正月三が日も開催 渚の正倉院氣多大神宮展 令和6年12月20日から令和7年2月28日まで
令和6年能登半島地震は、わたしたちの「能登」に大きな被害を与えた。
能登の人びとは、失われたふるさとの風景とそこに生きる誇りを取り戻すため、復旧・復興にむけて立ち上がっている。
あれから、一年が経つ。
わたしたちが生きる能登は、どのような所なのだろうか。
どのような歴史があり、どのような風土と暮らしを成してきたのだろうか。
能登の復興を考えようとする今こそ、知っておく必要があるだろう。
古代の能登は、日本海交通の要衝であり、東北・北方地域や大陸の渤海国ともむすぶ、国家の地政学的な重要拠点と認識されていた。
その能登に坐す重要な神社が、能登国一宮の気多大社である。
気多大社は、『万葉集』を編纂した大伴家持が「気太神宮」を参拝したのが最古の記録で、古代には越前国気比神宮、下総国香取神宮、常陸国鹿島神宮とともに「神宮」を号する数少ない神社であった。とくに『続日本後紀』承和元年の記録には「気多大神宮」と記載され、古代の地方神社では唯一、「大神宮」を号する神社であったことが知られる。
その古代の気多大社のようすを知ることができる遺跡が、「渚の正倉院寺家遺跡」である。
遺跡からは、古代の気多大社の神まつりで使用されたとみられる銅鏡をはじめ多彩な祭祀遺物が豊富に出土した。その内容から、国家的な祭祀が執り行われたと考えられている。
この考古学的年代は、気多の神が国家からの厚遇措置を受けたのとおなじ8・9世紀代であり、寺家遺跡は気多大社の古代祭祀を解明する重要遺跡といえるのである。
気多大社は、中世には能登国一宮となり、能登の国つ神として、さらなる信仰を集めていく。
社蔵文書の『気多神社文書』には、能登国守護畠山氏、加賀藩前田家など、武家の厚い保護を受けた書状や、神社の社領と制度の実態を示す資料が豊富に残されており、中世から近世の神社の詳細が把握できる資料として研究が進められている。
気多の歴史をしらべることは、羽咋の歴史、そして能登の歴史を知ることにつながっているのである。
古代から中世、近世をへて、そして現代へ。
気多大社は、能登を代表する神社として、長い祈りの歴史をつむいでいる。
古式の神事として知られる春の平国祭は、人々に春の到来を告げ、冬の鵜祭は、歳の暮れを告げている。
古代からつづく人々の祈りが、四季の祭りと生活が一体となった能登の風景を形成してきたのである。
この展示が、日本海地域の拠点として躍動した能登の歴史を知り、未来の能登を考えるきっかけになってほしいと思います。
能登を知るところから、はじめよう。
ふるさとの風景と能登に生きる誇りを取り戻し、そしてかならず復興しよう。