京都紅葉🍁2024.11.15 嵐山 Update on Kyoto autumn leaves in Arashiyama, Nov. 15, 2024

朝から曇りで昼からは雨が降っていたため画像が暗くなっています。晴れていたら、もっと輝くような美しさだったでしょう。嵐山では、あちらこちらで色づき始めていますが完全に色が変わって見ごろとなるのは7~10日後かと思います。まだまだ緑のままが多く、ざっと見て色が変わっているのは1割ぐらいかも。ただし、二尊院の背後にある小倉山は既に濃い色の色づきが目立ち、2~3割で紅葉しているように思えました。紅葉の名所として人気のある宝厳院も未だ色づきが浅そうで見送りました。ダントツで人気のある常寂光寺は、窓口の方曰く「未だ早い」との事。せめて11/22以降にした方が良いかも。常寂光寺の紅葉が見頃になると、豪華すぎて鳥肌が立つほど。
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1:19 大堰川(おおいがわ)
5:05 展望台からの眺め
6:05 御髪神社
9:25 二尊院
20:09 時雨亭跡
22:20 竹林の小径
22:36 渡月橋
23:37 天龍寺
24:51 曹源池
34:40 竹林の小径

🔳渡月橋
京都屈指の観光スポット、嵐山で桂川に架かる橋。
名称: 渡月橋(とげつきょう)—-旧名は法輪寺橋
場所: 京都市右京区嵯峨中ノ町町
全長: 155m
河川: 大堰川(おおいがわ)—-渡月橋より上流(更に上流は保津川)
    桂川(かつらがわ)——-渡月橋より下流
架橋年: 836年(承和3年)
建設者: 僧の道昌
桂川を境に北が嵯峨野、南が嵐山。当初の橋は現在より100~200m上流にあり橋の名前も現在とは異なり、橋の南、山の斜面に建つ法輪寺(ほうりんじ)に因み法輪寺橋と呼ばれた。鎌倉時代に亀山上皇が橋の上方の空を移動していく月を眺めて述べた感想「くまなき月の渡るに似る」により渡月橋と名付けられた。洪水が多くたびたび流失した上、応仁の乱(1467~1477年)では焼失した。現在の位置には1606年(慶長11年)に保津川の開削工事を行った角倉了以により架け替えられ、現在の鉄骨鉄筋コンクリート桁橋には1934年(昭和9年)に架けなおされた。2013年の台風18号で桂川が氾濫して橋周辺が冠水したが橋の流失は免れた。2018年9月の台風21号では橋の東側の欄干が100mにわたり倒れたが同年10月には復旧しています。また、この橋を中心として毎年12月に行われるライトアップ「嵐山花灯路」は人気があったが予算不足のため、17年続いたのみで2021年12月をもって終了した。
■二尊院
名称: 二尊院
正式名: 小倉山二尊教院華台(けだい)寺
山号: 小倉山
宗派: 天台宗
本尊: 釈迦如来、阿弥陀如来
創建: 承和年間(834~848年)
開山: 円仁(第三代天台座主)
開基: 嵯峨天皇(勅願)
場所: 〒616-8425 京都府京都市右京区嵯峨二尊院門前長神町27
電話: 075-861-0687
FAX : 075-861-7972

説明:
寺名は本尊である釈迦如来と阿弥陀如来の二如来像に由来しますが、一説では、二尊教院と華台寺の2つの寺とも言われます。二尊それぞれの役割は下記の通りです。
①釈迦如来:発遣(ほっけん)すなわち極楽往生を目指す人を此岸から送リ出す。
②阿弥陀如来:来迎(らいごう)すなわち浄土へ招き迎える事を行う。
この考えは中国唐代の善導大師が広めた「二河白道喩」の例えによるもので、日本にも伝わり法然上人に受け継がれました。二尊院に祀られている遣迎二尊像は鎌倉時代中期、春日仏師により作られたと伝わっています。本堂中央に安置され、右に釈迦如来像、左に阿弥陀如来像が立っています。左右相称で金泥塗りの玉眼入りの像が境内を見守っています。応仁・文明の乱で焼失し永正年間(1504~1521)に広明恵教(こうみょうえきょう)が三条西実隆父子の援助で復興しました。境内には角倉了以、素庵父子、伊藤仁斎・東涯父子などの墓があります。また背後に聳える小倉山には明月記で有名な藤原定家ゆかりの遺跡があります。
名称:天龍寺
正称:霊亀山天龍資聖禅寺
山号:霊亀山
宗派:臨済宗天龍寺派
本尊:釈迦如来
開山:夢想国師
所在:〒616-8385 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68
電話:075-881-1235
FAX :075-864-2424
創建:1339年(暦応2年)
【概要】
臨済宗天龍寺派大本山。吉野で亡くなった後醍醐天皇の菩提を弔うため、足利尊氏が夢想国師を開山として創建しました。寺名の「天龍」とは足利尊氏の弟、直義(ただよし)が夢で見た金龍に由来します。この場所は檀林皇后(嵯峨天皇の后)が開創した檀林寺のあった場所で後に御嵯峨上皇の仙洞御所・亀山殿が営まれた場所でもあります。夢想国師は堂塔建立の資金調達のため元との貿易を進言しました。天龍寺船を就航させるなどして貿易収入を建設費用に充当し、1343年(康永2年)には、七堂伽藍が、ほぼ整備されました。半世紀後の1386年(至徳3年)京都五山の第一位となり、その後、檀越(だんおつ)の足利将軍家の没落や火災で衰退するも豊臣秀吉らによって復興します。1356年(延分1年)を皮切りに8回の大火に見舞われました。最後の大火は幕末の戦乱で起こり、大半が焼失しました。その後、明治以降に現在の伽藍が再建されました。曹源池(そうげんち)を囲む、曹源池庭園は夢想礎石の作で遠景の嵐山と近景の亀山を借景とし、亀山東麓に配された曹源池を中心に方丈側東岸に大小の出島を配置した造りとなっています。西岸中央の龍門瀑(りゅうもんばく)と、その前の三連の石橋、その前方の池中立石が庭園の焦点となっています。曹源池庭園は国の史跡および特別名勝第一号に指定されています。1994年(平成6年)には世界文化遺産に登録されました。
【歴史年表】
1339年(暦応2年)創建
1341年(暦応4年)暦応資聖禅寺と改称
1356年(延分1年)最初の大火。これを含め幕末までに8度の大火
1386年(至徳3年)京都五山の第一位となる
1994年(平成6年)世界文化遺産に登録される

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