206)玉城【49歳独身の黙々とひとり旅岐阜編】関ヶ原の戦いで西軍勝利の切り札として豊臣秀頼を迎え入れる予定だった城(岐阜県関ケ原町)Tama castle
10月3連休最終日に訪問。
元々知らなかった城だが、少し前のNHKの番組で、最新の調査で、石田三成などが豊臣秀頼を西軍側に迎え入れる予定で整備した城として紹介されていた。
歴史は勝者の歴史であると同時に、後世の人が自分に都合のいいように改ざんするのは当然のことで、子どもの頃から歴史には違和感を持つことがあった。代表的な例で言えば桶狭間の戦いだ。兵力差が10倍あったとよく言われるが、信長は尾張を統一しており、今川義元は駿河、遠江、三河を支配していた。各国の経済力に差があるのは当然だが、単純に比較して三分の一はあったはず。しかも桶狭間の戦いの前にも今川勢は何度も織田側に攻め入っているが、織田側が押し返している。
最近の調査では、尾張は当時、栄えており駿河、遠江、三河の3つの国の合計の三分の一を軽く上回る経済力があったことが証明されている。と考えるなら兵力差10倍というのは、桶狭間の戦いのスゴさを伝えるために相当話しを盛ってあるということになる。
関ヶ原の戦いも、1日で家康の東軍側の完全勝利で終わったが、石田三成の西軍側も当然、寝返りがあるとかは想定していたはず。まともに戦って勝てない相手なら一旦は家康の軍門に下ってチャンスを伺う手もあったはず。何かしらの勝算があったはずでは、と思っていたところの番組だったので、不覚にも最後まで見てしまいました。
ということで関ケ原町に。まずは城跡の北側にあるエコミュージアム関ケ原に到着。ここは入館は無料の施設だが、玉城の情報は全く無し。ここからだと少し距離があるので、もう少し車を走らせると整地碑の前に車が一台分駐車できるスペースがあったので、そこに駐車。そこからため池を右手に見ながら歩いていくと右折する道が見えてくる。それが最初の映像です。そこを右折するとやっと右手に城山遊歩道・城山山頂はこっちの看板が見えてくる。
ここまで玉城への情報の看板等は一切無い。主郭に入っても案内板等は一切無い。3連休の晴れの日にもかかわらず、全く誰とも遭遇せず。いま話題の城というつもりで来た自分にとっては拍子抜けというのが正直な感想だ。
あまりにも看板等が無いので、本当にこの道であっているのか不安になったが、付近には誰もいない状況。城山遊歩道・城山山頂はこっちの看板はあったが、玉城の表記は全く無し。
城山と言ったら玉城しかないだろ、ということで少し不安に思いながらそのまま登っていったが、もう少し整備を期待したいところだ。ちなみに遊歩道はちゃんと整備されていますので、そのへんはご安心を。
城跡は、曲輪の大きさは実感できるが、はっきりした遺構は西側の奥にある堀切のみ。そのため主郭の滞在時間は30〜40分程。城山遊歩道入口からだと1時間10分程。片道は登りで20分程といったところだ。
眺めは主郭に入ったところは少し北側に開けているが、それ以外は木が伐採されていないので、眺めも良くない。場所は西軍の西側の端から更に一歩さがった所にある感じだ。
豊臣秀頼を戦いに参加させるには少し離れ過ぎているので、そういう意図ではなく、西軍側に秀頼がいることを見せつける意図ということは理解できる場所にある。もし秀頼がここに来ていれば、東軍も西軍も表向きは豊臣家のために戦っていることになっていたし、家康の東軍側には多くの豊臣恩顧の大名がいた訳だから、リアルに歴史がかわっていた可能性は大きい。にもかかわらず少し寂しい城跡だったが、西軍の切り札として整備されながら、実際には使われることは無かった訳だから、そういう意味では哀愁が漂う城跡と表現すべきか。
ちなみに城山遊歩道入口を少し通り過ぎると車を駐車できるスペースがあったので、ここを利用してもいいだろう。
【投稿のいきさつ】
49歳独身の自分がただ黙々と一人旅をした映像です。大学を5年間でなんとか卒業後、24歳より西日本で有名なブラック企業に入社。1年のうち平均358日が仕事で、早朝から深夜まで数字に追われる日々を20年近く続ける(休日はお盆2日、年末年始5日ぐらいのみ。勤務時間は普通の時で朝7時〜夜11時、ひどい時は書きたくないほどひどい)。そんな会社もそこそこ営業結果を残せれた為、小さい営業所の所長をやったりと、ズルズルと在籍。そんな会社も数年前から労基の指導や働き方改革で週に1日は休めるようになる(最近は2連休もある)。当初は20年近く、毎日一息もつけない働き詰めの生活の反動から休日は全く何もしたくない、と思い本当に何もしない生活を続ける。ただ、この20年間、働き詰めで仕事だけのこのままの生活ではいけない、少しだが時間もお金もある、と思い、自分は何がしたいのかを考えたところ、自分は城跡を見るのが好きだったことを思い出し城跡を巡るようになる。2020年3月にスマホにかえたのを機会に投稿を始める。それ以前に訪問した犬山城、岐阜城、広島城、岩村城などの記録を残さなかったことに後悔しつつ投稿を続けています。
#関ヶ原の戦い
#豊臣秀頼
1 Comment
石田三成は、準備に準備した関ケ原大勝利の決戦を最初から頭に描いていて、結局そこに固執したあまり他の作戦にも思いが及ばず、無理な行軍を西軍に課したのでしょう。
救援が間に合わなかった岐阜城陥落が潮目になりましたね。武将間の信頼関係が崩壊しました。