「未来」圓鍔勝三(えんつば かつぞう) 広島県出身の彫刻家。文化功労者、文化勲章受章、広島県名誉県民、尾道市名誉市民。 広島県呉市幸町4-9  #広島 #呉市 #美術館通り #圓鍔勝三 #美術館

円鍔勝三氏は広島県出身の彫刻家で文化勲章の受章者です。広島にも広島駅北口の「朝」や「再会」など沢山作品がありますし尾道市の御調町には「円鍔勝三彫刻美術館」があります。

「未来」圓鍔勝三(えんつば かつぞう) 広島県出身の彫刻家。文化功労者、文化勲章受章、広島県名誉県民、尾道市名誉市民。 広島県呉市幸町4-9  #広島 #呉市 #美術館通り #圓鍔勝三 #美術館    20241227 @akibingo

圓鍔勝三
生誕 圓鍔勝二
1905年11月30日
広島県御調郡河内村
(現・尾道市御調町)
死没 2003年10月31日(97歳没)
国籍 日本の旗 日本
出身校 日本美術学校彫刻科
著名な実績 彫刻
影響を受けた
芸術家 澤田政廣

育児院と牛乳の記念碑(1975年)
大分県大分市遊歩公園
圓鍔 勝三(えんつば かつぞう、1905年11月30日 – 2003年10月31日)は、広島県出身の彫刻家。文化功労者、文化勲章受章、広島県名誉県民、尾道市名誉市民。本名は勝二。

来歴
広島県御調郡河内村(現・尾道市御調町)出身。1905年(明治38年)11月30日、広島県御調郡河内町(現御調町)に生まれる。1921年(大正10年)河内尋常高等小学校高等科を卒業し、彫刻家を志して京都へ赴き、石割秀光の内弟子となって木彫を学ぶ。1926年、京都市立商工専修学校彫刻科・デッサン科に入学[1]。また同年、関西美術院に入り、木彫から近代的造形を学ぶ。1928年(昭和3年)に上京し、日本美術学校彫刻科へ入学。同校在学中の1930年、第11回帝展に「星陽」を出品して初入選。翌年の第12回帝展に「みのり」を出品して再び入選する。1932年、母が娘に紅を差す何気ない日常の一瞬を描写した「初夏」を第3回文展に出品、特選を受賞。

日本美術学校を卒業後、彫刻家の澤田政廣に師事[1]。1939年、第3回新文展に木彫「初夏」を出品して特選を受賞。1941年、澤田政廣や三木宗策の主導する正統木彫家協会に会員として参加する。1943年、北海道の炭鉱推進隊員として中村直人、古賀忠雄、木下繁らと激励彫刻を制作し、これ以降1945年まで九州・常盤の各炭鉱をまわって制作を行う。

戦後、1946年秋の第2回日展で木彫「砂浜」によって特選を受賞。1947年、多摩美術学校(現多摩美術大学)助教授となる。同年、第3回日展に木彫「しろうさぎ」を招待出品し、特選受賞[1]。1950年、多摩美術短期大学教授に就任する。同年、第6回日展に木彫「土器を持つ女」を出品して特選受賞。1951年に設立された日本陶彫会に参加し、1975年まで出品を続ける。1952年、日本彫塑会会員となる。1953年、多摩美術大学教授となる。1957年、木彫「幻想」を出品して川合玉堂賞を受賞。

1960年、名前を勝三に改名。1962年、日展評議員に就任。1965年、第8回日展に出品した「旅情」が文部大臣賞、日本芸術院賞(1966年)。1968年、日本美術家連盟委員[2]、日本彫塑家協会委員長に就任。1969年日展理事、翌年日本芸術院会員。1971年、日展常務理事に就任。同年、紺綬褒章受章。1976年、勲三等瑞宝章受章。

