オホーツクの絶景を行く湧網線。廃線となった国鉄路線の乗車記録

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Note
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今回は、サロマ湖沿いを走った湧網線を紹介いたします。
美しい車窓で知られていましたが、1987年3月に廃止されました。
その湧網線には、1984年8月11日と、1986年8月20日に乗車しました。名寄本線湧別支線も合わせてご紹介いたします、
まず、名寄本線湧別支線からはじめます。
名寄本線の湧別駅からヒゲのようにチョコンと伸びた枝線。これが湧別支線です。
運転本数は僅かに2往復。朝と夕方だけの運用でした。
かつては北見から伸びた湧別線という路線でしたが、名寄本線と石北本線に分割され、枝線になってしまいました。
1986年8月20日、湧網線の浜床丹仮乗降場から湧別駅行きに乗車しました。
最初は座れたのですが、途中から通学の高校生が乗車してきて、いつもの指定席に私が座っていたので罵声を浴びせてきました。
とても居づらくなり、早くおりたくなりました。
列車は、中湧別駅からスイッチバックして湧別駅に直通します。4.9㎞走って終点の湧別駅に。今度は折り返しの網走駅行きとなります。
湧別駅には鉄道ファンも散見され、思い思いに写真を撮ったりしていました。今度は鉄道ファンだけを乗せていたので、やっと安心しました。
この区間、特に印象はありませんでしたが、運転本数が僅かに2往復。乗るのが大変でした。
さて、次にご紹介する湧網線ですが、美しい車窓だけではなく、面白いダイヤが組まれていた事でも有名でした。宮脇俊三氏の時刻表2万キロには以下の記述がありました。
網走発20時36分の石北本線経由札幌行き夜行急行「だいせつ5号」に乗り遅れたとする。最終列車であり、しかも急行であるから、これに乗り遅れたのでは網走で一夜を明かすより仕方ないかに見える。
ところが湧網線に20時55分発遠軽行きという鈍行があり、遠軽着は23時50分で、23時56分着の急行「だいせつ5号」より6分早く着く。
「幹線の急行」対「ローカル線の鈍行」の常識を破る痛快な事例である。
少し脱線しました。さて、湧網線については、1984年8月11日の手記からご紹介したいと思います。
4時30分。中湧別駅の駅前で目覚めました。遠軽駅を4時23分に出た名寄本線の一番列車から乗り換えた鉄道ファンで、湧網線の車内は賑わっていました。
車内では、廃止保留を訴える為の乗客実数調査をしていました。
アンケートに応じると、若いお兄さんの調査員はサロマ湖のパンフレットをくれました。
5時3分。キハ22は多くの鉄道ファンを乗せて中湧別駅を出発しました。
芭露駅を出ると突然目の前にパーッとサロマ湖が広がりました。
サロマ湖。日本で三番目に大きい湖。湖といっても、オホーツク海と繋がった汽水湖なので、海ともいえます。
水平線も見えます。
波ひとつない水面に朝日が反射してキラキラしています。
列車は水面ギリギリの所を走ります。
眠気が一気に吹き飛びました。
計呂地駅。8時2分着。
この計呂地駅は、廃駅を湧別町計呂地交通公園として整備し、客車に宿泊する事もできます。
こうして廃線40年もたって、ちゃんと遺構を残してくれているのは感謝でしかありません。
列車は一旦サロマ湖から離れ、内陸を走って再び、サロマ湖に近づきます。佐呂間駅で。5分停車。
浜佐呂間駅で、サロマ湖の東端に達します。1986年に乗車した際は、この駅から若い男女の観光客が乗り込んできました。
同じグループではないですが、仲良く会話していたところをみると、サロマ湖畔ユースホステルに泊まった宿泊者達だったのでしょう。
宿の仲間の見送り光景もありました。列車に乗車した旅人達は、知床に向かうようで、次に乗る予定の観光船についての話をしていました。
1984年も1986年当時も、ユースホステルが少し怖かったので、羨ましさ半分で眺めていました。
今思うと、湧網線に乗って、このような楽しい宿に泊まったら、色々な思い出が出来たのかと思うと少し残念です。
私がサロマ湖の旅人宿に泊まった時、すでに湧網線は廃止された後でした。
営呂駅では18分止まります。上り列車とすれちがいます。
これもキハ22の単行です。どこも同じような車両ばかりです。
1986年に乗車したときは、観光客で満席で、隣のボックスの若い2人連れの女性が
廃止になるなんてもったいないね
と言っていたのを覚えています。
また、ホームから列車を撮影していると見知らぬ女性にも同じ事を言われました。
車窓も素晴らしいし、観光客で混雑していたし、この姿だけを見ると廃止はもったいないと感じました。
営呂駅を出ると、再びオホーツク海と出会います。
今回乗車したのは夏でしたが、流氷の時期はもっと素晴らしい車窓が堪能できたのかもしれません。
今度はサロマ湖を少し小さくしたような能取湖が見えてきました。
右側に網走湖が現れると終点は近いです。
7時42分。終点の網走に到着しました。

今回の私の乗車記録はここまでですが、宮脇俊三氏が辿った冬の湧網線の紀行文をご紹介します。
先生の本には、なんどか登場しますが、新潮社の「終着駅は始発駅」の「流氷列車」の一部を引用します。
やがて1両のディーゼルカーは上り勾配にかかり、純白の能取湖が右後方に遠ざかると、突然海蝕崖の上に出る。息をのむ。眼に入るのは流氷の大平原だけで、他には何もない。
焦点も何もなく、ただ渺々と広がるばかりである。これは景色と呼ぶにふさわしくない。しいて言えば「超景色」である。
ところ駅到着直前の光景だと思われます。
また、サロマ湖については凍てついた白無垢の姿を広げるばかりで何もないと記載されていました。
今、思うと、はやり厳冬期に乗るべきだったと思いました。

鉄道ファンに大人気だった湧網線は、惜しまれつつ、1987年3月に廃止されました。
冒頭に出てきた名寄本線の枝線も、名寄本線の廃止に合わせて1989年4月に廃止されました。
オホーツク海を見れる路線は、釧網本線だけになってしまいました。
もっとご紹介したかったのですが、写真もあまりありませんでした。ご期待に副えず申し訳ありません。御視聴ありがとうございました。

フリーBGM

 花鳥風月
 https://music.kachofugetsu.com
 夕涼み
 Green Tea

「日本の車窓・雨男の紀行文」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~kurume

2 Comments

  1. ユースホステルなんて今の子は知らないだろうなあ。自分も泊まったことないけど。

  2. 「姫路ユースホステル」に泊まり、夕飯後にオリエンテーションがあって、疲れて面倒くさいので参加し無かった!
    シーツ代200円徴収された。
    ユースホステルは後にも先にもこの1回だけ…

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