令和7年1月3日晴 渚の正倉院氣多大神宮展 羽咋市歴史民俗資料館 #気多大社 #令和6年能登半島地震 #大神宮 #国家祭祀  #ない守 #羽咋市歴史民俗資料館 #正月 #初詣 #mavic3cine

令和6年能登半島地震は、わたしたちの「能登」に大きな被害を与えた。
能登の人びとは、失われたふるさとの風景とそこに生きる誇りを取り戻すため、復旧・復興にむけて立ち上がっている。
あれから、一年が経つ。

わたしたちが生きる能登は、どのような所なのだろうか。
どのような歴史があり、どのような風土と暮らしを成してきたのだろうか。
能登の復興を考えようとする今こそ、知っておく必要があるだろう。

古代の能登は、日本海交通の要衝であり、東北・北方地域や大陸の渤海国ともむすぶ、国家の地政学的な重要拠点と認識されていた。
その能登に坐す重要な神社が、能登国一宮の気多大社である。

気多大社は、『万葉集』を編纂した大伴家持が「気太神宮」を参拝したのが最古の記録で、古代には越前国気比神宮、下総国香取神宮、常陸国鹿島神宮とともに「神宮」を号する数少ない神社であった。とくに『続日本後紀』承和元年の記録には「気多大神宮」と記載され、古代の地方神社では唯一、「大神宮」を号する神社であったことが知られる。

その古代の気多大社のようすを知ることができる遺跡が、「渚の正倉院寺家遺跡」である。
遺跡からは、古代の気多大社の神まつりで使用されたとみられる銅鏡をはじめ多彩な祭祀遺物が豊富に出土した。その内容から、国家的な祭祀が執り行われたと考えられている。
この考古学的年代は、気多の神が国家からの厚遇措置を受けたのとおなじ8・9世紀代であり、寺家遺跡は気多大社の古代祭祀を解明する重要遺跡といえるのである。

気多大社は、中世には能登国一宮となり、能登の国つ神として、さらなる信仰を集めていく。
社蔵文書の『気多神社文書』には、能登国守護畠山氏、加賀藩前田家など、武家の厚い保護を受けた書状や、神社の社領と制度の実態を示す資料が豊富に残されており、中世から近世の神社の詳細が把握できる資料として研究が進められている。
気多の歴史をしらべることは、羽咋の歴史、そして能登の歴史を知ることにつながっているのである。

古代から中世、近世をへて、そして現代へ。
気多大社は、能登を代表する神社として、長い祈りの歴史をつむいでいる。
古式の神事として知られる春の平国祭は、人々に春の到来を告げ、冬の鵜祭は、歳の暮れを告げている。
古代からつづく人々の祈りが、四季の祭りと生活が一体となった能登の風景を形成してきたのである。

この展示が、日本海地域の拠点として躍動した能登の歴史を知り、未来の能登を考えるきっかけになってほしいと思います。
能登を知るところから、はじめよう。
ふるさとの風景と能登に生きる誇りを取り戻し、そしてかならず復興しよう。

