荘厳な舞3つ 建勲神社 船岡大祭 (宮司松原貴子氏 船岡大祭祝詞・挨拶 仕舞『敦盛』『小鍛冶』・舞楽『胡飲酒』他神社並びに織田信長の解説付) 主祭神 織田信長 2024.10.19
令和6年10月19日は、京都市北区に位置する船岡山の頂上にある建勲神社にて、毎年恒例の船岡大祭が催行されました。
建勲神社に初めて行きました。当日は朝から雨が降り、大祭の始まる午前11時には本降りとなりました。
神社受付のある建勲神社前の鳥居から、本殿には約100段の石段をのぼります。
当日は雨にも関わらず、大祭関係者が多く詰めかけ、本殿両脇にある白いテントにズラリと勢ぞろいしておりました。
宮司松原氏の言葉にもあるとおり、織田家直系子孫の織田信孝氏が最初に玉串の奉納をされておりました。
織田信孝氏は現在フリーライターとして織田孝一という名で活動されております。織田信長の正統な子孫である織田信孝氏の映像もありますが、本映像の主旨によりカットしております。
織田信長の直系血族で現在まで残っているのは、信長の次男・信雄の家系だけです。織田信孝氏で18代目となります。
調べてみると、織田信長の子孫と名乗る(自称)者が他に何人かいますが織田家の子孫かどうかの話であって、織田信長の正統な血族は彼だけとなります。
なぜ、織田信雄の家系だけ現在まで残っているのかと申しますと、本能寺の変にて、明智光秀軍は、信長のいる本能寺を襲撃しただけでなく、織田家自体を殲滅させるために、織田一族の皆殺しを図ろうとしました。
特に織田信長の3人の息子の殺害を試みようとしました。
嫡男の信忠は本能寺の変を聞きつけ救援に向かうが、父が自刃したことを知ると明智軍を迎撃するため籠城しましたが、敵勢の多さに諦め自刃。嫡男の三法師(秀信)は織田家三代目の当主でしたが、関ケ原の戦いに参加したあと、高野山に入り、そこから追放され自刃。
次男の信雄は、天正10年(1582年)6月2日、信長が本能寺で、信忠が二条新御所で、家臣の明智光秀によって討たれたとき、居城である伊勢松島城にいました。
三男の信孝は羽柴秀吉・秀長軍と合流し、山崎の戦いで明智光秀を討ちました。のちに信雄の指令により自害。子女なし。
本映像は、建勲神社の歴史と織田信長の功績を重視した内容となっております。
<本映像の内容>
1、建勲神社宮司松原貴子氏 船岡大祭祝詞
2、仕舞「敦盛」「小鍛冶」
3、舞楽「胡飲酒」
4、松原貴子氏の挨拶
※当日雨模様のため、予定された安土信長出陣和太鼓演奏は中止となりました。火縄銃演武の奉納は、年によって実施されるかどうかが決まりますが、今年は実施されませんでした。
建勲神社のご利益は「大願成就」・「開運」・「難局突破」・「産業指導」の神・「災難除け」の神として、主祭神である織田信長の猛々しくもあらたかなその御神徳が広く崇敬されています。
産業指導の神ともなっている理由は、信長が「楽市」「楽座」を実施したところによります。
■織田信長・明智光秀・羽柴秀吉(豊臣秀吉)について
織田信長が歴史の表舞台に登場したのは、「桶狭間の戦い」からとなります。
学生時代のアルバイトで織田信長を主人公にした大河ドラマで「桶狭間の戦い」を織田方の武装をして今川方を攻撃したことがあります。和歌山の山の中で撮影し、雨が降らなかったので3台の消防車を呼びホースから大量の水を蒔いた中での撮影でした。織田軍と今川軍が槍や刀を振り回し乱戦する様子をリアルに撮影できたかと思います。
歴史上に残る本当の「桶狭間の戦い」は土砂降りの雨の中、織田信長の4000の軍のうち2000名を今川方25000名の中に突入させて猛攻を繰り返しました。今川軍の総帥である今川義元は当時権力の絶頂期を迎えており、信長の奇襲を予測すらしておりませんでした。
信長は自軍の10倍を超す敵勢を蹴散らかすよりことはできないと考え、義元のいる本陣だけを狙って、そこだけに戦力を集中させました。
