天下普請の巨城 大阪城 Osaka Castle

四半世紀ぶりに大阪城に行って来ました。
大阪城公園内の案内
0:50東外堀
4:00玉造口
5:37玉造口定番屋敷跡
6:15内堀
7:19空堀(内堀)
9:20桜門
9:53桜門桝形の巨石
10:30旧陸軍第4師団司令部庁舎(現ミライザ大阪城)
11:00本丸
12:05天守閣入場券売場
12:47金明水井戸
13:10天守閣入口
17:38天守閣最上階
26:09空堀(大手側内堀)
27:24青屋門

 大坂城/大阪城(おおさかじょう)は、現在の大阪府大阪市中央区大阪城(上町台地の先端、摂津国東成郡生玉荘大坂)にあった、安土桃山時代に築かれ、江戸時代に再築された日本の城です。別称は錦城(きんじょう/金城とも表記)です。
 「大阪城跡」として国の特別史跡に指定されています。なお、城址を含む一帯は大阪城公園として整備されています。1931年に復興された天守は博物館「大阪城天守閣」となっています。
 「太閤さんのお城」と親しみを込めて呼ばれることもありますが、1583年(天正11年)から1598年(慶長3年)にかけて豊臣秀吉が築いた大坂城(豊臣大坂城)の遺構は、現在ほとんど埋没しています。現在地表に見ることのできる大坂城の遺構は、1620年(元和6年)から1629年(寛永6年)にかけて徳川秀忠が実質的な新築に相当する修築を施した大坂城(徳川大坂城)の遺構です。1959年(昭和34年)の大阪城総合学術調査において、城跡に現存する櫓や石垣などもすべて徳川氏、江戸幕府によるものであることが確定しています。
 日本三名城の一つに数えられています(他の二つは名古屋城、姫路城、熊本城の内から挙げられる場合が多い)。
 天守は1931年(昭和6年)に鉄骨鉄筋コンクリート (SRC) 構造で、徳川時代に再建された天守台石垣の上に資料の乏しい豊臣時代の天守閣を想像し大坂夏の陣図屏風絵などを参考に模擬復興された創作物ですが、1997年(平成9年)に国の登録有形文化財となり、博物館「大阪城天守閣」として営業しています。予算の関係で戊辰戦争中の1868年2月2日(慶応4年1月9日)に焼失した本丸御殿、三重櫓11基、二重櫓8基等および太平洋戦争中の1945年(昭和20年)8月14日に焼失した三重櫓1基、二重櫓3基等を木造復元する計画はありません。
 現在は江戸時代初期から後期にかけて建てられた櫓や門、蔵など建物13棟および内堀と外堀が現存し、城跡は710,000平方メートルの範囲が国の特別史跡に指定されています。
 「おおさかじょう」の表記は、近代以降「大坂」を「大阪」と表記するように改まったため、現在は「大阪城」と表記することが多くなっています。
 上町台地の先端であるこの地のすぐ北の台地下は淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると渡辺津から京都に繋がる交通の要衝でもありました。
 戦国時代末期から安土桃山時代初期には石山本願寺がありましたが、1580年(天正8年)に石山合戦の講和直後に火災焼失しました。この石山(大坂)の地は、西日本を押さえるにも優れていたため、『信長公記』によると信長はこの立地を高く評価し、跡地にさらに大きな城を築く予定であったと言われています。
 本能寺の変の発生後、1582年(天正10年)6月の山崎の合戦後は、池田恒興が大坂に入りました。1583年(天正11年)3月の賤ヶ岳の合戦で秀吉が勝利を収めた後、同年6月、恒興を美濃国へ移し、秀吉が大坂を得ることになりました。
 1583年(天正11年)から羽柴(豊臣)秀吉によって築城が開始され、羽柴家(豊臣氏)の本拠地となりました。
 豊臣大坂城普請は四期に区分され、第一期(天正11年から13年)に本丸を、第二期(天正14年から16年)に二の丸を、第三期(文禄3年(1594年)から5年)に総構(三の丸)を、第四期(慶長3年(1598年))に馬出曲輪と大名屋敷を整備しました。
