今行ける能登 令和6年12月25日晴 渚の正倉院氣多大神宮展 #気多大社 #令和6年能登半島地震  #国指定重要文化財 #djiair3s #国家祭祀 ##仁明天皇 #羽咋市 #前田利家

今行ける能登 令和6年12月25日晴 渚の正倉院氣多大神宮展 #気多大社 #令和6年能登半島地震  #国指定重要文化財 #djiair3s #国家祭祀 ##仁明天皇 #羽咋市 #前田利家

能登の誇りを未来へ
 令和6年能登半島地震は、わたしたちの「能登」に大きな被害を与えた。能登の人びとは、失われたふるさとの風景とそこに生きる誇りを取り戻すため、復旧・復興にむけて立ち上がっている。
あれから、一年が経つ。
  わたしたちが生きる能登は、どのような所なのだろうか。どのような歴史があり、どのような風土と暮らしを成してきたのだろうか。能登の復興を考えようとする今こそ、知っておく必要があるだろう。
  古代の能登は、日本海交通の要衝であり、東北・北方地域や大陸の渤海国ともむすぶ、国家の地政学的な重要拠点と認識されていた。その能登に坐す重要な神社が、能登国一宮の気多大社である。
 気多大社は、万葉集を編纂した大伴家持が気太神宮を参拝したのが最古の記録で、古代には能登国氣多神宮、越前国気比神宮、下総国香取神宮、常陸国鹿島神宮を日本四社と呼んだ。とくに続日本後紀承和元年の記録には気多大神宮と記載され、大神宮を号する神社であったことが知られる。
 その古代の気多大社のようすを知ることができる遺跡が、渚の正倉院寺家遺跡である。遺跡からは、古代の気多大社の神まつりで使用されたとみられる銅鏡をはじめ多彩な祭祀遺物が豊富に出土した。その内容から、国家的な祭祀が執り行われたと考えられている。この考古学的年代は、気多の神が国家からの厚遇措置を受けたのとおなじ8・9世紀代であり、寺家遺跡は気多大社の古代祭祀を解明する重要遺跡といえるのである。
 気多大社は、中世には能登国一宮となり、能登の国つ神として、さらなる信仰を集めていく。社蔵文書の気多神社文書には、能登国守護畠山氏、加賀藩前田家など、武家の厚い保護を受けた書状や、神社の社領と制度の実態を示す資料が豊富に残されており、中世から近世の神社の詳細が把握できる資料として研究が進められている。気多の歴史をしらべることは、羽咋の歴史、そして能登の歴史を知ることにつながっているのである。
 古代から中世、近世をへて、そして現代へ。気多大社は、能登を代表する神社として、長い祈りの歴史をつむいでいる。古式の神事として知られる春の平国祭は、人々に春の到来を告げ、冬の鵜祭は、歳の暮れを告げている。古代からつづく人々の祈りが、四季の祭りと生活が一体となった能登の風景を形成してきたのである。
 この展示は、一般社団法人はくい市観光協会の能登復興ツーリズム事業の一環として開催するものです。 この展示が、古代に日本海側の拠点として躍動した能登の歴史を知り、能登を誇りに思うことにより、能登の未来とこれからを考えるきっかけになってほしいと思います。

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