建勲神社が「難局突破」の御利益があるというのは、「桶狭間の戦い」で勝利した信長の功績によると考えられます。
建勲神社の境内には、27歳の織田信長が桶狭間の戦いで出陣する際に唄い舞った幸若舞の一節が書かれた石碑があります。
信長公記にはこのように書かれております。
『此時、信長敦盛の舞を遊ばし候。人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度(ひとたび)生を得て滅せぬ者のあるべきか、と候て、螺(ほら)ふけ、具足よこせと仰せられ、御物具(おんもののぐ)召され、たちながら御食(みけ)をまいり、御甲(おんかぶと)めし候ひて御出陣なさる。「信長公記」』
信長公記は織田信長の生涯が書かれた一代記。著者は信長旧臣の太田牛一。信長の実像を知る史料の中では、最も信頼できる内容となっています。
建勲神社の紹介には最もふさわしい内容だと考え、今回の映像の最初に入れました。
そのあとの信長御神前の宮司の祝詞には、織田信長と明智光秀との関係、織田信長と豊臣秀吉との関係を解説し、なぜ船岡山に織田信長を主祭神とした建勲神社の存立理由を書いております。
今回の映像にBGMは、ドイツ人の作曲家であり世界で最も知られたハンス・ジマー作曲の「グラディエーター」となります。
リドリー・スコット監督作品である「グラディエーター(剣闘士)」は、単なるSFではなく歴史映画となります。
16代目のローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの軍を統帥していた主人公の将軍マキシマスが皇帝の息子の謀略により妻子を殺害され、奴隷身分に落とされた。その後、剣闘士として成り上がり、やがて皇帝を殺害したその息子と対決することになる内容です。
マキシマスは皇帝マルクスと同様に生涯「戦(いくさ)」に明け暮れた。
このイメージと織田信長の生涯と重なり合うところがあるので、本映像に採用しました。
織田信長は、日本統一だけを目標に戦い続けたのではなく、彼の野望は世界戦略でした。
中国を侵略し、かつてモンゴル帝国がヨーロッパを蹂躙したが如く、ユーラシア大陸すべての制圧、という壮大な計画が頭の中にあって、室町幕府というちんけな存在は早めにぶっつぶして、現代社会のような国際取引や貿易を自由にできる世界をつくりあげることでした。
後年イギリスのヴィクトリア女王が帝国主義を打ち出しインドなどに進出した歴史があります。織田信長は帝国主義の走りと言えるでしょう。
織田信長の理想は帝国主義が衰退してから新たな国際社会である現代において実現されております。信長の読みは数百年先を見ていたと考えてよろしいでしょう。そばにいた従者の黒人の弥助(モザンビーク出身)を見て、アフリカ大陸まで交易を求めていたのかもしれません。
こうした遠い世界戦略を見ていた信長自身がまったく気がつかなかったのが、明智光秀の考えです。
堺屋太一著「鬼と人」を読むと、信長の考えと光秀の考えが完璧に正反対であったことがわかります。
そもそも光秀は、連歌を通じて室町幕府の諸侯と懇意になり、室町幕府の文化を高く評価していました。また、光秀は室町式作法をよく知っているという理由で信長に気に入られ、信長が足利義昭に近づく手助けをしました。これにより光秀は織田家の中で唯一作法に通じた室町文化の知識人として重宝されることになります。また戦に関しては信長が義昭とともに三好一派を討つ信長の姿勢を評価しました。
しかし、その後義昭を追放した信長が室町幕府を終了させてしまったことに光秀の幕府の栄華の夢が潰えてしまいました。
その後の信長は光秀の利用価値を丹波攻略の指揮をとらせることに使いましたが、本来歌人である光秀は戦がヘタでした。京丹波は山岳が多く山城が点在し、人員物資の輸送も困難な細い道しかありません。光秀は信長の将来がまったく理解できずに絶望し、のちに本能寺の変を起こします。