 文禄・慶長の役間の文禄5年(1596年)に行われた和議交渉に際して、明使饗応のため本丸御殿は大改修が行われました。本丸南の表御殿には「千畳敷」と称される大規模な殿舎が、またこれまで別個の御殿だった表御殿と詰の丸の奥御殿を繋ぐ「千畳敷の大廊下」も建てられました。これらの建築は慶長伏見地震で倒壊したとも言われていましたが、実際にはその後も存続していました。「千畳敷」「千畳敷の大廊下」も大坂の陣まで残り、『大坂冬の陣図屏風』『大坂夏の陣図屏風』双方に描かれています。
 一般には大坂城が豊臣政権の本拠地と解されていますが、実際には1585年(天正13年)には秀吉は関白に任ぜられ、翌1586年(天正14年)には関白としての政庁・居館として京都に聚楽第を建設して1587年(天正15年)の九州征伐からの帰還後はここに移り住み、更に関白を退いた後は京都の南郊に伏見城を築城して死ぬまで伏見において政務を執りました。ただし諸大名による年賀の挨拶は、基本的に大坂城で受けていました。
 1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が死去、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで石田三成方の西軍が敗れた結果、徳川家康によって東軍への恩賞という形でその所領が分配されたため、220万石の大大名から摂河泉65万7千400石の一大名に転落した豊臣氏でしたが、遺児の豊臣秀頼は依然として豪華絢爛たる大坂城を居城としていました。しかし、1614年(慶長19年)に勃発した大坂冬の陣において、講和条件として大坂城は惣構・三の丸・二の丸の破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまいました。秀頼は堀の再建を試みたために講和条件破棄とみなされ、冬の陣から4か月後の1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で大坂城はついに落城し、豊臣氏は滅亡しました。
 落城後の大坂城は、初め家康の外孫・松平忠明に与えられました(10万石)(大坂藩)。城そのものにはあまり手が加えられることはありませんでした。1619年(元和5年)7月、忠明は大和国郡山藩12万石へ移封となり、大坂は幕府直轄領となりました。
 翌1620年(元和6年)から2代将軍徳川秀忠によって、豊臣色を払拭する大坂城再築工事が開始されました。大坂城再築工事は主に西国大名を中心に1620年(元和6年)からの第一期工事では47大名を動員して西の丸、二の丸北部・東部、三の丸、1624年(元和10年)からの第二期工事で58大名を動員して本丸一帯を、1628年(寛永5年)からの第三期工事では57大名が動員されて二の丸南部、と実に3期足かけ9年にわたる普請によって1629年(寛永6年)に完成しました。
 幕府直轄の城である徳川大坂城の城主は徳川将軍家の歴代将軍自身であり、譜代大名から選ばれる大坂城代が預かり、近畿地方、および西日本支配の拠点となりました。他に大坂城代を補佐する定番2名(京橋口定番・玉造口定番)も譜代大名から選ばれ、旗本で編制された幕府の常備軍である大番2組(東大番・西大番)に加勢する加番4名(山里加番・中小屋加番・青屋口加番・雁木坂加番)が大名から選ばれました。城代は江戸時代を通じて70代の就任をみています。本来の城主である将軍は家光、家茂、慶喜の3名のみ大坂城に入城しています。このうち在城期間が最も長いのは家茂で、大坂城にて生涯を閉じた唯一人の将軍でした。
 江戸時代には三度の落雷による損傷と修復を繰り返しました。一度目は1660年7月25日(万治3年6月18日)、城内青屋門近くにあった土蔵造りの焔硝蔵(火薬庫)に落雷して大爆発が起き、貯蔵中の2万1985貫600匁(約82.4t)の黒色火薬のほかに、鉛弾43万1079発、火縄3万6640本が焼失しました。爆発の威力はすさまじく、城内では29人が死亡、およそ130人が負傷しました。天守や御殿、櫓、橋など、多数の建造物が損壊しました。また、青屋門の扉が城から約14km離れた暗峠まで飛ばされたとの記録(「板倉重矩公常行記」)もあります。後に幕府は現存する石造りの焔硝蔵を建造しました。二度目は1665年(寛文5年)正月2日で落雷を天守北側の鯱に受けて天守が焼失しました。天守は39年と短命でしたが、本丸の三重櫓11基は以降200余年にわたり残存しました。三度目は1783年(天明3年)10月11日で、大手多聞櫓に落雷が直撃し全焼。幕府の財政難のため再建は1845年(弘化2年)からの町人御用金による総修復まで待つこととなりました。
