本当に小田原城は「戦国最強の城?」豊臣20万の包囲に耐えた総構の跡を訪ねる

現地案内看板等では「総構」となっています。この動画では日本城郭検定参考書日本の城を参考に「惣構」と表記しています。示す内容はどちらも同じと考えています。首都圏から近く、人気のある小田原城。再建された天守をはじめ、数々の門や櫓は白で統一されとても美しい。現在城の跡は相模の自然を感じられる公園となっており、多くの観光客が訪れます。ところでこの美しい小田原城。戦国時代は日本でいちばん大きく最強の城であったことはご存じですか?小田原城は戦国大名北条氏の本拠地。北条氏は関東のほとんどを支配下に置く東国一の勢力を誇り、約100年にわたってこの地を治めていました。ところが豊臣秀吉の天下統一の最後の戦いとなった「小田原征伐」(1590年)で、城は包囲され北条氏は降伏することになります。この戦いでの小田原城籠城戦は約3カ月という長期間にわたって行われ、その間豊臣軍は城の中に一歩も入ることはできませんでした。豊臣軍の兵力はおよそ20万。対し小田原城内の北条軍の兵力は多く見積もっても5万程度。大きな兵力差がありながら小田原城が力攻めで落城しなかった理由は一体何だったのでしょうか。実は、その理由を示す痕跡が、小田原城の周りにいくつも残っているらしいのです。小田原城の周りに点在する「惣構」の跡を巡り、本当に「最強の城」だったのか考えてみます。

4 Comments

  1. UPお疲れ様です。
    小田原の国道一号線(旧東海道)を東京方面から下ってくると「新宿」という交差点で旧東海道は左折し、次の角を右折して続いていきます。「新宿」交差点を直進する現国道一号線は、江戸時代は城への「大手筋」であり、宿や民家の多かった東海道とは違い、家臣たちの屋敷が多かったそうです。そのまま進んでいくと「小田原市民会館前」というT字交差点に突き当り、一号線は左折する形になっています。このあたりは三の丸の城壁や堀があったところで、左折したすぐのところに江戸時代の大手門跡があります。
    これまでこのT字交差点の正面には名称通り市民会館が建っていました。市や市民には申し訳ありませんが、この建物のおかげで一号線からは全く城が見えません。JR駅から真っ直ぐに道(大手前通り)が伸び、その先に天守閣群が遠望できる姫路城とは大違い。城好きとしては残念に思っていました。
    ところが年末に関東に帰省した際に数年ぶりに小田原に干物やカマボコを買いに行ったところ、市民会館が解体されて無くなっていることに気付きました。車で通り過ぎただけだったので、一号線から天守閣が見えるか確認できなかったのですが、次回の帰省が楽しみになりました。
    なお、Googleマップではまだ市民会館が建っていてストリートビューでは見えませんでした。残念w

  2. 現在の小田原城は江戸時代に建てられた天守を戦後コンクリートで作られたものが中心となっているものの、天守閣とお堀というお城らしさがあるのはおそらく関東では小田原だけなので、外国人を含め観光客が多いのでと思います。

    その構えを作り、守りに徹したものの、秀吉の農作業を行わない年中兵隊という組織がいつまでたっても攻めの体制を変えることが無かったことが、降伏に繋がったと思います。

  3. 小田原城の惣構、秀吉の遠征に慌てて突貫工事で造った割に整い過ぎていて違和感があるんですよね。
    籠城中も築造していたのでしょうが、戦後に入城した大久保忠世によって江戸の守りとして増改築された部分もあるかも知れません。

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