。梵鐘は建物よりも古く、1632年、高橋白蓮により発願鋳造されたが、1642年の火災により焼失、1667年に再造立された名鐘であり、重要美術品に指定されている。

雲上殿 納骨堂
善光寺平を一望できる大峰山の中腹にある。1945年には空襲の被害を避けるため、本尊の厨子をここに移動した。

大勧進
天台宗の本坊で、大勧進の住職は貫主と呼ばれ、大本願の上人と共に善光寺住職を兼ねている。この中にはさらに、放生池、大門、紫雲閣、萬善堂、位牌堂、護摩堂、#善光寺大勧進宝物館などがある。

大本願・本誓殿
浄土宗の本坊(尼寺)で、上人は大勧進の貫主と共に善光寺の住職となっている。大本願上人は、毎朝善光寺本堂で行われるお朝事などの法要の導師を勤めている。大本願境内には本誓殿、宝物殿、位牌堂、光明閣、奥書院、表書院、明照殿、寿光殿、文殊堂などがある(#善光寺大本願宝物館も参照)。

ぬれ仏(延命地蔵尊)
1722年、善光寺聖・法誉円信が全国から喜捨を集めて造立した延命地蔵尊で、明暦の大火を出したといわれる八百屋お七の霊を慰めたものという伝承が伝えられているため、俗に「八百屋お七のぬれ仏」とも呼ばれている。

六地蔵
1759年に浅草天王町祐昌が願主となって造立されたが、1944年に戦時中の金属供出に出されてしまう。現在の六地蔵は1954年に再興されたものである。

大香炉
戦時中に金属供出に出されたが、1956年に富山県高岡市で作られ奉納された。本堂に入る前に線香を供え、煙を体にかければ無病息災、病気平癒の功徳が得られるという。御開帳ではこの前に回向柱が建てられる。

仏足石
1838年に大勧進光純が建立したもので、仏の足跡を彫った石碑。いつの頃からか健足を願う場となっており、長野マラソンの前後には、多くのランナーが完走を願って手を合わせていく。

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