 江戸末期、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に発せられた王政復古の大号令の後、二条城から追われた前将軍徳川慶喜が大坂城に移り、在城していましたが、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍の敗北が濃厚になると、同年1月6日(1868年1月30日)夜、慶喜は大坂城を脱出し江戸へ退却しました。翌1月7日(1868年1月31日)には徳川慶喜征討大号令が発せられ、大坂城内に群衆が乱入。そして、新政府軍への大坂城の引き渡しが行われた1月9日(1868年2月2日)、本丸御殿の台所より出火し、本丸御殿・本丸の三重櫓11基・桜門・姫門など本丸のすべての門、山里曲輪の東菱櫓・西片菱櫓・山里門・極楽橋、二の丸の四番櫓・五番櫓・七番櫓・太鼓櫓・艮櫓・巽櫓・玉造門など城内の建造物のほとんどが焼失しました。
 明治新政府は城内の敷地を陸軍用地に転用しました。東側の国鉄城東線(現在の大阪環状線)までの広大な敷地には、主に火砲・車両などの重兵器を生産する大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)が設けられ、このため後の太平洋戦争時は米軍の爆撃目標となりました。
 1885年(明治18年)、和歌山城二の丸より御殿の一部が移築され、「紀州御殿」と命名され、大阪鎮台(後の第4師団)の司令部庁舎として利用されました。
 1887年(明治20年)以前に比定されている大坂並名古屋鎮台写真帖(宮内庁書陵部蔵)には玉造門の高麗門や西の丸の仕切門、複数の番所が写されていることから、これらの建物は戊辰戦争の戦火を免れ、明治初期、少なくとも鎮台が置かれるまでは現存していたと思われます。
 1888年(明治21年)、大阪鎮台によって本丸桜門が復元されました。
 大正時代、城周辺の公園整備計画が持ち上がりました。
 1928年(昭和3年)、当時の大阪市長、關一が天守再建を含む大阪城公園整備事業を提案し昭和天皇の即位記念事業として整備が進められました。集められた市民の募金150万円によって陸軍第4師団司令部庁舎と復興天守の建設が進められました。天守閣の基本設計は波江悌夫が行い、再建工事は1930年(昭和5年)に始まり、翌年に完成しました。この頃まで八角薪蔵や西の丸米蔵が残っていたと考えられています。
 1931年(昭和6年)、復興天守が博物館「天守閣郷土歴史館」として竣工しました。第4師団司令部庁舎も竣工し。大阪城公園が開園しました。
 1943年(昭和18年)、天守に中部軍防空情報隊(後、第35航空情報隊、司令部は桜門桝形の西側)が入りました。
 1945年(昭和20年)8月14日、第8回大阪大空襲で大きな被害を受けました。この終戦前日に行われた空襲では大阪城の東側に広がっている大阪砲兵工廠が集中的に狙われ、周辺にも1トン爆弾が多数投下されました。近隣の京橋駅もその巻き添えとなり、避難していた乗客約500人が死亡する大惨事が起きています。大阪城では1868年(慶応4年)の火災で被害を免れていた二番櫓・三番櫓・坤櫓・京橋門・京橋門多聞櫓・伏見櫓が焼失し、青屋門が甚大な被害を受けました。このとき毎日新聞大阪本社屋上から撮影された「天守閣の背景に黒煙が濛々と上がる」光景は、後に「大阪夏の陣」などとも呼ばれましたが、天守閣に関しては天守台が損傷したものの破壊を免れました。このほか、一心寺に移築されていた豊臣時代の三の丸玉造門(長屋形式の黒門)も焼失しています。

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