いっぽう、信長は草履とりから織田家に仕えた秀吉がやがて朝倉と浅井の挟み撃ちにあった信長の軍勢を見事に逃がした功績を讃え、秀吉を最も信頼する家臣としました。
秀吉を播磨に送ったのは、11か国を所領する毛利を攻略できると踏んだからであり、秀吉の軍を西へ西へ進めさせたのは、中国侵略の先鋒にするつもりだったのです。
信長の野望を達成するためには秀吉は不可欠な道具でした。
のちに信長が本能寺で横死したあと、光秀の軍と対決したのは秀吉と弟秀長の軍、それから織田信孝、秀吉に仕えた黒田、池田、丹羽など数万の軍勢です。山崎の戦いで1万の軍勢を率いてた光秀の軍は蹴散らかされ、光秀は逃亡し、オチ武者狩りの百姓に竹槍で刺されて深手を負ったため自害しました。山崎の戦いでは特に黒田官兵衛(孝髙)の謀略が功を奏しました。彼は竹中半兵衛に代わる秀吉の最も有能な軍師となります。
その後、秀吉は信長の長男の息子である三法師の後見人となり、実質織田家を支配することになります。
それから天下人への階段を一気にかけのぼりました。
至上初日本全国を統一した秀吉は、信長の理想を叶えるために、2度の中国侵略を行いました。(文永の役・弘安の役)
船岡山に主君織田信長の祠を作ったのは豊臣秀吉です。
つぎの仕舞2つは、織田信長と関係のある能の仕舞となります。
●仕舞「敦盛」(幸若舞)
『敦盛』(あつもり)は、幸若舞の演目のひとつ。
幸若舞とは、拍子を重んじ,扇子を持って舞うのが特徴であった。 曲舞は,猿楽の能にとり入れられると同時に,いくつかの流派に分かれ,室町中期以降,そのうちの幸若(こうわか)を名のる男舞の一派( 幸若舞 )が,『平家物語』『義経記』『曽我物語』といった軍記物を語り舞って武将たちに賞翫(しようがん)され,やがて江戸幕府に召し抱えられる。
幸若舞は、中世から近世にかけて能と並んで武家達に愛好された芸能であり、武士の華やかにしてかつ哀しい物語を主題にしたものが多くこれが共鳴を得たことから隆盛を誇った。
七百年の伝統を持ち、能や歌舞伎の原型といわれておりますが、能や歌舞伎と異なり、幕末に衰微し、現在残っているのは福岡県みやま市高瀬町大江の幸若舞保存会によって継承されている「大頭(だいがしら)流幸若舞」のみとなります。大江天満神社にて毎年1月20日に奉納されている。国指定重要無形民俗文化財。
幸若舞の『敦盛』は能にも取り入られており、本演目はその仕舞です。
仕舞(し-まい)とは能の一部を面・装束をつけず、紋服・袴のまま素で舞うこと。能における略式上演形態の一種。
●小鍛冶 キリ(曲の最後の部分)
夢のお告げを受けた一条天皇(980〜1011)の命により、勅使の橘道成は、刀匠として名高い三條小鍛冶宗近(さんじょうのこかじむねちか)のもとを訪れ、剣を打つよう命じます。宗近は、自分と同様の力を持った相鎚を打つ者がいないために打ち切れない、と訴えますが、道成は聞き入れません。進退きわまった宗近は、氏神の稲荷明神に助けを求めて参詣します。そこで宗近は、不思議な少年に声をかけられます。少年は、剣の威徳を称える中国の故事や日本武尊(やまとたけるのみこと)の物語を語って宗近を励まし、相鎚を勤めようと約束して稲荷山に消えていきました。
家に帰った宗近が身支度をすませて鍛冶壇に上がり、礼拝していると稲荷明神のご神体が狐の精霊の姿で現れ、「相鎚を勤める」と告げます。先ほどの少年は、稲荷明神の化身だったのです。明神の相鎚を得た宗近は、無事に剣を鍛え上げました。こうして表には「小鍛冶宗近」の銘、裏にはご神体が弟子を勤めた証の「小狐」の銘という、ふたつの銘が刻まれた名剣「小狐丸」が出来上がったのです。明神は小狐丸を勅使に捧げた後、雲に乗って稲荷の峯に帰っていきました。
●舞楽『胡飲酒(こんじゅ)』
ペルシャ付近にある古代中国の胡の王様の酔って踊る様子が演じられております。本来つま先あがりの靴を履きますが、拝殿の舞踏のため、足袋姿となっています。