1980年、日本彫刻会理事長に就任。同年、神奈川県文化賞受賞。1981年、日展顧問に就任。同年、御調町名誉町民第1号に登録される。1982年、文化功労者。1988年、文化勲章を受章。1989年、広島県名誉県民に登録される。同年、自伝「わが人生」を出版。

1991年、川崎市名誉市民に登録される。1993年、伊勢神宮に「神馬」を奉納。同年、圓鍔勝三彫刻美術館、圓鍔記念公園が開館。1997年自伝「続・わが人生」を出版。

2003年10月31日、鬱血性心不全のため死去。

創作初期には木彫を中心に制作したが、戦後はブロンズや陶磁、樹脂などの素材を用い、それらを混合した表現も行った。戦後、抽象表現を取り入れる作家が多い中で、創作初期から写実を基に簡略化した人体像をモティーフとし、具象彫刻による新たな造形を模索した。「幻想」「星羅」「夢 夢 夢」などロマンティックな主題を表象する作風を示したとされる。晩年まで作家活動を行い、生涯創作意欲が枯れることはなかった。

略歴
1928年(昭和3年) 日本美術学校入学
1932年(昭和7年) 同校卒業
1950年(昭和25年) 多摩美術短期大学教授
1953年(昭和28年) 多摩美術大学教授
1962年(昭和37年) 日展評議員
1971年(昭和46年) 日展常務理事
1980年(昭和55年) 日本彫刻会理事長
1981年(昭和56年) 日展顧問
受賞・栄典

川崎市文化賞を受賞した『少女』
1965年(昭和40年) 日展文部大臣賞
1966年(昭和41年) 日本芸術院賞
1971年(昭和46年) 紺綬褒章
1973年(昭和48年) 川崎市文化賞「少女」
1976年(昭和51年) 勲三等瑞宝章
1980年(昭和55年) 神奈川文化賞
1982年(昭和57年) 文化功労者
1988年(昭和63年) 文化勲章
1989年(平成元年) 広島県名誉県民
1991年(平成3年) 川崎市名誉市民

美術館通り
「美術館通り」は「呉市立美術館」の開館にあわせ、美術館や入船山記念館へのアプローチとして、呉市道幸町3号線を1981年(昭和56年)に整備したものである。 「美術館通り」の名称は、1987年(昭和62年)公募で決定された。 同年7月には建設省(現・国土交通省)の手づくり郷土賞・(ふれあいの並木道三十選)を受賞、同年8月10日の道の日には、建設省・「道の日」実行委員会により「日本の道100選」に選ばれている。

歩道に様々なモニュメントが置かれています。 芸術の町でもある

美術館通り(旧海軍病院坂)  美術館へ至る広い歩道は松並木の中に多くの彫刻が点在し、文化的な雰囲気が漂っています。日本の「道100選」 呉市幸町1番地の1  #広島 #呉市 #美術館 #彫刻 #歴史
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市道
呉市道幸町3号線
美術館通り
総延長 216.5m
西端 呉市幸町1番地の1
東端 呉市青山町10番地の1
接続する
主な道路
(記法) 国道487号
■テンプレート(■ノート ■使い方) ■PJ道路

起点側

終点側
美術館通り(びじゅつかんどおり)は、広島県呉市にある約200mの通り。起点側である呉市中心部側(国道487号)から終点側である国立病院機構呉医療センターへの一方通行。

概要
1981年(昭和56年)整備、名称は1987年(昭和62年)公募で決定。法令上の路線名は、呉市道幸町3号線である。 呉市幸町入船山公園内の呉市立美術館の南側を通るゆるやかな坂道で、美術館開館にあたり整備され美術館外観と合わせた歩道敷や屋外美術が点在する並木道である。

太平洋戦争以前は、呉市市街地と海軍工廠、海軍病院などの旧日本海軍の施設を結ぶ道路であったが、呉市は、1980年(昭和55年)から入船山公園周辺の文化ゾーンの付加価値を高めるため、美術館の建設と美術館前の通りの改築整備に取り組み、芸術性のある散策路に生まれ変わった。このとき、歩道にレンガ調のタイルやブロックを敷き詰め、タウンスクエアから美術館、入船山記念館にかけての約200m区間に、15体の彫刻が並べられた。この通りの愛称を募集したところ、1982年(昭和62年)4月に「美術館通り」に決まった。