八世紀、九世紀の能登の氣多大神宮は、渤海(ぼっかい)と蝦夷の境界線であった。渤海からの疫病を抑え、能登の製塩技術を越中、佐渡、越後に伝搬し対蝦夷政策に塩が軍事物資として使用された。仁明天皇承和元年(八三四)には越前の気比神宮に先んじて、祢宜祝二人が把笏せしめられる。寺家遺跡の祭祀遺物は八世紀、九世紀ものであり氣多大神宮の祭祀の盛期を物語っている。氣多大神宮で国家祭祀が行われていたと考えられる。
称徳天皇神護景雲(じんごけいうん)二年(七六八)に封戸(ふこ)二十戸と田二町を寄進され、しばしば奉幣(ほうへい)を受けた(『続日本紀』)。また、桓武天皇延暦三年(七八四)に従三位から正三位(『続日本紀』)、仁明天皇承和元年(八三四)に正三位勲一等(『続日本後紀』)、清和天皇貞観(じょうがん)元年(八五九)には従一位勲一等、醍醐天皇寛平九年(八九六)には正一位の神階(しんかい)を賜った(『日本三代実録』)。
氣多大社は、氣太神宮(『万葉集』)、氣太神(『続日本紀』)、氣多大神宮(『続日本後紀』)のほか、氣多大神、一宮大神、能登大神とも称される。六国史で大神宮と呼ばれたのは氣多大神宮だけだった。蝦夷の境界線であった能登国氣多神宮、越前国気比神宮、常陸国鹿島神宮、下総国香取神宮と共に「日本四社」と称せられた。
氣多大社が中央の文献に初めて見えるのは、『万葉集』である。聖武天皇天平二十年(七四八)に越中守大伴家持が氣太の神宮に赴き参詣した折に、海辺にて歌を一首つくり、
 之乎路(しをぢ)から 直超え(ただこえ)来れば 羽咋(はくい)の海 朝凪ぎ(あさな)したり 船楫(かぢ)もがも
と詠んだ。万葉は永遠の意味です。当社の入らず森は永遠の命を伝える森、昭和天皇の御製は現代の万葉集。加賀藩の保護した入らずの森(天然記念物)の奥宮には素戔嗚尊・櫛稲田姫命が鎮座。
昭和五十八年五月、石川県で植樹祭があった。それは二十二日に、津幡町の森林公園で行われた。その日は雨の心配は全くなく、そしてよく晴れてはいても、陽が強すぎることもない。先ずあれ以上の天候はあるまい。まさに最高のものであった。
その行事がとどこおりなくおわったあと、昭和天皇は羽咋市にお向かいになり、氣多大社をお参りになった。そしてその後、三井秀夫宮司の案内で、入らずの森にお踏み入りになり、金沢大学の里見信生氏の御説明をお聞きになった。そこが、神域なるが故に、少しも荒らされることなく、原始のこの方、変わらぬ姿が保たれていることに、深い感銘をお受けになった。
斧入らぬみやしろの森めづらかに
からたちばなの生ふるを見たり
というお歌は、すなわちこの御感動があったればこそのものである。
 陛下は植物に深い関心をお持ちになっているが、決してみだりに採取などあそばさない。それぞれの植物が、平穏に生存をつづけ、その場所の植物相がいつまでも変わらないようにお祈りになっているからである。
「斧入らぬみやしろの森」は、そのところのおよろこびなのである。(当社編『天皇陛下行幸記念誌』より)。
『延喜式』神名帳(じんみょうちょう)によると、名神大社(みょうじんたいしゃ)に列せられて祈年の国幣にあずかった。神名帳によれば、「気多」を称する神社が但島、能登、越中、越後(居多神社(こたじんじゃ)と称する)に分布し、加賀にも気多御子神社があり、国史見在社として越前に気多神社が鎮座する。このことから、古代から日本海沿岸を中心に、氣多大神の信仰圏が広く分布していたことは明らかであり、その高い神威は今も変わらない。
順徳天皇建保(けんぽう)五年(一二一七)に将軍源実朝(みなもとのさねとも)が公田(こうでん)として十一町余を寄進したが、これは古代の封戸(ふこ)などによる神領とみられる。中世末期には、九百八十俵と五十六貫余の社領を有していたという。
正親町天皇(おおぎまちてんのう)永禄四年(一五六一)に、能登守護畠山氏が正親町天皇の勅許(ちょっきょ)を得て社殿の造営を進め、同十二年(一五六九)には摂社(せっしゃ)若宮神社(事代主神(ことしろぬしのかみ))(国指定重要文化財)を再建した。この若宮神社は現存し、石川県の重要な中世建造物のひとつである。
天正五年(一五七七)に能登畠山氏が滅ぶと、その後、上杉氏、織田氏、前田氏等の武将たちが能登国を支配したが、その間も気多社への崇敬は絶えることはなく、社領の安堵や寄進がしばしばなされた。
特に前田利家やその後の加賀藩歴代藩主からの崇敬は厚く、社領三百五十石の寄進をはじめ、前田家への祈願、祈祷、しばしば社殿の造営がなされた。
本殿(大己貴神(おおなむちのかみ))、拝殿、神門、摂社白山神社(菊理姫神(くくりひめのかみ))(以上、国指定重要文化財)。神庫、随身門(ずいじんもん)(ともに県指定文化財)がそれである。
明治四年(一八七一)に国幣中社、大正四年(一九七一)には国幣大社に列せられ、現在も北陸道屈指の大社として知られている。
神社の生命は、祭祀(さいし)にある。後水尾天皇元和(げんな)五年(一六一九)の由来書によると、実に七十四度の神秘な祭祀(さいし)を執行(しっこう)していた。しかし、明治の神仏分離政策や新しい神社制度の改変により、修正会(しゅしょうえ)、仏生会(ぶっしょうえ)(花まつり)、放生会(ほうじょうえ)、法華八講などの仏事は執り行われなくなった。しかし、古儀を伝えた特殊神事の多くは、今も継承されており、日々、神職たちは神明に奉仕している。

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