ヤマトタケルは実在?出雲に残る多くの伝承は?その謎と不思議から見える驚きの事実

出雲の母なる山、大黒山眼下の神代神社奥宮の磐座には謎の神「宇夜都弁命」が降臨された、誰?その正体は?更にこの地に残るヤマトタケルとイズモタケル伝承等の正体に迫る・・・しつこい男のちょっと変わった考察の謎解きストーリー
#神代神社, #大黒山, #ヤマトタケル、

6 Comments

  1. 上までは登ったことがありませんでした。再度行って見たいと思います。ありがとうございました。

  2. 宇夜都弁命は、この地・ウヤノ里を治めていた女首長(とべ)で、神代神社に祀られる。ヤマトタケル(実際はハリマタケル)は出雲に来たことはなかったが、出雲王家が父・景行大王と仲が良かった関係から「タケル」に因み「健部」(タケベ)郷と名付けた。また神門臣家の一部は健部や武部を名乗るようになった。神話物語では、有名人化託話方式が採り入れられています。

  3. 素晴らしい光景を
    ありがとうございます♪

    この地の本質は
    あの藁蛇の地と
    神奈備の大黒山ですね。

    元々がこの神祀りがあり、
    いくつもの歴史が
    その上に敷かれてゆきます。

    【大黒】とは
    仏教が入って来てからの名で、
    その語源は【大国主】

    それも八千矛だけでなく、
    歴代の大名持を含むでしょう。

    西王家の地域にありますから、
    神門臣・振根など、
    そちら関係の言葉が出て来ますね。

    宇夜都弁命は
    ここで神祀りをしていた巫女でしょう。

    西王家の妃か姫のひとりでしょうね。
    いつの時代かは
    はっきりしません。

    おっしゃるように、
    第二次物部東征で
    出雲王国が滅ぼされた逸話が
    ここに入れられていると思います。

    【ヤマトタケル】とは
    物部の皇子であり、
    物部を代表して
    その所業を一手に引き受ける
    役割があります。

    小碓皇子は実在した人物ですが、
    その人の業績だけでなく、
    歴史の辻褄合わせや、
    物部が行った業績、
    それを未来へと繋げてゆく役割です。

    接着剤ですね。

    五十猛→徐福渡来
    八十建→神武東征
    熊襲建→景行天皇の九州遠征
    出雲建→第二次物部東征

    そして、倭建

    熊襲建との争いも
    騙し討ちです。

    ヤマトタケルのエピソードは
    よく読むととてもエグいものばかり。

    若き日の小碓皇子は
    兄の大碓皇子を
    呼んでも来ないからという理由で
    ひねり56してしまいます。

    父の景行天皇は
    その怪力を恐れて
    全国を制定するのに派遣させる
    という伏線なのですが、
    普通に考えると酷い男です。

    派遣先でも騙し討ちばかり…
    それが英雄として
    伝わってゆくということは、
    何か特別なものが
    あるのでしょうね。

    【物部】を代表する皇子であるならば、
    兄を56したことは、
    兄の海幸彦(磯城王朝)を倒した
    弟の山幸彦(物部王朝)を
    暗示しているとも言えます。

    【ホムチワケ】の白鳥伝説は
    背景は第二次物部東征であり、
    出雲王国の滅亡時です。

    大国主に恨まれることは
    しっかりしているわけですね。

    振根将軍が
    それを物語ります。

    そして、
    正史編纂時以前の人たちは、
    磯城王朝からヤマト政権が
    始まるとともに、
    磯城王朝は【出雲王国の分家】である
    という意識も
    しっかりあったと思えます。

    その両王朝が
    この第二次東征で滅びます。

    熊襲建との争いは
    景行天皇の九州遠征で
    小碓皇子は行っていません。

    出雲についても同じですが、
    倭建はもう一つ、
    重要な役割を負うキャラクターとして
    創作されています。

    【剣の運搬人】です。🗡️

    熱田にある【天叢雲剣】は
    元から尾張氏のものであり、
    後継者争いに敗れた
    村雲の子孫たちのうち、
    伊勢湾沿いに流れた一族が
    管理していたもので、
    最初から尾張にあったのです。

    それを
    ヤマトにいた大王家から
    熱田にもたらされたように
    物語を創作し、
    その運び役となったのが倭建です。

    剣は宮簀媛の元に
    置いて行かなければ
    ならなかったのです。

    同じように
    【鏡の運搬人】が【倭姫】です。

    三輪山を追い出された
    太陽の姫巫女が
    伊勢に辿りつくまで、
    鏡はあちこち放浪します。

    おそらく、複数いた巫女たちを
    【倭姫】というひとりの皇女に
    凝縮させたと思います。

    倭姫→鏡を運ぶ
    倭建→剣を運ぶ

    2人はセットで描かれます。

    剣を倭建に渡すのも
    倭姫ですが、
    よく考えてください。

    【天叢雲剣】とは
    磯城王朝が創設されたとき、
    初代大王叢雲に
    お祝いとして出雲王家から
    贈られたものです。

    磯城王朝と村雲のシンボルです。

    それを倒した物部の皇子に
    わざわざ渡すことは
    考えられないです。

    剣はずっと
    村雲の子孫である尾張家が
    お祀りしていたのです。

    倭建が剣を運ぶことによって、
    磯城王朝と物部王朝を
    繋ぐ役目をしています。

    そして
    【日本武尊】として、
    どの部族も一緒になった
    【日本国】🇯🇵という国家が
    形成されてゆくのです。

    正史編纂とは、
    国家をひとつにまとめる作業です。

    天叢雲剣が
    草薙剣に変わったのも
    実は大きな意味が隠されています。

    それが
    出雲建と剣を交換する場面に
    描かれています。

    ひとつは
    出雲王朝とも言って良い
    磯城王朝から、
    物部に皇位が移ったこと。

    出雲建の持っていた
    立派な剣は村雲のことです。

    それが
    草薙剣に変わるのは
    また何処かでお話します。

  4. 趣のあるいい感じの神社ですね。ご紹介有難うございます。私も出雲健と振根の説話は同一モチーフと思っています。ヤマトタケルは西征と東征は別人と思ってますが実在の何かがモデルでは無いでしょうか?

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