懐かしい町並 杵築市杵築
杵築市杵築は国東半島の南頸部にあたり、東は別府湾内の守江湾に臨む。
今の杵築城のところに初めて城を築いたのは、応永元年(1394)領主であった木付頼直である。八坂川・鷹山川に挟まれた台地のすぐ東方に浮かぶ小島に城を移して木付城と称した。大潮のときだけ台地から歩いて渡れたという。文禄2年(1593)木付氏が滅び、木付城には文禄4年(1595)前田玄以が木付領主となり、慶長元年(1596)には杉原長房、慶長4年(1599)細川忠興、寛永9年(1632)には小笠原忠知、そして正保2年(1645)に松平英親が入り、明治を向かえるまで支配を続けた。
杉原氏の入封と共に御殿建設のため、城の北側を埋めはじめ、50年後の松平氏が入国して完成したといわれる。松平英親は積極的に城下町つくりを進め、南北両台地を武家屋敷として整然と区画し、南北両台地の間を流れる谷川に沿った地を町家建築に当てた。本町・谷町・仲町・新町と形成され、元禄・宝永期にはすでに町屋はほぼ完成している。
その後も町数は増えていった。延享3年(1746)の概況は町数17・家数380・酒造家7・医師9・寺11であった。また武家屋敷は城内外とも100軒、うち給人100・中小姓80・徒士80・惣足軽300・惣仲間350・馬125疋であった。
城下町の家数・人数は、享保2年(1717)家数289、同6年(1721)人数1,239、文化7年(1810)人数1,430、弘化3年(1846)人数1,716、嘉永元年(1848)人数1,698と幕末に至って急増している。
宝永(1704~11)の頃から七島表の生産が進み、他国にも移出されるようになると町は活況を呈し、出船・入船で賑わい東九州有数の商港となった。町の商業も株制度が生まれ、酒屋株10軒・質株16軒など、綿・砂糖・酢・醤油・油・畳表・藍玉・菜種・ハゼ・傘・麹などにまで株が生まれていて、保護政策ものと商人の利益も藩の収入も多かった。
今、町並みは谷町筋の商人町筋が道路拡張によって、新しく生まれ代わり、新しく造られた古い町並みを再現している。そんな中に市役所までも町並みに同化しようと、異質の市役所と云う感じの建物が出現している。
杵築は坂の町である。北台武家屋敷・南台武家屋敷は台地上、町屋筋は谷筋の町並で、勘定場の坂・酢屋の坂・志保屋の坂・飴屋の坂・富坂・紺屋町の坂など多くの坂道があり、どの坂道も観光名所になっている。
酢屋の坂を登った所から右側に折れて勘定場の坂までが、北台武家屋敷街で、杵築で一番の見どころだろう。土塀が連なる武家屋敷は上級武士の住まいだった。そんな中に公開されている大原邸と磯矢邸がある。大原邸は家老屋敷で茅葺き屋根の大きな家屋に回遊式の庭園が備わっていて、杵築の谷町筋の町並が見晴らせる絶景の場所。その他にも杵築には公開されている屋敷は2~3ヶ所ありました。
谷町筋の商人街が一番の古い町並みであっただろうが、道路拡張により建物が新しくなっていて、興味が失われ、北台武家屋敷に続く西側の町筋に伝統的な家屋の町並が展開していたので、ちょっと安堵して町並み散策を終了した。
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音楽:中北音楽研究所