KATOキハ58系 急行みささ・砂丘
この動画では1977年頃の急行「みささ」2号(前7両)に岡山からの急行「砂丘」2号(後3両)が津山で連結され10両編成で因美線を鳥取に向かって走る姿を再現しました。なお急行「みささ」には津山まで急行「みまさか」(大阪出発時前3両月田行き)を併結していました。当鉄道では冷房車のキハ58が足りないため、後3両急行「砂丘」は非冷房車を充当しています。
急行「みささ」は大阪~鳥取・倉吉を結ぶ急行として姫新線・因美線経由で活躍していた列車です。同路線初の優等列車でした。
東海道本線大阪駅と山陰本線上井駅(現:倉吉駅)を東海道本線・山陽本線・姫新線・因美線・山陰本線経由で結んでいました。
名称自体は1951年に姫新線・因美線経由の臨時普通列車(通過駅があり事実上の快速列車)として大阪~米子間に設定されたのが初出(所要時間は下り7時間45分、上り8時間33分)でした。1960年5月に京都~上井間に臨時の客車準急として設定され、同年10月に定期準急に昇格し大阪~上井間の運行となりました。列車名は倉吉駅が最寄駅となる「三朝温泉」からで、使用車両はキハ20系・キハ55系でした。
当初は姫新線の優等列車「みまさか」を途中の津山駅まで併結しての運行となっていました。なお、上井行きには1本のみ準急「砂丘」を補完する岡山発が設定されており、途中の津山まで月田行き「ひるぜん」を併結していました(岡山発「みささ」は1965年10月に「ひるぜん」上井行きに変更)。
また、定期準急としての運行開始から5年後には同一ルートで米子まで走る「かいけ」が登場し、「みささ」運行開始から6年後の1966年には「かいけ」とともに急行に昇格しました。
急行昇格から2年後の1968年に実施されたヨン・サン・トオ改正の際には運転区間が重複する「かいけ」と統合される形で「伯耆」に名称変更されました。統合した「伯耆」は2往復体制で、うち1往復(旧「みささ」分)では津山~上井間で岡山駅発の急行「ひるぜん」を併結。この併結運転は1972年まで継続されました。
しかし、その「伯耆」が「やくも」を補完する伯備線経由の急行名称となった事で、1975年3月10日改正にて姫新線・因美線経由の急行列車2往復に再度「みささ」の名称が使用される事となりました。その後も大阪と鳥取を結ぶ優等列車として運行されていましたが、高速バスの台頭などから本数を縮小。1982年時点では2往復ありましたが、民営化直前の1986年11月改正で鳥取で折り返す1往復のみとなりました。
民営化後の1989年には「みまさか」と共に廃止されました(これにより姫新線を走る優等列車は消滅しました)。廃止に伴い、津山以北のスジは急行「砂丘」増発分に充当。姫路~津山間は快速列車を設定して代替しました。
「みささ」廃止後は大阪と鳥取を因美線経由でダイレクトに結ぶ列車は無くなり播但線特急「はまかぜ」または山陽新幹線+急行「砂丘」ルートが使用されていましたが、5年後の1994年に智頭急行経由の特急「スーパーはくと」が運行を開始。運行開始後は「みささ」よりも長い京都~鳥取・倉吉間を走行していましたが、2024年3月16日のダイヤ改正により一部の「スーパーはくと」の運行区間が大阪発着に短縮されため、経路が一部異なるものの「みささ」と同一の始発・終着となった列車が存在しています。
※参考までに、大阪駅~鳥取駅間の所要時間は廃止直前の「みささ」で4時間54分。「スーパーはくと」が智頭急行の高規格路線や振り子式車両という技術的恩恵もあって同区間を2時間30分台と、時間だけでいえば新幹線開業並の約半分の所要時間短縮に成功しています。
ちなみに、1975年8月には期日指定(8・9・12・13日)で大阪発鳥取行きの臨時夜行急行「みささ51号」(全車指定席・グリーン車連結)が運転されていました。大阪23時11分発で、鳥取には6時33分着でした。
急行「砂丘」は、岡山~倉吉を津山線・因美線経由で結んでいた列車です。
1962年(昭37)9月1日、宇野~鳥取間を宇野線・津山線・因美線経由で結ぶ気動車準急として新設(1往復)されました。宇野~岡山間は、宇野~博多間(伯備・山陰線経由)の急行「しんじ」に併結されていました。
1966年(昭41)3月5日に急行に格上げされました。
1968年(昭43)10月1日、運転区間が鳥取から上井(現 倉吉)まで延長されました。
1972年(昭47)3月15日、運転区間が岡山~倉吉(上井)間に変更されました。
1997年(平成9)11月28日、急行「砂丘」廃止となりました。
キハ58系気動車は、国鉄が1961年に開発した急行形気動車です。
1969(昭和44)年まで大量に増備され、1960年代から1980年代にかけて幹線・ローカル線を問わず、日本全国で急行列車を中心に投入されました。
なお「キハ58系」という表現は、同一の設計思想により製造された気動車を便宜的に総称したもので、制式のものではありません。広義には北海道用の「キハ56系」、碓氷峠通過仕様(横軽・アプト式区間対策車)の「キハ57系」を含みますが、狭義の「キハ58系」はキロ28形・キロ58形・キハ28形・キハ58形・キユ25形の5形式およびこれらの改造車を指します。
キハ58系は1960年代に蒸気機関車牽引列車を置換え、スピードアップと居住性改善を図る無煙化を目的に大量製造されました。幹線・ローカル線の別なく、日本全国に気動車急行列車網を完成させた車両群です。
1970年代以降は、幹線電化の著しい進展に伴い、急行列車の電車化さらには特急列車への格上げが進められたことから、気動車急行列車は徐々にその運用域を狭め、1980年代以降は、ローカル線の普通列車用として多くが転用されました。
1987年の国鉄分割民営化時には総数の約2/3がJR各社に引き継がれ、その多くは近郊形化改造やワンマン化改造を施した上で非電化ローカル線の普通列車に運用されたり、座席のグレードアップを施して地方幹線の快速列車などに運用される一方、一部の車両は「ジョイフルトレイン」と呼ばれる団体専用列車用に改造されました。しかし老朽化や後継形式の増備、地方中核都市圏路線の電化やそれに伴う電車への置換え、および赤字ローカル路線の廃止に伴って淘汰・廃車が進行し、2020年11月30日付で保留車1両が廃車となったことにより、JRの本線上から完全消滅しました。
キハ65形気動車は、1969年(昭和44年)から1972年(昭和47年)にかけて日本国有鉄道(国鉄)が製造した急行形気動車(ディーゼル動車)です。
国鉄では1961年から急行列車用にキハ58系気動車の大量製造を行いました。このグループにおいては1960年代中期以降、冷房装置の搭載が本格化しました。しかし、キハ58系は走行用のDMH17Hディーゼルエンジンが低出力であるという根本的問題を抱えており、急勾配線区で運用される際には、走行用エンジンと冷房電源供給エンジン双方の基数確保という相反する制約にともなう、走行出力不足の問題が顕著となりました。この問題に対応するため、勾配路線へ充当されるキハ58系急行列車編成に増結してブースター的な役割を与えるに足る走行出力を確保し、かつ発電エンジンを搭載して冷房用電源確保の問題を解決する目的で、試作車のキハ91形を基本に開発されたのが本形式です。