【三重県桑名市】本多忠勝が住まいの跡…九華公園(前半)

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1 Comment

  1. お疲れ様です。
    桑名城跡こと九華公園は高校時代に一度訪れたことがあります。
    松阪城や郡山城(奈良)のイメージで来たら、石垣も低くてあまり城跡らしくないなと感じたのは覚えています。
    石垣跡が当時のままなのか、公園として整備した際のものなのかが気になりますが。
    個人的には城跡にしては石垣があまり高くないと思ったので。
    徳川四天王の一人本多忠勝や八代将軍徳川吉宗の孫松平定信の子孫が歴代城主だったことを考えると、石高はそんなには高くないが、伊勢国の玄関口故に重視されていたんだろうなと思います。
    この辺りは長島や弥富が輪中地帯つまりゼロメートル地帯である関係で洪水に悩まされていたために、度々治水工事が行われていたようですね。
    宝暦(ほうれき)年間の治水工事には薩摩藩が命じられて、財政悪化の原因にはなったみたいですね。
    外様大名の力を削ぐ目的も普請工事にはありましたから。
    幕末の戊辰戦争で幕府ゆかりの桑名藩が薩長の新政府軍と争い、会津藩と同じく罰せられたようです。
    同じ伊勢の藤堂家が新政府軍に付いた際には藩祖藤堂高虎が主君を七度替えたことから皮肉られたりしていますが(そうは言っても、藤堂高虎の徳川家康公への忠義は三河以来の譜代にも劣らないものだったからこそ、伊勢伊賀の二カ国を任せられたわけで)。
    それでは。

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