軍港として栄えた呉市の歴史的建造物と芸術の香り漂う景観の調和が高く評価され、1987年(昭和62年)8月10日の道の日に、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された、「日本の道100選」に選ばれており、同年建設省(現・国土交通省)手づくり郷土賞(ふれあいの並木道)を受賞している。

呉市中心部からみて東側の休山峰に存在し、周囲は呉鎮守府・呉海軍工廠ゆかりの遺構が存在し海上自衛隊呉基地関連施設がある。

路線データ
路線名 : 呉市道幸町3号線
起点 : 呉市幸町1番地地先
終点 : 呉市青山町10番地地先
延長 : 210m (幸町3号線216.5mの一部 )
幅員 : 18.5m (最大27.5m、最小16m)
歴史
呉は近世までは散村で、1890年(明治23年)呉鎮開府以降に発展した都市である。元々この地は古代から亀山神社が鎮座していたが、呉鎮開府時に接収され司令長官官舎およびその関連施設群(現入船山記念館)が整備された。

この道は中世から近世にかけてここに存在していたかは不明で、近代以降は海軍敷地内にあった道で呉市中心部から呉鎮・呉工廠や呉海軍病院(現国立病院機構呉医療センター)を結ぶ道であった[5]。ただし、戦前の都市計画図などの民間の地図ではこれらの施設は記載されていないため、現存する地図ではこの道の存在を確認することができない。呉軍港空襲での被害状況は不明。

1924年呉市作成の都市計画区域図。右側に広島湾要塞司令部と呉鎮守府の検閲済みと記載されている。

1945年第一復員省作成の戦災概況図
戦前の呉市地図。海沿いの呉鎮および呉工廠の道路は記載されていない。
終戦後、旧海軍施設はイギリス連邦占領軍が接収し、のち大蔵省(現財務省)に移管、つまり国有地であった。1966年(昭和41年)この道を含め公園敷地は呉市に無償貸与され、市はこの地を史跡として指定して古名をとって「入船山公園」と名付け、以降呉市が管理していた。さらに、国から譲与を受けた旧指令長官官舎については国から重要文化財として指定を受け、史料館、文書館を増設しながら郷土史料を収集保存・展示し、この翌年である1967年(昭和42年)に入船山記念館として開館している。そして呉市制施行80周年記念事業の一環として呉市立美術館整備が決定され、その前の通りとして同様に1981年(昭和56年)再整備された。2010年(平成22年)旧軍港市転換法に基づき、この道を含めた公園一体は呉市に無償贈与された。

「自然と美術の調和 美しき道のあるお宝!の巻」(美術館通りと呉市立美術館) – 中国放送
呉市立美術館前を彩る通りであり、歩道は美術館外観と同色のレンガタイルやレンガブロックが敷き詰められている。また屋外芸術が点在し「芸術の散歩道」の景観を呈する。以下、沿道の美術作品を列挙する。

工藤健
トリオソナタ バイオリン
トリオソナタ フルート
トリオソナタ ハープ
菊竹清文 SKY-SCAPE
芥川永作 「帰る人」の像
圓鍔元規  春うらら
黒川晃彦 切り株に座って
関孝行 うでをくむ男
山本正道 思い出
飯田義国 天の小さな柱(鴎よ!)

柳原義達 しゃがむ女
茂木弘行 ゆめ
上田直次 愛に生きる
水船六洲 斧
空充秋 くれの木
籔内佐斗司 走る童子とカエル
高橋秀幸 美の王国の入り口で・・
日新製鋼 自然に還る

沿道の松並木は戦前から植えられたもので、樹齢は400年を超える。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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