「大垣城」関ヶ原の戦いで石田三成が拠点に選んだ理由とは?徳川家康を死地に追い込む罠

岐阜県大垣市の大垣城。当時の姿のまま再建された天守もそうですが、なんといっても有名な関ヶ原の戦いの舞台として知られています。西軍の将、石田三成が合戦直前まで本陣を置いていた城。ここに宇喜多秀家や島津義弘、小西行長など西軍武将たちが集結していました。三成が大垣城にいた期間は8月10日から9月14日までの約35日間(この間佐和山に戻る期間あり)。その間西軍前線の中枢はここにあり、三成は大垣城で東軍徳川家康らの動きに備えていたのです。しかしご存じの通り9月14日深夜、三成ら西軍武将たちは突如大垣城から出陣。西の関ケ原に移ります。そして翌日早朝、関ヶ原での決戦が行われるのです。なぜ石田三成は、東軍を迎え撃つ拠点として大垣城を選んだのでしょうか。今回はいろいろな説のうち一つを取り上げ大垣城を見てみます。

9 Comments

  1. 戦術的には、岐阜城の落城で大垣城を中心とした美濃での家康迎撃計画が予定通りにいかず家康得意の野戦に引き込まれた感が強いですね。これだけの軍を三成の手腕は凄いですが、家康は、それ以上だったと思います。ゲームでは、余り家康は、やりませんが・・

  2. 毛利輝元が松尾山に入り参戦し尚且つ秀頼が佐和山城に入れば秀吉恩顧の福島正則や加藤清正始め三成憎し故で東軍についている大名達はどうしたのか?😥秀忠は真田にふるボッコで参戦不可出し歴史にもしはありませんが興味深いです。

  3. 水の都大垣 水路が美しい
    私の田舎懐かしい場所 金蝶屋饅頭という和菓子が美味しいです。

  4. 大垣城にいた理由がわからないんだよな。小大名の城だし平城で拠点にするには不向きだしな。岐阜と自分の領地を結ぶ中継点としての意味しかない。岐阜城に入っていれば家康軍を足止め出来たのに。

  5. そりゃ 西と東がぶつかれば
    不破関周辺が舞台になるっしょ
    太古から 瀬田から 東がこの国の 
    血みどろラインで

    難攻不落は求めて無くて

    東西南北に出やすい 全然基地でいい訳で

    別に 難攻不落じゃ無くていいんでしょ?
    (もう一回言う)
    逆に いい 全然基地だ

    あ 大阪の陣 
    昌幸さんは その辺で戦えって言ったのに
    籠城しちゃったから 負けたんだよな
    ここ抑えて 前進すりゃいい

    ちと考えれば
    なぜ負けた?

  6. 大垣城の周りに湧く複数の水汲み場の美味しいこと(^^)
    城の防衛にも、大垣の人々の生活にも水は大切なんですね

  7. 大垣城を選んだのは岐阜城を落とされたからだと思います。
    援軍も対して送らなかった所をみると岐阜城が落城して初めて光成は岐阜城がどれほど大事な城だったかに気付いたのではないでしょうか。

Write A Comment