平家の落人「藤井佐渡守」とその一族が隠れ住んだ地 – 楽々谷集落
山口県周南市金峰にある楽々谷集落
楽々谷(ささだに)地域は、平家の落人である藤井一族によって開拓されたと伝えられています。
藤井家は当時、楽々谷地域の荘園主であったと思われます。
天治元年(1126年)には、藤井佐渡守が河内国 南河内郡水分村 水分神社(大阪府の建水分神社?)から分霊を受け、楽々谷神社(河内神社)を建立しました。
慶安3年(1650年)には、三光寺を藤井四郎右衛門が竹翁璋琳大禅師を請うて開祖となし、河内神社の傍に建立したものを、寛保元年(1741年)藤井六右衛門之信なるものが堂の荒廃を嘆き、藤庵と合わせ現在地
に再建しました。
■秋月丸(村上源氏の源中納言雅頼の子)
奥畑由来記に「秋月丸の娘の妙音尼が父母の菩提を弔い奥畑下村、宮ノ原引地、楽々谷大野原の3か所に一字一写の経塚を建てた」とあり、この多宝塔がそうではないかと言われています。
広実左近頭らが北山(周南市須万にある北山集落)に入る以前に、藤井一族が楽々谷地域を開拓し、この地を治めていました。
妙音尼がこの地に碑を建てたということは、秋月丸と藤井一族との交流があったことをうかがわせます。
平家の大将、廣實左近守らにだけ本当の身分を明かしたと伝わる。
■須万(すま)の地名の由来
昔、この地域は「須々万(すすま)」と「中須(なかす)」という二つの集落で構成されており、文治・建久の時代(12世紀末頃)までは「紀ノ村(きのむら)」と呼ばれていました。しかし、中納言・雅頼(まさより)の息子である秋月丸(あきづきまる)が父を慕い、赤間ケ関(現在の下関市)まで訪ねて行ったところ、父が入水(自殺)したと聞き、ひどく落胆しました。どうすることもできず、あれこれと思い悩みさまよっていたところ、平家の落人たち(廣實左近守など)が周防国(現在の山口県)に多く住んでいると耳にしました。
その後、この地にやって来た落人たち(廣實左近守など)を頼りに住むことになり、故郷播州への懐かしさから、この地域の名前を「須磨(すま)」と改めた。
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長谷の山あいに居を構えた秋月丸は文人であり、詩をよく詠んでいたといわれ、いかにも公達の雰囲気を持っていたようです。村人たちは彼のこと
を「御所様、御所様」と呼んでいたことから彼が住んでいた地は御所ヶ谷といわれるようになりました。
後年、秋月丸は氷見神社にこもり、大般若経を書写してこれを寄付し、大向の二俣神社へ向かう途中奥畑で急死しました(1218年)。
彼は須磨の地で妙音尼という名の妻をめとっていたらしく、彼の死後、奥畑に尋ねてきてここに住み、小庵(後の桂雲寺)を建て、写経した石塔をたてて故人の霊を祀ったそうです。また娘の女妙音尼は母の死後、奥畑、宮の原、楽々谷の三カ所に
経塚をたてて祀ったといわれています。
今は崩壊してしまいましたが、秋月丸の墓も奥畑に五輪塔として残っていました。(奥畑由来記による)
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4 Comments
廃集落なのに電線の管理がしっかりしているのはなぜですか?
家が幅広く点在しているという事は、一人当たりが所有していた田畑が広かったんでしょうね。
何か色彩おかしくないですか。赤みが強く出ているように思えます。
なんだか最近まで生業が有った感じですね😮
元住民の方や子孫の方々が大切にされる事を願います😊
日付的に下松帰りに撮影されたのですね前回もいつもの雰囲気と違う感じたのですが髪下ろされた姿👍️