倒壊寸前 空き家多数の大阪羽曳野『向野』散歩

向野村は河内国丹南郡にあり、向野村本村と枝郷皮田村から成る。本村の戸数・人口は不詳だが、皮田村の1872年(明治5年)時の戸数は壬申戸籍により120戸であるから、近世中後期には本村戸数をはるかに越す皮田村戸数・人口であったと見られる。
皮多村に対しては、本村庄屋による皮多支配の権限強化、平人と紛れないように監視する体制の強化、身分内仕置の強化などが行なわれた。
以下の書付は1733年(享保17年)5月に「向野村穢多への申渡し」として出された「お触れ」。
この1733年(享保17年)5月の「お触れ」から100年以上経た1849年(嘉永2年)になって、改めて庄屋が大庄屋へ宛てその内容全体を「写し」とって上申している。庄屋が自主的に、つまりもう一度同様の皮田取り締まりを求めて提出したのか、大庄屋もしくは領主が先例を踏襲し、再度触れ出す参考に提出を求めたものかは、この史料からだけでは分からない。
本村と枝郷皮田村との間に権力が調整・介入する早いものは1731年(享保16年)秋元領(武蔵国川越藩)河内国丹北郡更地村本村庄屋への三ヶ条の「申渡し」(「更池村文書」)であり、これは更地村本村庄屋の親喜右衛門から子の清右衛門へ庄屋跡役を命じた際の申し渡しであるが、その中心的一条として皮田差配が書き記されている。
更池村と向野村は同じ秋元領であり、この三ヶ条の「申渡し」をさらに具体化し体系化した法令が、翌年向野村に出された「申渡し」といえる。藩と本村と枝郷皮田村との関係を規定した法令としておそらく初見ではないかと考えられるだけでなく、享保17年「申渡し」は内容の点でも具体的かつふみ込んだもの。この藩が居城を武州川越にもつ飛地であることと、向野村が早くから枝郷皮田人口が本村百姓人口をはるかに凌駕する村落構成となっていた二つの特質が、「申渡し」の早い時期の詳細な規定を生んだと考えられる。
向野村と更池村は関西の食肉生産の発祥の地であり、日本の食肉産業の源流でもある。1858年(安政5年)には、向野村枝郷皮多村と更池村枝郷皮多村は、「屠者村」と称され、畿内の皮革産業の中心地である摂津役人村の皮多仲間からもなどの侮辱を受けている。同年の別の史料でも、「向野殺生方」と呼ばれていた。また、皮多身分の博労が多数存在していたことも明らかとなっている。
1868年(明治元年)、向野村本村庄屋が幼年のため、更池村本村庄屋の田中家が更池村枝郷皮多村と共に向野村枝郷皮多村の支配も兼任する。
1920年、向野村本村庄屋であった山上宗近が灌漑用水確保のため、寛永年間に二度池を完成させたことを讃えた「山上宗近流沢碑」が建てられる。
1923年、向野で全国水平社青年同盟が結成されて西浜に本部が置かれた。終戦1年目から3年目あたりにかけては、村をあげての活気と混乱が錯綜していた。牛の内臓(ホルモン)は、上六や天王寺あたりで飛ぶように売れた。
1950年、向野の屠牛数年間1万頭を超した。1956年、屠牛数年間2万頭を超した。1961年、屠牛数年間3万頭を超した。1964年、屠牛数年間5万頭を超した。

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