高城山ハイク ー 高城城(立縫動士城・福積高城)落城500周年!巡礼の石仏探し -その1(白峰寺~高城山)[ 鳥取県 倉吉市 とっとりけん くらよしし]

高城山ハイク ー 高城城(立縫動士城・福積高城)落城500周年!巡礼の石仏探し -その1(白峰寺~高城山)[ 鳥取県 倉吉市 とっとりけん くらよしし]

今回行くのは高城(たかしろ)山。この山は打吹城、打吹山の5~6km西に位置しており、私はこんなに倉吉の西側に来たことはない。ここは倉吉市の果てなのか…もう少し西へ行くと北栄町どころか琴浦町とのこと。何と、一昨年に行った西高尾ダムより南に位置している。
この高城山は城跡でもあり、高城城は1524年の大永の五月崩れ(たいえいのさつきくずれ)によって落ちた城と言われている。

奇しくも今年は高城城が落城して500周年!これは無駄にタイトルにするしかない、とのことで無理にでもタイトルに入れ込みました。大雨で山城の遺構を探すどころではなく、もはや100年程前に設置された巡礼石仏探しがメインとなっております。

※ 今回の動画は手振れがいつもより酷いのは映像が暗く映っているように見えたので、アクションカメラの設定を弄っていたら手振れ補正機能の設定を解除してしまうモードで撮影していたことが昼になってから発覚。
タッチパネルが雨に濡れて操作が利かないという状態もあり、軽く投げやりになってしまっておりました。このハイクを一人で行っていたら、確実にボツにするレベルの映像の悪さです。もし、少しでも不快に思われましたら再生を止めて下さい。

本シリーズは3部~4部構成になるかと思います。
少なくとも次回までは映像のブレが酷い上、後半になるにつれて徐々に再生されなくなるかと思いますが、頑張ります。

撮影日:2024/11/6

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大永の五月崩れ(たいえいのさつきくずれ)について

大永4年(1524年)5月に尼子経久が伯耆国に一気に雪崩れ込み東伯耆(羽衣石城など)まで侵攻した一連の戦のこと。その際に高城城も落ちたと言われている。落ちたというか、軍備が整っておらず放棄され、唯落の城(ただおちのしろ)などと伯耆民談記では蔑称されているそうな。

この「大永の五月崩れ」は一昔前(1980年くらい)までは『伯耆民談記』にあるような電撃戦のように一朝にして尼子軍が進軍してきた、みたいに考えられていたとのことだが、近年ではちゃんと根回しをし、段階を追って侵攻したと分かってきた。

そして、尼子氏は本動画のメンバーも何度も行っている羽衣石城まで侵攻した。

また、ハッキリはしていないらしいが、国府親俊は南条宗勝(なんじょう そうしょう[むねかつ])と同一人物なのでは?なんていう話もあるそうで、もし、そうであれば南条氏の当主がこの高城 城を居城にして政(まつりごと)をしていたとしたら、凄いことなのでは。
尼子の侵攻に備えるために直に指揮を執っていたのか、この周囲の土地を盤石にするために政をしていたのか、などと色々と想像を掻き立てられる。
(福積の稲毛家に伝わる口伝では「南条虎熊公伯耆守親俊」と伝える。

文字に起こすと南条宗勝の有力な家臣であった人物と推測されるが、口伝による表現では同一人物で南条宗勝の別名として伝えている)

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#高城山#高城城#鳥取県倉吉市

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